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チンカイの生涯 チンギス・カンからグユクまで仕えた書記官

チンカイは、チンギス・カンの苦難の時代から仕え、軍人や書記官、裁判官を経てモンゴル帝国の最高官僚にまで上り詰めた人物です。

出自には複数の説があり、鎮海城の建設やローマ教皇への国書作成にも関わる一方、晩年には政争によって処刑されました。

この記事では、チンカイのプロフィールや家族、功績、三代のカアンに仕えた生涯を紹介します。

この記事で分かること

  • チンカイの出自や宗教、家族などの基本プロフィール
  • チンギス・カンに仕え、最高書記官になるまでの経歴
  • 鎮海城の建設や行政、外交で果たした役割
  • 失脚から復帰、モンケ即位後に処刑されるまでの経緯

 

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チンカイとはどんな人?

チンカイのプロフィール

名前:チンカイ(別表記:チンハイ、漢字表記:鎮海、漢風の名前:田鎮海)
ペルシア語史料での呼称:チーンカーイ・ビーチクチー
生年:1169年ごろ
没年:1252年(83歳ごろに死去)
出身地:不明
出自:ケレイト人、ウイグル人、オングト人などの諸説あり
宗教:ネストリウス派キリスト教
主君:チンギス・カン、オゴデイ、グユク
主な役職:軍伍長、百戸長、書記官、ヤルグチ(裁判官)、ウルグ・ビチクチ(最高書記官)、中書右丞相

家族構成

チンカイには二人の妻がいました。

第一夫人:チンギス・カンから与えられた女性
第二夫人:オゴデイから与えられた女真族の公主
子ども:少なくとも10人の子どもがいました。長男は父と同じくヤルグチ(裁判官)になったヤシュムトです。他にも、ヨセフ、バッカス、ゲオルギオスといった、キリスト教に由来する名前を持つ息子たちが知られています。

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チンカイの出自と謎に包まれた前半生

チンカイは1169年ごろに生まれたとされていますが、その出生地や両親についてははっきりとした記録が残されていません。

彼の出自については、当時の史料によって記述が分かれています。中国の史料である『元史』では「ケレイト部族の出身」と書かれている一方、ペルシア語の史料である『集史』では「ウイグル部族の出身」とされています。これとは別に、オングト人とする説も存在します。

歴史研究者の村上正二氏は、チンカイについて「ケレイト部族の中で活動していたウイグル人の商人」という見方を示しました。この考え方に従うと、ケレイトはチンカイが所属していた政治集団を指し、ウイグルは彼自身の民族的なルーツを示していたことになります。

若いころのチンカイは、商人として働いていたとも、チンギス・カンの前身であるテムジンの密偵(スパイ)をしていたともいわれます。のちに彼が中国方面とモンゴル高原北部を結ぶ大規模な交易に関わっていることを考えると、若いころから商業の経験や知識を持っていた可能性は十分にありますね。

また、チンカイはネストリウス派と呼ばれるキリスト教の熱心な信者でした。先ほど紹介した息子たちの名前(ヨセフやゲオルギオスなど)からも、家庭内でキリスト教の信仰が大切に受け継がれていた様子が伝わってきます。

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チンギス・カンへの忠誠と書記官への道

苦難をともにした「バルジュナの功臣」

チンカイは、最初は数人の兵を率いる「軍伍長」としてテムジン(のちのチンギス・カン)に仕え始めました。

1203年、テムジンは強敵であるケレイト部族との戦いに敗れ、モンゴル高原の北東部にあるバルジュナ湖のほとりへと逃げ延びます。このときテムジンのそばに残り、湖の濁った水を分かち合って忠誠を誓い合った一握りの部下たちは、のちに「バルジュナの功臣」として帝国でとても重んじられました。チンカイも、この苦難をともに乗り越えた功臣の一人です。

同じ年には、さらに西にいたナイマン部族との戦いにも加わり、立てた手柄によってチンギス・カンから良い馬を授けられています。

そして1206年、テムジンが初代カアン「チンギス・カン」として即位する高官会議(クリルタイ)にも、チンカイは誇らしく並びました。このころには「百戸長」という、より多くの兵士や領民を管理する立場に昇進しています。

 

書記官と裁判官としての活躍

モンゴル高原が統一されると、チンカイは戦場での武功から一転して、宮廷の文書行政を担う中心人物へとシフトしていきました。

モンゴル語では書記官のことを「ビチクチ」と呼びます。チンカイはウイグル文字に習熟しており、これを使って君主の命令を書き残す実務に深く関わりました。帝国がどんどん大きくなるにつれて、誰にどのような命令を下したのか、税金や戦利品がどれだけ集まったのかを記録することが、とても重要になってきたからです。

さらに、彼はカアンの身の回りを世話する侍従(ケシク)を務めながら、裁判官である「ヤルグチ」として、モンゴル帝国の初代最高裁判官であるシギ・クトクをサポートしました。カアンの意向を正確な公文書にし、そのルールに則って人々の争いごとを解決する、今でいう法律家のような役割を担っていたようです。

 

軍事と貿易の要、鎮海城(チンカイ・バルガスン)の建設

1212年、チンカイはアロハンと呼ばれる地域で「屯田(兵士に農業を行わせること)」をするよう命じられアルタイ地方に大きな城を築くことになりました。

この城は彼の名前にちなんで「チンカイ・バルガスン(漢字では鎮海城)」と呼ばれました。

城を建てるにあたってはモンゴルが当時戦っていた金国(中国北部の王朝)の遠征で捕らえられた優れた職人たちが集められました。城の中では農業だけでなく、鉄を加工して武器を作る仕事も行われ前線で戦う兵士たちに食料や兵器を補給する重要な基地として機能したと考えられています。

当時の南宋(中国南部の王朝)からモンゴルに派遣された使者である彭大雅と徐霆はその記録『黒韃事略』の中で、「チンカイは中国とモンゴル高原北部を結ぶ交易ルートから、個人的に大きな利益を得ていた」と書いています。

鎮海城は軍事要塞というだけではなく商人たちが行き交う豊かな貿易の拠点でもあったのですね。

この城があったのは現在のモンゴル国ゴビ・アルタイ県にある「ハルザン・シレグ遺跡」ではないかと推測されています。

 

丘長春の西遊記をガイドする

チンギス・カンが中央アジアへ遠征していたころ、彼は中国の全真教という道教の指導者である「丘長春(長春真人)」を自分の陣営に招きました。

丘長春は西へ旅をする途中でチンカイが築いた鎮海城に立ち寄り彼と対面します。チンカイは高名な道士を無事に君主のもとへ送り届けるため、ここからの過酷な旅に同行して先導役を務めました。

この旅の様子は丘長春の弟子たちが書いた旅行記『長春真人西遊記』に記録されています。

チンカイ自身はキリスト教を信じていましたが違う宗教にも誠実に向き合い、道案内という大役を果たしました。彼の柔軟な人柄が垣間見えるエピソードです。

 

金朝との激戦と職人たちの管理

1215年には金朝の首都 中都(現在の北京)の攻略作戦に加わり、その功績で土地を与えられています。

さらにオゴデイが率いた金朝遠征にも従軍。黄河の南にある河中や河南、鈞州、蔡州といった各地の拠点を次々と攻め落とす戦いで力を発揮しました。これらの貢献が認められ、恩州という場所に領地(千戸)を与えられたほか、遠征で獲得した西域や汴京(開封)の技術を持った職人たちを直接管理する役職を命じられました。

征服した土地から優秀なエンジニアをスカウトして国のインフラや軍備を強化する仕事にチンカイの能力が必要だったことが分かります。

 

オゴデイ時代の活躍

オゴデイ政権のトップ官僚へ

1229年。2代カアンとしてオゴデイが即位すると、チンカイは宮廷書記局の最高責任者に任命されました。

モンゴル語では「ウルグ・ビチクチ」、中国風の役職名では「中書右丞相」という宰相クラスの地位です。

チンカイは新たに建設された帝国の首都カラコルムに置かれた政府機関(書記局)を実質的に任され、各地から集まった多様なエリート官僚たちを統率しました。

  • マフムード・ヤラワチ:中央アジア出身のムスリム官僚
  • 耶律楚材(やりつそざい):契丹系(遼の皇族出身)の儒学者
  • 粘合重山(ねんごうちゅうざん):金朝出身の官僚

彼らは出身も話す言葉も信仰する宗教もバラバラでしたが、チンカイは彼らの上に立って政務をスムーズに進めました。

カアンが発行する命令文書(詔勅)はチンカイが最後にウイグル文字で確認のサイン(添え書き)をして、彼が預かっている国の印章を捺してはじめて正式な法律としての効力を持ちました。

また、彼は滅亡した金朝の財産や物資を詳しく調べ上げてリストを作るなど、国のベースとなる財政や戸籍の管理といった極めて緻密な官僚作業をやり遂げました。

 

西方の政治にも関わる広い視野

1236年、チンカイは現在のシベリア方面にいたクルグズという人物をペルシア方面(ホラーサーン地方)の「ダルガチ(地方行政官)」に推薦しました。

ダルガチは占領地で税金を集めたり住民を監視したりする重要な地方官です。チンカイは政敵の攻撃からこのクルグズを庇って中央アジアや西アジアの人事にも深く関りました。

摂政ドレゲネと対立して失脚

1241年。オゴデイが急逝すると、帝国の政治は急変します。オゴデイの第六皇后だあったドレゲネが摂政(監国)として実権を握り、自分の思い通りの政治を行おうとしたのです。

ドレゲネは自分が信頼するファーティマ・ハトゥンを側近として採用しオゴデイ時代を支えてきた官僚たちを煙たがって追い出そうとしました。

このあおりを受けてチンカイも長年務めた中書右丞相の地位を奪われてしまいます。

身の危険を感じたチンカイは同僚のマフムード・ヤラワチとともにオゴデイの次男で実力者であったコデンのもとへと逃げ込みました。

コデンは二人を快く匿いドレゲネの追及から守ってくれました。チンカイはコデンの陣営で耐え忍びながら、再び表舞台に立てる日を待つことになります。

 

グユクの時代に復帰

グユクの即位で呼び戻される

1246年、ドレゲネの息子グユクが3代カアンに即位すると事態は好転します。グユクは母の側近たちを退けオゴデイ時代の旧臣たちを呼び戻しました。

チンカイも中書右丞相に復帰します。

グユクは体が弱く病気がちだったため、実際の国の政治はチンカイともう一人の重臣であるカダクの二人に任されました。

ローマ教皇の使節との面会

1246年。ローマ教皇インノケンティウス4世が派遣したイタリア人修道士、ジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネがカラコルムの宮廷に到着。

カルピネはグユクの戴冠式を見届けたあとローマ教皇からの手紙を渡しました。グユクはこれに対して「ローマ教皇をはじめとするヨーロッパの王たちは、全員モンゴルに降伏して挨拶に来い」という返事(国書)を書かせます。

この世界史的にも非常に有名なラテン語の国書(ペルシア語で書かれた草案から翻訳されたもの)の作成を裏で取り仕切ったのがチンカイでした。

チンカイはキリスト教のネストリウス派を信仰していましたが、ローマ教会の権威を重んじることはなく、あくまでグユクに仕える大臣の職務として服従を求める文書を作成しました。

ネストリウス派はローマ教会の前身アタナシウス派によってローマ帝国から追放された歴史がある。そのためネストリウス派にとってローマ教皇は崇拝の対象にはならない。むしろ仇敵ですらある。

 

チンカイの最後

しかし彼が仕えたグユクは、即位からわずか2年後の1248年に亡くなってしまいます。

再びグユクの皇后オグルガイミシュが摂政となって政治を行いますが、1251年にはチンカイを長年保護してくれたコデンも亡くなってしまいました。

1251年、モンゴル帝国の最高権力をめぐってオゴデイ・チャガタイ派とトルイ・ジョチ派が対立。最終的にはトルイ・ジョチ派が勝ってトルイの長男モンケが4代カアンに即位しました。

新カアンとなったモンケは自分たちの即位に反対したオゴデイ家やチャガタイ家の王族、そして彼らに味方した官僚たちを粛清し始めます。

長年オゴデイ家を支えグユク政権の顔であったチンカイも、新政権からは「敵対グループのリーダー」と見なされてしまいました。

1252年、チンカイは反逆の罪を問われ、処刑されてしまいました。年齢は83歳前後だったとされています。

グユクの皇后であったオグルガイミシュも同じ時期に処刑されました。一説には、かつての同僚やライバルであったダーニシュマンド・ハージブという人物の意向が、チンカイの処刑に強く働いたともいわれますが、詳しい真相は今も闇の中です。

半世紀以上にわたって国に尽くした大ベテランの政治家としては、あまりにも寂しい最期でした。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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