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端郡王 載漪とは?義和団の乱で失脚した大阿哥 溥儁の父の生涯

愛新覚羅載漪(あいしんかくら さいい)は、清朝末期の皇族です。道光帝の孫として生まれ、のちに端郡王となりました。

中国ドラマ『月に咲く花の如く』で、杜明礼が仕える謎の人物「貝勒爺」。その正体である愛新覚羅載漪(あいしんかくら さいい)は、実在した清朝皇族で、息子の溥儁が光緒帝の後継者候補に選ばれたことで西太后の宮廷政治にも深く関わりました。

この記事では、載漪が端郡王となった経緯や西太后との関係、義和団を支持して爵位を失った史実を、ドラマの設定と比較しながら紹介します。

この記事で分かること

  • 愛新覚羅載漪の家系と端郡王になった経緯
  • 西太后との関係と息子・溥儁の皇位継承問題
  • 義和団を支持した理由と処罰後の生活
  • 『月に咲く花の如く』の載漪と史実の違い

 

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端郡王 載漪とは

プロフィール

  • 名前:愛新覚羅 載漪(あいしんかくら さいい)

  • 満州語転写:aisin-gioro dzai-i

  • 読み:アイシンギョロ・ヅァイイ

  • 別名・呼称:端王、端郡王、載漪貝勒

  • 爵位:ベイレ、端郡王

  • 主な官職:御前大臣、総理各国事務衙門大臣、軍機大臣

  • 旗籍:満洲鑲白旗

  • 生年:1856年(咸豊6年)

  • 没年:1922年説、1923年説、1927年説がある

家族

  • 祖父:道光帝

  • 父:惇親王 奕誴(えきそう)

  • 母:赫舍里氏(奕誴の側福晋)

  • 養父:瑞郡王 奕誌

  • 兄:載濂

  • 弟:載瀾

  • 正室:伊爾根覚羅氏

  • 継室:博爾済吉特氏

  • 長男:溥僎(ふせん)

  • 次男:溥儁(ふしゅん)

  • 子孫:長男・溥僎の孫娘に画家の愛新覚羅恒懿

愛新覚羅載漪は、1856年に惇親王奕誴の次男として生まれました。父の奕誴は道光帝の皇五子です。咸豊帝とは兄弟にあたり、載漪は咸豊帝の甥でした。同治帝や光緒帝とは父方のいとこにあたります。

西太后は咸豊帝の妃だったので、載漪は西太后から見ても夫の甥という関係でした。

父・惇親王奕誴

載漪の父・奕誴は、道光帝の皇五子として生まれました。奕誴は嘉慶帝の皇三子だった惇親王綿愷の養子となり、惇親王家を継いでいます。

清朝皇族では、跡継ぎのいない皇族の家に別の皇族の男子を養子として迎えることがありました。載漪の父も養子によって惇親王家を継承した人物だったのです。

母・赫舍里氏

載漪の母は、奕誴の側福晋だった赫舍里氏です。赫舍里氏は領隊大臣・貴文の娘でした。

清朝では皇族の正室を嫡福晋、側室を側福晋などと呼びました。載漪は奕誴の側福晋の子として生まれています。

瑞郡王奕誌の養子になる

載漪は1860年、瑞郡王奕誌の養子となりました。奕誌は嘉慶帝の皇四子・瑞親王綿忻の子です。奕誌には男子の跡継ぎがいなかったため、載漪が後継者に選ばれました。

清朝は載漪にベイレの爵位を継がせます。こうして載漪は実父の惇親王家から瑞郡王家へ養子に入りました。

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愛新覚羅載漪の人生

ベイレから端郡王になる

載漪は瑞郡王家を継いだ後、清朝宮廷でさまざまな職務を任されました。1870年代には宮中での勤務を命じられ、1879年には虎槍営の管理を担当しました。その後も八旗の軍務や宮廷警備に関わる役職を務めています。

1889年、載漪はベイレの爵位に郡王銜を加えられました。郡王銜とは、郡王に相当する称号を名乗る資格です。

1893年には御前大臣に任命されました。御前大臣は皇帝の身辺警護や宮廷の儀礼などに関わる官職です。翌1894年、載漪は端郡王の爵位を授けられました。このとき38歳でした。

『清史稿』には、載漪の爵号について少し変わった話があります。もともと載漪は瑞郡王家を継いでいたので、本来なら「瑞」の爵号を使うはずでした。ところが皇帝の命令を伝える際に誤って「端」とされ、そのまま端郡王の爵号が使われたというのです。

この話が事実なら、端郡王という名前は命令を伝える際の手違いから生まれたことになります。

戊戌の政変で西太后を支持

1898年、光緒帝は康有為や梁啓超らを起用して改革を始めました。これが戊戌の変法です。しかし改革に反対する勢力もあり、西太后が再び政治の実権を握りました。この事件を戊戌の政変といいます。

載漪は西太后を支持する皇族の一人でした。政変の後、光緒帝は政治の実権を失い、西太后が皇帝に代わって政務を取り仕切るようになります。

その後、西太后は光緒帝を退位させることも検討しました。光緒帝には男子がいませんでした。新しい皇位継承者を選ぶ場合、誰を皇帝の後継者にするかが問題になります。

そこで西太后が選んだのが、載漪の次男・溥儁でした。

次男・溥儁が大阿哥になる

1900年1月24日(光緒25年12月24日)、西太后の意向によって、載漪の次男・溥儁が大阿哥に選ばれました。溥儁は当時15歳でした。

大阿哥とは皇帝の男子を呼ぶ名称ですが、このときの溥儁は皇位継承者となることを予定されていました。清朝は溥儁を、すでに亡くなっていた同治帝の養子としました。同治帝も男子を残さず亡くなっていたため、皇統を継がせる名目が必要だったのです。

溥儁は宮中の弘徳殿で教育を受けることになり、崇綺や徐桐らが教育を担当しました。この皇位継承者擁立は「己亥建儲」と呼ばれます。

載漪にとっては、自分の次男が将来の皇帝に選ばれるかもしれないという出来事でした。

溥儁の即位と保慶への改元は実現しなかった

西太后は溥儁を皇位継承者に選んだ後、光緒帝を退位させることを検討しました。溥儁を即位させ、「保慶」という新しい元号を使う計画があったといわれます。

ところが外国公使は溥儁の擁立を支持しませんでした。国内でも反対が起こり、上海の商人や有力者、地方官僚の中からも光緒帝の退位に反対する声が上がります。

大学士の栄禄や慶親王奕劻も、外国公使の反応を理由に西太后へ計画の中止を進言しました。そのため、溥儁の即位は実現せず、光緒帝は皇帝の地位を保ちました。

「保慶」は即位計画に関連して伝えられた元号で、実際には使われていません。溥儁は大阿哥として宮中に留まりましたが、皇帝になる機会は得られませんでした。

西太后と載漪の親族関係

『清史稿』には、載漪の福晋が西太后の弟・桂祥の娘だったと書かれています。この記述に従えば、載漪は西太后の夫の甥であると同時に、西太后の姪の夫にもなります。

ところが『愛新覚羅宗譜』に記された載漪の妻の系譜は、この内容と一致しません。『愛新覚羅宗譜』では、載漪の正室は伊爾根覚羅氏、継室は博爾済吉特氏、側室は趙佳氏とされています。

このため、載漪が西太后の姪と結婚したという『清史稿』の記述には、誤りがあるとする研究もあります。一方、載漪の父が西太后の夫・咸豊帝の弟だったことは、皇族の系譜から確認できます。

義和団を支持する

1900年、中国北部では義和団の活動が活発になっていました。義和団は外国勢力やキリスト教に反発する人々を中心とした集団で、「扶清滅洋」を掲げていました。

清朝の宮廷では、義和団を取り締まるべきだという意見と、義和団を利用して外国勢力に対抗しようという意見が対立しました。載漪は義和団を支持する側に立ち、弟の載瀾も同じ方針を支持していました。

『清史稿』には、載漪が義和団を信じ、義民と考えていたことが書かれています。当時の清朝には外国勢力との衝突を避けたい官僚もいましたが、載漪は外国との戦いを主張しました。

溥儁の即位計画が外国公使の反対によって中止されたことも、載漪が外国勢力に反発する理由の一つだったと考えられています。

総理各国事務衙門大臣になる

1900年6月、載漪は総理各国事務衙門大臣に任命されました。総理各国事務衙門は、清朝が外国との交渉を行うために設けた役所です。

当時の北京では義和団による外国人やキリスト教徒への襲撃が続いていました。日本公使館書記の杉山彬が殺害され、続いてドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーも殺害されました。さらに北京の東交民巷にあった外国公使館区域が包囲されます。

載漪はこの時期、対外交渉を担当する役所の大臣を務めるとともに、義和団を利用して外国勢力と戦う方針を支持していました。

八カ国連合軍と清朝の戦い

義和団の活動が北京に広がると、外国勢力は軍隊を派遣しました。日本・イギリス・アメリカ・ロシア・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリア=ハンガリーの八カ国による連合軍です。

1900年6月、清朝は列強との戦争に踏み切りました。載漪は義和団を利用する主戦派の皇族として、この戦争を支持しました。

ところが清朝軍と義和団は連合軍の進撃を止められませんでした。8月、八カ国連合軍が北京に入りました。

西太后は光緒帝を伴って北京を離れ、西安方面へ逃れます。載漪と溥儁も西太后に同行しました。

軍機大臣に任命される

1900年8月、西太后は載漪を軍機大臣に任命しました。軍機大臣は清朝の重要な政策や軍事問題を審議し、皇帝を補佐する官職です。

載漪は北京を離れた後も軍機大臣として政務に関わることになりました。しかし、載漪の任命から1か月もたたないうちに軍機大臣の職を解かれます。

その後、清朝は慶親王奕劻と李鴻章に列強との講和交渉を任せました。

八カ国連合軍から死刑を要求される

清朝と列強の講和交渉では、義和団を支持した王族や官僚の処罰が問題になりました。載漪は義和団を支持した皇族の一人として、列強から処罰を要求されました。

列強側は死刑も要求しましたが、清朝は皇族だった載漪を処刑せず、爵位を剥奪して新疆へ流罪とする処分を選びました。載漪は端郡王の爵位を失いました。弟の載瀾も義和団を支持した責任を問われ、処罰されました。

1901年には清朝と列強の間で辛丑条約が結ばれます。清朝は多額の賠償金を支払うことになり、義和団を支持した皇族や官僚も処分されました。載漪一家は1902年に新疆へ向かうことになります。

溥儁も大阿哥の称号を失う

載漪が処罰されたことで、次男・溥儁の皇位継承問題も終わりました。

1901年、西太后と光緒帝が北京へ戻る途中、清朝は溥儁の大阿哥の称号を取り消しました。『清史稿』には、載漪が義和団を支持したことを理由に、溥儁を皇位継承者としておくことはできないと判断されたことが書かれています。

溥儁は皇位継承者の立場を失い、もとの皇族の家系へ戻されました。その後、溥儁は北京の惇親王府で生活することになります。

西太后によって一度は皇位継承者に選ばれた溥儁でしたが、光緒帝の後継者になることはできませんでした。

溥儁についてはこちらで詳しく紹介しています。

大阿哥 溥儁とは?慈禧太后が選んだ大阿哥の史実と最後

新疆へ向かう途中でモンゴルに留まる

1902年、載漪一家は流罪の処分に従って新疆へ向かいました。ところが載漪は新疆まで行かず、移動途中のモンゴルに留まることになりました。

載漪の継室はモンゴルのアラシャン親王家の出身でした。そのため、一家は妻の実家を頼ることができました。当初は友人や西太后から援助を受けることもでき、暮らしには余裕があったようです。

ところが、その後は現地の有力者との関係が悪化します。載漪はモンゴルでの生活を続けることが難しくなり、別の土地へ移ることになりました。

清朝が滅亡し甘州へ移る

1912年、清朝が滅亡して中華民国が成立しました。清朝の皇族だった載漪も、すでに王族としての俸禄や官職を失っていました。

その後、載漪は甘州へ移りました。甘州は現在の甘粛省張掖市付近です。

甘州での生活を支えたのが長男の溥僎でした。溥僎は医師として働いており、載漪はその収入で生活しました。また、北京政府から生活費の支給も受けていたといわれます。

載漪はかつて御前大臣や軍機大臣に任命され、清朝宮廷で政務に関わっていました。甘州では息子の収入や政府からの支給金で暮らすことになったのです。

長男・溥僎が亡くなる

1920年、長男の溥僎が亡くなりました。溥僎は父の載漪が新疆への流罪を命じられたときも、父に同行していました。

その後も載漪の生活を支えていた溥僎でしたが、父より先に亡くなってしまいました。載漪は溥僎の葬儀や埋葬のために北京へ向かったとする話があります。

また、1921年には載漪が北京に現れたことを外国公使側が問題にしたという報道もあります。義和団の乱で処罰された載漪が再び北京へ来たため、外国側はその扱いを問題にしたのでした。

載漪の最期と没年

載漪の没年は資料によって違いがあります。1922年に66歳で亡くなったとする資料がある一方、『愛新覚羅宗譜』では1923年1月10日とされています。

また、子孫の回想には1927年に亡くなったとする記述もあります。このため、載漪がいつ亡くなったのかについては、現在も複数の説があります。

1856年に生まれたことは確認できますが、晩年の居住地や没年については、子孫の回想と系譜資料で記述が一致していません。

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愛新覚羅載漪の子孫

長男・溥僎の子孫

載漪の長男・溥僎は、1894年に一等鎮国将軍の爵位を授けられていました。載漪が義和団の乱で処罰された後も父に同行し、追放先での生活を支えました。

溥僎の子孫からは、載漪一家の追放後の出来事について記した回想も残されています。

画家・愛新覚羅恒懿

載漪の長男・溥僎の孫娘に、画家の愛新覚羅恒懿がいます。恒懿は2007年に日本で刊行された『世紀風雪』の著者です。上巻の副題は「幻のラストエンペラー」です。

この本では、溥儁が皇位継承者に選ばれたことや、義和団の乱で載漪が処罰されたこと、その後の一家の生活などが取り上げられています。

恒懿は載漪の子孫として、一族に伝わる話や史料をもとに清朝末期から中華民国成立後の出来事を書いています。

ドラマ「月に咲く花の如く」に登場する載漪

中国ドラマ『月に咲く花の如く』にも、愛新覚羅載漪が登場します。この作品は清朝末期の陝西を舞台に、商家の女性・周瑩の人生を描いたドラマです。

物語では、周瑩が関わる呉家や沈家の商売に、清朝皇族の載漪が関係してきます。

杜明礼の上司・載漪貝勒

ドラマの前半では、載漪は「載漪貝勒」「貝勒爺」と呼ばれています。杜明礼は載漪の部下で、載漪の意向を受けて陝西の商人たちに接触します。

第8話では、杜明礼が沈四海を訪ね、沈家と呉家の対立に関わっていきます。その後も杜明礼は載漪の命令を受けて活動しました。

第48話では、趙白石が巡撫に昇進したため、杜明礼は載漪から罰を受けます。さらに載漪は、織布局を潰すよう杜明礼に命じました。

ドラマでは、載漪が杜明礼を使って陝西の商売に介入するという設定になっています。

端郡王・載漪が処分される

物語が進むと、載漪は「端郡王」とも呼ばれるようになります。第70話では、杜明礼が載漪に対して、趙白石と周瑩が謀反を企てているという虚偽の奏状を送ります。

しかし趙白石と周瑩は反撃し、杜明礼は追い詰められていきます。

第74話では、沈星移から預かっていた日昌和の仕訳帳を趙白石が光緒帝に提出します。この仕訳帳によって載漪の行為が問題となり、端郡王載漪は処分されることになります。

 

ドラマ「月に咲く花の如く」の載漪

中国ドラマ『月に咲く花の如く』にも、載漪が登場します。

ドラマの前半では「載漪貝勒」「貝勒」と呼ばれています。杜明礼は載漪の部下という設定で載漪の意向を受けて陝西の商人たちに関わっていきます。かなり長い間姿を見せないので、誰なのか気になった人もいるかもしれません。

ドラマが進むと載漪は「端郡王」と呼ばれるようになります。終盤では沈星移が手に入れた日昌和の仕訳帳を趙白石が光緒帝に提出して、端郡王載漪が処分されます。

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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