モンゴル帝国の建国者チンギス・ハンの死後、そのあとを継いだのは三男オゴタイ(オゴデイ)でした。
チンギスハンには正妻ボルテとの間にジョチ、チャガタイ、オゴタイ、トルイという四人の息子がい
ました。
1227年にチンギス・ハンが亡くなったとき長男ジョチはすでに死去しています。生きていた息子の中では、次男チャガタイが最年長でした。また、四男トルイは父の本営や直属軍を受け継ぎ、チンギス・ハンの死後には帝国を一時的に預かっています。
それでも1229年のクリルタイで大ハーンに選ばれたのは三男オゴタイでした。
チンギス・ハンは生前にオゴタイを後継者に指名していました。しかし、モンゴル帝国の大ハーンは、前の君主が指名するだけで決まるものではありません。王族や有力者が集まるクリルタイで承認される必要がありました。
では、なぜチャガタイやトルイではなく、オゴタイが選ばれたのでしょうか。
チンギス・ハンの息子たち
チンギス・ハンと正妻ボルテの間には、四人の男子が生まれました。
長男ジョチは西方に広大な領地を与えられ、その子孫からバトゥなどが出ています。
次男チャガタイは、モンゴルの法や慣習を重んじる人物でした。父の死後には、生きている息子の中で最年長になります。
三男オゴタイは、兄弟の意見を聞き、人との対立を和らげられる人物として伝えられています。
四男トルイは優れた武将であり、父の本営やモンゴル高原の中心地、直属の民や軍を受け継ぎました。
軍事力や父から受け継いだ財産だけを見れば、トルイは有力な候補でした。しかし、大ハーンを選ぶ際には、それだけでなく、チンギス家の各家系が受け入れられる人物かどうかも重要だったのです。
後継者問題の始まり
チンギス・ハンが後継者について本格的に考えたのは、ホラズム遠征へ向かう前だったと『元朝秘史』は伝えています。
遠征に出れば、チンギス・ハンが帰還できない可能性もあります。そこで妃のイェスイが、後継者を決めておくよう勧めました。
最初に問題となったのは、長男ジョチでした。
ジョチの母ボルテは、かつてメルキトに連れ去られ、その後に救出されています。ジョチはその直後に生まれたため、出生を疑う声が一族内にありました。
チンギス・ハンはジョチを自分の息子として扱っています。ところが、次男チャガタイは後継者を決める話し合いの場で、ジョチの出生を問題にしました。
ジョチとチャガタイは激しく言い争い、この二人のどちらかを後継者にすれば、もう一方が従わない可能性が高くなりました。チンギス・ハンにとって、帝国が息子たちの争いによって分裂する事態は避けなければなりませんでした。
チャガタイがオゴタイを推薦
『元朝秘史』では、ジョチと争ったチャガタイが、三男オゴタイを後継者にする案を出しています。
チャガタイは、自分を後継者にするよう求めたのではなく、オゴタイなら兄弟たちの意見を聞き、国を治められると考えました。ジョチもこの案を受け入れ、二人はオゴタイに仕えることを約束したとされています。
この話が史料に書かれた会話の通りに行われたのかはわかりません。それでも、オゴタイの後継者指名が、チンギス・ハンの考えだけで決まったものではなく、ジョチとチャガタイの合意を伴っていたことは重要です。
オゴタイは、長男と次男の対立を避けるための候補であると同時に、兄弟の誰からも強く拒まれにくい人物だったのでしょう。
オゴタイは兄弟をまとめやすい人物だった
オゴタイが選ばれた理由は、温厚だったからだけではありません。
彼には遠征の経験があり、軍の指揮も任されていました。ホラズム遠征におけるグルガンジ攻略では、ジョチとチャガタイの対立が作戦に影響したため、オゴタイが指揮を任されたと伝えられています。
オゴタイは、軍事面でトルイほど高く評価されていたわけではありません。それでも、自分ですべてを決めようとせず、有能な武将や官僚に仕事を任せられる人物でした。
広大なモンゴル帝国を治める大ハーンには、一人で戦争に勝つ能力よりも、王族や将軍たちを同じ方針に従わせる能力が必要でした。
チンギス・ハンは、四人の中で最も強い息子ではなく、帝国をまとめやすい息子を選んだと考えられます。
チンギスハンの死後はトルイが帝国を管理
1227年にチンギス・ハンが亡くなるとオゴタイがすぐに大ハーンになったわけではありません。
新しい大ハーンが決まるまで末子トルイが監国として帝国を預かりました。トルイは父の本営、モンゴル高原の中心地、直属の民や軍を受け継いでいます。
チンギス・ハンの息子たちに与えられた領地の中でもトルイが受け継いだモンゴル本土は特別な意味を持っていました。トルイには大ハーンになるだけの軍事力があり、父の死後には実際に帝国の政務を担当しています。
それでもトルイは大ハーンとは名乗りませんでした。
「囲炉裏の主」は皇位継承者ではない
トルイは末子として「囲炉裏の主」と呼ばれる立場にありました。
遊牧社会では、年長の息子たちは成長すると家畜や民を与えられ、父母のもとから離れて暮らします。末子は父母の近くに残り、父の死後には本営、家畜、直属の民、軍などを受け継ぎました。
この末子相続を日本語では「囲炉裏の主」や「炉端を守る者」と表すことがあります。
ただし、末子が受け継ぐのは、父の家産や本営です。帝国全体を治める大ハーンの地位まで自動的に受け継ぐ決まりではありませんでした。
つまりトルイは、チンギス・ハンの家を継ぐ者でしたがモンゴル帝国の君主になると決まっていたわけではなかったのです。
なぜチャガタイは大ハーンにならなかったのか
チンギス・ハンの死後、生きている息子の中で最年長だったのはチャガタイです。
年長者としてクリルタイを主導し、自分が大ハーンになる道も考えられそうです。しかし、モンゴル帝国には、長男や最年長者が自動的に大ハーンになる決まりはありませんでした。
さらにチャガタイは、生前の後継者会議で自らオゴタイを推薦しています。ジョチもその案を受け入れていました。
チンギス・ハンが亡くなり、ジョチもすでに死去していたからといって、チャガタイが自分の即位を求めれば、かつての約束を自ら破ることになります。
ジョチ本人が亡くなった後も、ジョチ家は消えていません。息子のバトゥをはじめとする王族が、広大な領地と軍を受け継いでいました。
チャガタイは、かつてジョチの出生を公然と問題にした人物です。そのチャガタイが大ハーンになれば、ジョチ家が反発する可能性がありました。
一方のオゴタイは、ジョチ自身が後継者として受け入れた人物です。ジョチ家にとっても、チャガタイよりオゴタイの方が認めやすかったのでしょう。
1229年のクリルタイでオゴタイが選ばれた
チンギス・ハンの死から約二年後の1229年、王族や有力者が集まり、クリルタイが開かれました。
ここでオゴタイが大ハーンに選ばれます。
この結果を、亡くなったチンギス・ハンの命令に全員が従っただけと考えると、当時の事情を十分に説明できません。
オゴタイが即位するには、最年長のチャガタイ、監国としてモンゴル本土を預かっていたトルイ、ジョチ家を代表する王族、有力な将軍たちの承認が必要でした。
チャガタイは自分が大ハーンになるより、オゴタイを推す側に立ちました。トルイもオゴタイを承認し、父から受け継いだ親衛軍や中央の民を新しい大ハーンに引き渡しました。
こうしてオゴタイは、チンギス・ハンの指名だけでなく、生きている王族たちの合意によって大ハーンになったのです。オゴタイが1229年のクリルタイで選出され、トルイの監国が終わったことは史料から確認できます。
トルイが自ら即位すれば争いが起きた可能性がある
トルイが大ハーンになる可能性がまったくなかったとはいえません。
トルイは父の本営と強力な軍を持ち、チンギス・ハンの死後には帝国を預かっていました。軍事面でも高く評価されていたため、自分の即位を求めることはできたかもしれません。
しかし、トルイが大ハーンを名乗れば、オゴタイ家やチャガタイ家との争いが起きる可能性があります。チンギス・ハンがオゴタイを選んだという事実も、トルイにとって大きな障害でした。
クリルタイに集まる将軍たちの多くは、チンギス・ハン自身に取り立てられた人物です。彼らが、亡き君主の明確な希望を無視してトルイを選ぶとは限りません。
トルイは、父の本営を受け継ぐ末子として大きな力を保ちながら、オゴタイの即位を認めました。これは力がなかったためというより、王族の争いを避け、父の時代に決まった合意を守った結果だったと考えられます。
チャガタイがオゴタイ即位を支えた理由
チャガタイは、大ハーンになれなかった人物というより、オゴタイを大ハーンにした最年長の王族と見る方が実情に近いでしょう。
オゴタイを支持すれば、チャガタイは父の決定と兄弟間の約束を守った人物になります。また、最年長の兄として、新しい大ハーンに強い発言力を持つこともできました。
実際にオゴタイは、兄チャガタイを尊重しています。重要な政策や遠征について、チャガタイの意見を求めることもありました。
チャガタイにとっては、自分が大ハーンとなってジョチ家やトルイ家と争うより、オゴタイを支えながら王家の最年長者として影響力を保つ方が現実的だったのでしょう。
チャガタイ本人の内心について詳しい記録はありません。それでも、1229年にチャガタイがオゴタイの即位を妨げたという確かな話はなく、オゴタイ政権を支える側にいたことは確認できます。
トルイ家は後に大ハーンの地位を手に入れた
トルイ本人は大ハーンになりませんでした。しかしトルイ家の力が失われたわけではありません。
トルイの妻ソルコクタニ・ベキとの間には、モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケが生まれています。
長男モンケは1251年に大ハーンとなり、トルイ家がモンゴル帝国の中心を担う時代が始まりました。
クビライも大ハーンを名乗り、後に国号を大元と定めます。フレグは西アジアに遠征し、その子孫はイルハン国を治めました。
トルイ本人は父の後継者になりませんでしたが、その子孫はモンゴル帝国各地で大きな勢力を持つことになります。
まとめ
チンギス・ハンの後継者にオゴタイが選ばれたのは、父が指名していたからだけではありません。
長男ジョチと次男チャガタイには深い対立があり、どちらかを選べば兄弟の争いが起きる可能性がありました。そこでチャガタイがオゴタイを推薦し、ジョチも同意しました。
チンギス・ハンの死後には、トルイが監国として帝国を預かります。しかし、「囲炉裏の主」が受け継ぐのは父の本営や家産であり、大ハーンの地位ではありません。
1229年のクリルタイでは、チャガタイが最年長の王族としてオゴタイを支持し、トルイも即位を認めました。ジョチ家や有力な将軍たちも受け入れたことで、オゴタイは正式に大ハーンとなったのです。
チンギス・ハンの指名は、オゴタイに正統性を与えました。そして、その指名を実際の即位につなげたのは、チャガタイ、トルイ、ジョチ家を含む、生きていた王族たちの合意でした。
トルイは大ハーンになる力がなかったのではなく、父の家を継ぐ末子として強い立場を持ちながら、兄弟間の争いを避ける選択をしたと考えられます。
表記は一般的な「オゴタイ」で統一しましたが、検索語を意識してタイトルや見出しに「オゴタイ」を併記する形にも変更できます。
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