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モンゴル帝国とは?『天幕のジャードゥーガル』の時代とは?

アニメ『天幕のジャードゥーガル』は、13世紀のモンゴル帝国を舞台にした作品です。

主人公のシタラは、現在のイラン北東部にあった都市トゥースで暮らしていました。しかし、モンゴル軍の襲撃によって故郷を失い、捕虜としてモンゴル高原へ連れていかれます。

シタラを待っていたのは、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイの妃ドレゲネでした。シタラは亡き主人の名を受け継いでファーティマと名乗り、ドレゲネのもとで知識を生かしていきます。

作品を見ていると、モンゴル軍はなぜ遠く離れたイランまで来たのか、捕虜が皇帝の妃に仕えることがあったのか、ドレゲネのような女性がなぜ政治に関われたのか、気になる人も多いでしょう。

ここでは、『天幕のジャードゥーガル』を楽しむために知っておきたいモンゴル帝国の基本を紹介します。

※本記事は作品の設定や今後の展開に触れています。

この記事で分かること

  • モンゴル帝国が建国され、各地へ領土を広げた流れ
  • モンゴル軍が強かった理由と残酷といわれる背景
  • オゴタイやドレゲネ、ファーティマが生きた時代
  • モンゴル帝国と元の違い、その後の分裂までの歴史

 

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モンゴル帝国とはどんな国?

モンゴル帝国は、1206年にチンギス・ハンが建国しました。正式な国名は大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)

モンゴル部の族長だったテムジンはモンゴル高原で争っていた諸部族を従え、各部族の有力者が集まるクリルタイで君主に選ばれチンギス・ハンと名乗ります。ここからモンゴル高原の外へ向かう征服が始まります。

チンギス・ハンと息子たちは、中国北部を支配していた金、西夏、中央アジアのホラズム朝などを攻めました。その後、孫の世代までに支配地はイラン、ロシア、東ヨーロッパ、中国南部へ広がります。モンゴル帝国は、中国から中央アジア、イラン、南ロシアまでを含む巨大な国になりました。

遊牧民が築いた国という印象がありますが、モンゴル帝国には草原だけでなく、農村、都市、港、交易路も含まれていました。暮らす人々の言語や宗教もさまざまです。

モンゴル人は人口では少数でした。そのため、各地の官僚、商人、宗教者、通訳、技術者を利用しながら、広い支配地を治めていったのです。

 

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『天幕のジャードゥーガル』はモンゴル帝国のいつの時代?

『天幕のジャードゥーガル』の中心となるのはモンゴル帝国の初期。13世紀の中頃。チンギス・ハンの三男オゴタイが第2代皇帝として収めていた時代が中心です。

チンギス・ハンは1227年に亡くなりました。皇帝が決まるまでの間、末子トルイが監国となり国政を担当。1229年にオゴタイが皇帝に選ばれます。オゴタイは父が始めた征服を受け継ぎ中国北部、イラン方面、ロシア、東ヨーロッパへ軍を派遣しました。

作品の主人公シタラ(ファーティマ)は、チンギス・ハン時代のモンゴル軍によってトゥースから連れ去られました。その後、モンゴル高原へ移されオゴタイの妃ドレゲネに仕えるようになります。

史実のファーティマもイラン北東部のマシュハド周辺でモンゴル軍に捕らえられ、後にドレゲネの側近となった人物です。ただしシタラという少女の生い立ちや、亡き主人の名を受け継ぐ設定は作品独自の物語です。

『天幕のジャードゥーガル』は、1219年に始まったホラズム朝遠征から、1246年にグユクが即位するまでの時代と深く関係しています。

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モンゴル帝国の簡単な年表

ファーティマとドルゲネが活躍した時代を中心に、モンゴル帝国の簡単な年表を紹介。

1206年のチンギス・ハンによる建国から、その後の息子や孫たちが中国、中央アジア、イラン、ロシア、東ヨーロッパへ支配地を広げた時代。そして元が中国から撤退する時代まで

 

モンゴル帝国の出来事 解説と『天幕のジャードゥーガル』との関係
1206年 テムジンがモンゴル部族の王になりチンギス・ハンを名乗る。
大モンゴル国を建国。
作品開始より前。オゴタイはチンギス・ハンの三男として育ちます。
1211年 チンギス・ハンが中国北部を支配していた金への攻撃を本格化させます。 モンゴル軍が周辺諸国へ進出していた時期です。
1219年 チンギス・ハンが中央アジアのホラズム朝へ遠征を始めます。 作品の背景となるモンゴル軍の西方侵攻が始まります。
1220~1221年ごろ モンゴル軍がホラーサーンに侵攻。メルヴ、ニーシャープール、トゥース周辺を攻撃。 シタラが暮らしていたトゥースが攻撃され、モンゴル軍の捕虜になる。史実のファーティマもモンゴルのホラズム朝遠征の際に捕らえられたと伝わります。 
1227年 チンギス・ハンが西夏遠征中に死去。末子トルイが一時的に国政を預かります。 オゴタイが次の皇帝になる前の時期です。
1229年 クリルタイでオゴタイが第2代カアンに選ばれます。 作品の主要な舞台となるオゴタイ時代が始まります。ドレゲネはオゴタイの有力な妃として登場します。
1232年 金の遠征から戻る途中にトルイ死去。 ファーティマ(シタラ)の最大の復讐相手がいなくなる。
1234年 モンゴル帝国と南宋の連合軍が金を滅ぼします。 オゴタイが父の時代から続いていた金との戦いを終わらせます。
1235年ごろ オゴタイがカラコルムを帝国の政治拠点として発展させます。駅伝制度や税の制度も整備します。 シタラたちが暮らすモンゴル皇族の宮廷が大きくなります。
1236~1242年 バトゥやスブタイがロシア、ポーランド、ハンガリー方面へ遠征します。 オゴタイの命令でモンゴル軍が東ヨーロッパまで進出した時期です。
1241年 オゴタイが死去。新しい皇帝はすぐには決まらず、後継者争いが始まります。 ドレゲネが政治に関わるきっかけになります。
1242~1246年 ドレゲネが監国となり政治を主導。息子グユクの即位を目指します。 ドレゲネとファーティマが大きな権力を持つ時期です。
1246年 ドレゲネの長男グユクが第3代カアンに即位。 ドレゲネの監国が終わります。ファーティマはグユクの弟コデンを呪った疑いをかけられ処刑。 
1251年 トルイの長男モンケが第4代カアンに即位。 帝国の主導権がオゴタイ家からトルイ家へ移ります。
1260年 モンケの死後、弟のクビライとアリクブケが皇帝位を争います。 モンゴル帝国を一人の皇帝がまとめることが難しくなっていきます。
1271年 クビライがモンゴル・中国方面を統治、国号を「大元」と定めます。 モンゴル帝国は皇帝が全体を支配することが不可能になり分裂。
1279年 元が南宋を滅ぼし、中国全土を支配します。 モンゴルによる中国支配が完成します。
1368年 明が大都を占領、元の皇帝がモンゴル高原へ退きます。

元の中国支配は終わりますが、モンゴル高原では引き続き大元の支配が続きます(この時代を北元ともいいます)。

1509年ごろ ダヤン・ハーンによるモンゴル再統一

分裂状態にあったモンゴル高原の諸部族が統一されます。

1634年 最後のハーン エジェイが後金に降伏。

独立国としてのモンゴルは滅亡。以後は清の一部になります。

 

モンゴル軍はなぜ強かったのか?

モンゴル軍は連戦連勝を重ね凄まじい勢いで支配領域を広めました。なぜこんなに強かったのでしょうか?

機動力が高い

まずモンゴル軍は機動力が違います。

モンゴル兵は一人で複数の馬を連れて遠征しました。乗っている馬が疲れると別の馬へ乗り換えるため、長い距離を高速で移動できます。

騎馬兵は馬に乗ったまま弓を放ちました。敵が追ってきたときには、退却しているように見せて敵の隊列を伸ばし、待ち構えていた別の部隊とともに攻撃する戦法も使います。狙った敵は集団で包囲してみんなで取り囲んで叩きます。

規律が厳しい

モンゴル軍は規律が厳しいです。上位の者の命令は絶対で違反すれば死罪などの厳しい処罰が待っていました。規律正しいからこそ、上記のような集団戦法もとれるのです。

効率優先

モンゴル軍は意味のない戦闘や虐殺はしません。効率やスピード優先だからです。相手が降伏して奪える物を奪ったら撤退します。逆に手強い、強いと思ったら無理な攻撃はしません。勝てる所を狙います。

モチベーションが高い

モンゴル軍はモチベーションが高いです。みんなで決めた攻撃目標の戦利品は山分けですが、それ以外の途中にある町を略奪したら戦利品はその部隊の物。なので遠征途中の各部隊は日程が許せば途中の町を襲って略奪します。これはイスラム帝国が急速に範囲を広げた方法と似ています。

情報をしっかり集める

モンゴル軍は戦う前に、道、川、食料、城壁、敵軍の人数を調べました。商人や使者、降伏した住民からも情報を集めます。遠くの地域へ攻めるときほど土地の情報が重要になりました。交易範囲の拡大を目論むイスラム商人はモンゴルに協力して情報を提供しました。

新しい技術も使う

モンゴル軍は騎馬隊が中心ですが。城を攻める際には中国や中央アジアの技術者を使いました。投石機などの兵器を使って城壁を壊し地下道を掘る場合もあります。

征服した土地の兵士や専門家が次の遠征へ参加させられることもありました。モンゴル軍は、自分たちが持っていなかった技術を各地から取り入れ、別の戦場で利用する柔軟さがありました。

以上のような要素が集まりモンゴル軍は強かったといえます。

 

モンゴル軍は残酷だったの?

モンゴル軍には都市を破壊して住民を大量に殺した軍隊というイメージがあるかもしれません。実際に、ホラズム・シャー朝への遠征ではメルヴやニーシャープールなどが攻撃を受け、多くの住民が命を失いました。『天幕のジャードゥーガル』で描かれるトゥースの惨状もこうしたモンゴル軍の攻撃をもとにしています。

でもモンゴル軍は出会った町をすべて無条件に滅ぼしているわけではないのです。モンゴル軍は攻撃の前に使者を送り、服従と貢納を求めました。早く降伏した都市は住民の命や財産を守られます。でも降伏を拒んだり、使者を殺したり、反乱を起こした都市には住民の殺害を含む厳しい報復が行われました。

これには周辺の都市を戦わずに従わせる目的がありました。一つの都市を徹底的に破壊すれば、その噂を聞いた次の都市は抵抗を諦めるかもしれません。モンゴル軍は数は少ないですし長期間の戦いは不利だと分かっています。限られた兵力で広い地域を征服するため「恐怖」を武器として利用した面もあります。

また残酷のイメージが広がったのは被害を受けた側の記録も関係しています。イスラム世界や東ヨーロッパ、中国の歴史家は都市の破壊と虐殺を詳しく書き残しました。ただし、一つの都市で百万人以上が殺されたのは当時の人口から考えてもありえない数字ですし。被害が誇張されているのは確かです。

彼らは自分たちの弱さや不手際をごまかすためにもモンゴル軍を常識離れした凶悪な敵にしておく必要もあったでしょう。

虐殺と言うならヨーロッパや中国王朝の国々もよく行います。モンゴルだけが残酷だったわけではありません。征服者が虐殺を行うのは大陸の国なら何処も同じです。

違うのはモンゴル軍は記録をあまり残さないが、ヨーロッパやイスラム、中国は文字を残すことです。こうしてモンゴル軍が残酷というイメージが後世まで残ることになったという事情もあります。

 

モンゴル帝国は広い領土をどう治めたのか?

モンゴル皇族は、征服した地域の役人や専門家を使って広い領土を治めました。

中国では中国人や契丹人、中央アジアではウイグル人やテュルク系の人々、イランではペルシア人の書記や官僚が働きました。読み書き、計算、税の徴収、複数の言語による交渉ができる人は、帝国の運営に必要だったのです。

オゴタイは、各地に駅を設ける制度を本格的に広げました。駅には馬、食料、宿泊場所が用意され、皇帝の使者は駅ごとに馬を乗り換えて移動しました。

この制度はヤムと呼ばれます。ペルシア語史料によると、オゴタイ時代の1234年ごろに、帝国内へ定期的な駅が設けられました。

ヤムを使うことで、皇帝の命令、軍の報告、税に関する文書を遠くへ届けやすくなります。モンゴル高原と中央アジア、イラン、中国の間を人や情報が移動しました。

商人も広い地域を移動しました。中国の絹や陶磁器、中央アジアの馬、イランの織物や金属製品などが各地へ運ばれます。職人や画家も別の土地へ移されたため、中国、中央アジア、イランの技術や意匠が互いに影響を与えました。

交易が盛んになった地域がある一方で、戦争によって都市や農地を失った地域もあります。モンゴル帝国の時代には、地域同士の往来が増えたことと、征服を受けた住民が大きな負担を負ったことが同時に起きていました。

 

モンゴル帝国では女性も権力を持った

モンゴル帝国の后妃は自分のオルドを持っていました。中国王朝の後宮を想像するかも知れませんが。それよりももっと独立したひとつの宮殿と組織になっています。

后妃のオルドには家畜、天幕、財産、従者、職人、捕虜が所属します。后妃はそれらを管理して収入を得ていました。

皇帝や皇子が遠征へ出た際には、后妃が留守を預かることもあります。皇帝が亡くなった後は新しい皇帝が決まるまで皇后や皇太后が国の政治を担当する場合もありました。

ドレゲネは、オゴタイの有力な妃でありグユクの母です。

1241年にオゴタイが亡くなるとドレゲネは監国となりました。ドレゲネは息子グユクを皇帝にするため、反対する皇族や役人を退け、自分に従う人物を登用します。

ドレゲネの側近として大きな力を持った人物がファーティマです。ジュヴァイニーの記録では、ファーティマはマシュハド周辺で捕らえられた女性で、ドレゲネの信頼を得て、帝国の政治にまで関わりました。

1246年にグユクが即位すると、ファーティマはグユクの弟コデンを呪術で害した疑いをかけられます。その後、ファーティマは厳しい取り調べを受け、処刑されました。

『天幕のジャードゥーガル』は、捕虜となった少女がドレゲネの宮廷へ入り、知識によって信頼を得ていく過程を描いています。史実で大きな権力を得たファーティマへ、シタラがどのように近づいていくのかが作品の重要な部分なんですね。

 

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オゴタイの時代

『天幕のジャードゥーガル』でファーティマがモンゴルの宮廷で生きているのはオゴタイの時代です。オゴタイは、チンギス・ハンの三男。

チンギス・ハンは長男ジョチと次男チャガタイの対立を避けるため、三男オゴタイを後継者に選びました。チンギス・ハンが1227年に亡くなった後、末子トルイが国政を預かり、1229年のクリルタイでオゴタイが第2代カアンに選ばれました。

オゴタイは父が始めた征服を続けました。

中国方面では1234年に金を滅ぼします。イラン方面では将軍チョルマグンを派遣し、ホラズム朝の残存勢力を追わせました。チョルマグンの軍はアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア方面にも進みます。

西方では、ジョチの子バトゥと将軍スブタイがロシア諸公国を攻め、ポーランドやハンガリーまで進みました。

オゴタイはカラコルムに宮殿を造り、皇帝の政治拠点としました。駅伝制度を広げ、税を集める役人も置いています。

チンギス・ハンが征服によって国の範囲を広げた人物なら、オゴタイは征服を続けながら、広くなった国を治める仕組みを増やした皇帝です。

『天幕のジャードゥーガル』では、オゴタイ本人だけでなく、妃のドレゲネ、皇子たち、役人、捕虜、職人が暮らす宮廷も描かれます。世界各地から集められた人々が、モンゴル高原の皇帝のもとで暮らしていた時代だったのです。

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モンゴル帝国と元は何が違う?

モンゴル帝国と元はどう違うのでしょうか?

モンゴル帝国=元ではない

モンゴル帝国は1206年にチンギス・ハンが建国しました。

チンギス・ハンとその子孫は、中国、中央アジア、イラン、ロシア、東ヨーロッパへ支配地を広げました。モンゴル帝国はユーラシア大陸の広い地域を支配した帝国です。

元はチンギス・ハンの孫クビライが1271年に定めた国号です。クビライは現在の北京にあたる大都を都にして中国とモンゴル高原を主な支配地域として国を治めました。

モンゴル帝国はチンギス・ハン一族が築いた帝国全体の名前。元はクビライが中国を中心に治めるために定めた国号です。

モンゴル帝国の中には元意外にも国がある

チンギス・ハン、オゴタイ、グユク、モンケの時代までは一人のカアンが帝国全土を治めていました。

でも5代クビライの時代にはチンギス・ハン一族の支配地がいくつかの国へ分かれていました。

  • 大元ウルス(元):中国とモンゴル高原
  • フレグ・ウルス(イルハン国):中東
  • チャガタイ・ウルス(チャガタイハン国):中央アジア
  • ジョチ・ウルス(キプチャクハン国):カザフスタンの一部・南ロシア・ウクライナ方面

クビライはモンゴル帝国全体の皇帝・カアンを名乗り、他のチンギス・ハン一族の国々にも自分の権威を認めさせようとしました。

でも各国の君主は独自に政治や戦争を行うようになり、クビライがすべての地域を直接支配したわけではありません。

モンゴル帝国は大元を盟主にいくつかの国が連合した国になったのです。

 

モンゴル帝国はその後どうなった?

モンゴル帝国では、皇帝が亡くなるたびに、次の皇帝を選ぶクリルタイが開かれました。

チンギス・ハンの息子たちは、それぞれ広い領地、家畜、軍隊、住民を受け継いでいます。その子孫も、自分たちが受け継いだ土地を治めました。

皇族たちは、自分の一族から皇帝を出そうとしました。そのため、皇帝の死後に後継者をめぐる争いが起きます。

オゴタイの死後には、妃ドレゲネが長男グユクの即位を進めました。グユクが1248年に亡くなると、ジョチ家とトルイ家が協力し、1251年にトルイの長男モンケを皇帝に選びます。

モンケの死後には、弟のクビライとアリクブケが皇帝位を争いました。この争いの後、各地の皇族は自分の領地を独自に治めるようになります。

中国方面ではクビライが建てた元、南ロシア方面ではジョチ・ウルス、中央アジアではチャガタイ・ウルス、イラン方面ではイル・ハン国が成立しました。

これらの国は、すべてチンギス・ハン一族の支配地から生まれました。皇族同士は婚姻や交易を続けましたが、一人の皇帝がすべての地域へ命令を出す状態は失われていきます。

 

まとめ

モンゴル帝国は、1206年にチンギス・ハンが建てた国です。

チンギス・ハンとその子孫は、中国、中央アジア、イラン、ロシア、東ヨーロッパへ支配地を広げました。モンゴル軍は騎馬兵、弓、偵察、攻城技術を使い、各地の国や都市を征服しました。

モンゴル皇族は各地の官僚や専門家を使い、駅伝制度を設けて広い領土を治めました。交易や人の移動も増え領土内の文化や技術が各地へ伝わります。

『天幕のジャードゥーガル』は、モンゴル帝国が大きくなった時代を捕虜となったシタラの立場から描いています。

シタラは故郷を奪われた被害者ですがモンゴル帝国の中で知識を使ってドレゲネの信頼を得ていきます。

物語の舞台となるのは1219年から始まったホラズム朝遠征から。チンギス・ハンの治世の末期と1229年から1241年までのオゴタイ時代と、その後にドレゲネが国政を預かった1241年から1246年ごろとなります。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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