清朝の第4代皇帝・康熙帝には記録上は35人の息子がいました。実際に後継者争いの中心となったのは一部の皇子に限られていました。
康煕帝晩年におきた後継者争いでは、皇太子・胤礽の二度の廃位をきっかけに第四皇子 胤禛や第八皇子 胤禩らが対立し「九王奪嫡」と呼ばれる争いが激化していきます。
この記事では康熙帝の息子の人数と、清朝ドラマでもよく登場する有力な皇子たちの一覧、皇子たち関係と結末までを紹介します。
この記事で分かること
- 康熙帝の息子の人数と成人した皇子の実態
- 九子奪嫡に関わった主要皇子9人の立場
- 皇太子胤礽の廃位が争いに与えた影響
- 雍正帝即位後の兄弟たちの処遇と結末
康熙帝の息子は何人いたの?
康熙帝には多くの皇子がいました。記録上は息子は35人とされます。ただし幼くして亡くなった皇子も多く、成人したのは25人です。
さらに政治的な活動をした皇子は限られます。

康煕帝と息子たち
清朝ドラマでよく出てくるのは、皇太子 胤礽、第四皇子 胤禛、第八皇子 胤禩、第十三皇子 胤祥、第十四皇子 胤禵などです。
康熙帝の息子一覧
康煕帝の主な皇子たちの一覧を紹介します。
| 順番 | 皇子名 | 母 | 主な立場 |
|---|---|---|---|
| 第二皇子 | 胤礽 | 孝誠仁皇后 | 皇太子 |
| 第一皇子 | 胤禔 | 恵妃 ナラ氏 | 一皇子派→八皇子派 |
| 第三皇子 | 胤祉 | 栄妃 馬佳氏 | やや一皇子より |
| 第四皇子 | 胤禛 | 徳妃 烏雅氏 | 四皇子派 |
| 第八皇子 | 胤禩 | 良妃 衛氏 | 八皇子派 |
| 第九皇子 | 胤禟 | 宜妃 郭絡羅氏 | 八皇子派 |
| 第十皇子 | 胤䄉 | 温僖貴妃 鈕祜禄氏 | 八皇子派 |
| 第十三皇子 | 胤祥 | 敬敏皇貴妃 章佳氏 | 四皇子派 |
| 第十四皇子 | 胤禵 | 徳妃 烏雅氏 | 八皇子派 |
皇子の漢字は時期によって変化する
康熙帝の皇子たちはそれぞれ「胤」の字が名前に入っていました。中国では同じ世代の子らには同じ漢字を使うという習慣があったためです。しかし雍正帝の即位後は避諱(皇帝と同じ漢字は使えない)により兄弟たちは「允」の字に改められました。十三皇子だけは死後に「胤」の字に戻すことが認められています。
康熙帝の息子の中で重要な人物
ここでは康煕帝の皇子の中でも有力で九王奪嫡に関わった9人の皇子を紹介します。
皇太子 胤礽|康熙帝に最も期待された息子
生:1674年6月6日
没:1725年1月27日(50歲)
胤礽(いんじょう)は、康熙帝と孝誠仁皇后の子として生まれました。母は出産後に亡くなりましたが、胤礽は嫡子として大切にされ2歳で皇太子になりました。
康熙帝は胤礽に英才教育を受けさせ、満州語・漢語・モンゴル語を学び、儒教の経典も通じました。若いころは次の皇帝として期待されましたが、成長後は兄弟たちの不満を受けます。第一皇子・胤禔は戦で功績をあげ、八皇子・胤禩も朝廷内で支持を広げました。
後ろ盾だった索額図が失脚して胤礽は孤立。1708年、康熙帝は胤礽を謀反の疑いで廃位しました。
その後、一度は皇太子に戻されますが、父子の信頼は戻りませんでした。1712年に再び廃位され幽閉されたまま雍正帝の時代に亡くなりました。
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胤礽:2度も皇太子を廃位された悲運の皇子
第一皇子 胤禔|皇太子失脚を狙って自滅した長男
生:1672年3月12日
没:1735年1月7日(62歳)
第一皇子・胤禔(いんてい)は、ジュンガルのガルダン・ハーンとの戦いで手柄を立ててて評価を高めました。1698年に直郡王になり有力皇子の一人になります。
でも胤禔は皇太子を支えるだけでは満足できず、納蘭明珠らの支援を受けて皇太子の座を狙いました。
1708年。胤禔は八皇子・胤禩とともに胤礽を告発。廃太子へ追い込みます。さらに胤礽の処刑まで進言したため康熙帝の怒りを買って爵位を奪われ自宅軟禁にされました。
雍正帝の時代にも赦されず、軟禁生活が続きました。
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第一皇子 胤禔は 康煕帝を激怒させて自宅軟禁にされた
第三皇子 胤祉|皇太子と親しかった皇子
生:1677年3月23日
没:1732年7月10日(55歳)
胤祉(いんし)は、康熙帝の第三皇子です。
学問を好み後継者争いには深く関わりませんでした。皇太子・胤礽とは親しく、1708年に胤礽が廃位されると、胤祉は第一皇子・胤禔がラマを使って胤礽を呪った件を康熙帝に報告しました。その後、胤礽が復位すると誠親王になります。
第一皇子と皇太子の失脚後は年長皇子として康熙帝を補佐しました。
雍正帝の即位後は康熙帝の陵墓管理を命じられます。側近の陳夢雷も追放され、允祉の派閥は解体されました。
1730年、十三皇子・胤祥の葬儀で悲しみを見せなかったことを理由に爵位を奪われ、監禁先で亡くなりました。
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第三皇子 胤祉・康煕帝に可愛がられ学問好きな皇子はなぜ雍正帝に排除された?
第四皇子 胤禛|のちの雍正帝
生:1678年12月13日
没:1735年10月8日(57歳)
胤禛(いんしん)は康熙帝の第四皇子。生母は徳妃烏雅氏でしたが、幼いころは皇貴妃 佟佳氏のもとで育てられました。胤禛は佟佳氏を深く敬っていました。
慎重な性格で後継者争いでもあまり目立った動きは見せませんでした。当初は皇太子をサポートしていましたが、皇太子 胤礽が廃位されると胤禛は兄弟の派閥争いから距離をおきます。
父の康煕帝には素直に従い、業務の補佐や祭祀、地方視察を務めました。弟の胤禵が大将軍王として注目される一方で胤禛は都で実績を重ねます。そうした働きが評価され、康熙帝の死後は皇帝の遺言により雍正帝として即位しました。
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第四皇子 胤禛 が雍正帝になるまでの道のり
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第八皇子 胤禩|多くの支持を集めた有力皇子
生:1681年3月29日
没:1726年10月5日(45歳)
胤禩(いんし)は康熙帝の第八皇子です。母は宮女出身の衛氏で身分が高くなかったため、胤禩は第一皇子・胤禔の母である恵妃に育てられました。
若いころから学問と人柄を評価され、1698年には17歳で多羅貝勒になっています。八賢王と呼ばれ、九皇子・胤禟、十皇子・胤䄉、十四皇子・胤禵らが支持し派閥を結成。皇太子が廃位されると、胤禩は次の皇太子候補として注目されます。
しかし康熙帝は胤禩が派閥を作って皇位を狙うことを警戒しました。雍正帝の即位後に廉親王になりますが、やがて信頼を失います。
1726年、皇族の地位を奪われ、名も阿其那に変えられた後、病死しました。
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康煕帝 第八皇子 胤禩 は皇太子の座を狙っていた
第九皇子 胤禟|資金で胤禩を支えた皇子
生:1683年10月17日
没:1726年9月22日(43歳)
胤禟(いんとう)は康熙帝の第九皇子です。商売の才能があり、天津の材木業や満洲の薬用人参取引で大きな財力を築きます。胤禟は兄の胤禩を皇太子にするため役人への資金援助や人脈作りを行いました。
雍正帝の即位後は、八皇子と親しかったため西寧へ送られます。そこで北京の家族や十四皇子と連絡を取るため、ラテン文字で満洲語を表す暗号を使いましたが雍正帝はこれを反逆の疑いと考え允禟を皇籍から外し塞思黒と改名させました。
1726年、允禟は保定府の獄中で亡くなりました。
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九皇子 胤禟 は資金力で八皇子 胤禟の派閥を支えた
第十皇子 胤䄉|胤禩派に加わった皇子
生:1683年11月28日
没:1741年10月18日(58歳)
胤䄉(いんが)は康熙帝の第十皇子です。八皇子・胤禩、九皇子・胤禟、十四皇子・胤禵と親しく、胤禩を皇太子に推す八爺党に加わりました。
胤䄉は派閥の中心人物というより、兄弟たちと行動を共にした皇子といえます。1709年に多羅敦郡王となり康熙末期には軍旗の職務も任されました。
雍正帝の即位後も八皇子派との関係は保っていました。そのため雍正帝から処分を受けて1724年、爵位を奪われ北京で幽閉されます。
乾隆帝の即位後に釈放されると輔国公の爵位を与えられ、1741年に病死しました。
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第十皇子 敦郡王 胤䄉(康煕帝の息子) は 第八皇子 胤禩のとりまきの一人
第十三皇子 胤祥|雍正帝を支えた弟
生:1686年11月16日
没:1730年6月18日(45歲)
胤祥(いんしょう)は、康熙帝の第十三皇子です。生母の章佳氏が亡くなった後、第四皇子・胤禛の母である徳妃烏雅氏に育てられました。そのため胤祥は幼いころから胤禛と仲がよく後継者争いでも胤禛を支えました。
雍正帝の即位後は和碩怡親王となり、さらに総理事務大臣の一人として財政を担当、戸部の汚職対策で成果を上げました。
雍正帝は允祥を深く信頼し百千人の大臣に勝る存在と評価しました。1730年に允祥が病死すると雍正帝は大変悲しみ、名を胤祥に戻すことを許しました。
死後、怡親王家は鉄帽子王となり、清朝末期まで続きました。
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怡親王 胤祥:康煕帝の十三皇子は雍正帝から頼りにされた皇子
第十四皇子 胤禵|胤禛の同母弟でありながら別の道を進んだ皇子
生:1688年2月10日
没:1755年2月16日(67歲)
胤禵(いんてい)は康熙帝の第十四皇子、雍正帝となる胤禛の同母弟です。若いころは九皇子・胤禟、十皇子・胤䄉とともに八皇子・胤禩を支持し、八爺党の一員として動きました。
1708年に胤禩が処分されそうになると胤禵は兄弟たちと康熙帝に助命を願いました。1718年には撫遠大将軍に任命され、ジュンガル討伐とチベット救援を任されます。清軍はラサを取り戻し、ダライラマ七世をポタラ宮へ戻しました。この功績で胤禵は有力な後継候補と見られます。
しかし康熙帝の死後、即位したのは兄の胤禛でした。雍正帝は胤禵を警戒して康熙帝の陵墓を守らせた後、爵位を奪って幽閉しました。
乾隆帝の時代に解放され、晩年は郡王に戻されました。
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十四皇子 胤禵 雍正帝の同母弟は仲が悪かった
康熙帝の主な息子たちの最後
第四皇子が皇帝として即位して、皇子たちの皇位争いも終わりました。でも皇子たちの末路は雍正帝に味方したかどうかで別れてしまいます。雍正帝と対立した皇子たちには過酷な処分が待っていました。
| 皇子 | 雍正帝即位後の処遇 | 最期 |
|---|---|---|
| 皇太子 胤礽 | 即位前から幽閉中。雍正帝時代も解放されず | 1725年、幽閉中に死去 |
| 第一皇子 胤禔 | 康熙帝時代から自宅軟禁。雍正帝時代も赦されず | 1735年、軟禁中に死去 |
| 第三皇子 胤祉 | 康熙帝陵墓の管理を命じられ、のち爵位を奪われ監禁 | 1732年、監禁中に死去 |
| 第四皇子 胤禛 | 康熙帝の後継者となり雍正帝として即位 | 1735年、皇帝のまま死去 |
| 第八皇子 胤禩 | 廉親王になるが、のち皇族の地位を奪われ阿其那に改名 | 1726年、病死 |
| 第九皇子 胤禟 | 西寧へ送られ、のち皇籍を外され塞思黒に改名 | 1726年、獄中で死去 |
| 第十皇子 胤䄉 | 爵位を奪われ北京で幽閉 | 乾隆帝即位後に釈放。1741年死去 |
| 第十三皇子 胤祥 | 怡親王となり、雍正帝の側近として重用 | 1730年、病死。死後に鉄帽子王の家格を得る |
| 第十四皇子 胤禵 | 康熙帝の陵墓管理を命じられ、のち爵位を奪われ幽閉 | 乾隆帝時代に解放。1755年死去 |
まとめ
康熙帝には多くの息子がいましたが、清朝ドラマや後継者争いで特に重要なのは、皇太子 胤礽、第四皇子 胤禛、第八皇子 胤禩、第十三皇子 胤祥、第十四皇子 胤禵です。
康熙帝が早くから皇太子を決めたため最初は胤礽が後継者と見られれていました。しかし胤礽が廃されると、皇子たちはそれぞれの支持者を集めて後継者争いを行います。雍正帝の即位は対立した皇子たちは粛清されました。
康熙帝には記録上35人の息子がいましたが、成人し政治に関わった皇子は限られており、実際に後継争いの中心となったのはごく一部でした。
満洲人には皇太子の仕組みがなじまなかったこともあり、皇太子・胤礽の地位は不安定。そんな中で八皇子 胤禩ら有力皇子による争い激化し「九子奪嫡」と呼ばれる争いへと発展します。
最終的に即位したのは第四皇子・胤禛(雍正帝)でした。その後は雍正帝との人間関係によって兄弟たちの運命も大きく分かれたのです。
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