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大阿哥 溥儁とは?慈禧太后が選んだ大阿哥の史実と最後

愛新覚羅溥儁(あいしんかくら・ふしゅん)は、清朝末期に慈禧太后によって同治帝の嗣子に選ばれ、「大阿哥」として将来の皇位継承者に定められた皇族です。

父は義和団を強く支持した端郡王・載漪。1898年の戊戌の政変後、慈禧太后と光緒帝の関係が悪化するなかで、まだ少年だった溥儁が新しい皇帝候補として選ばれました。1900年には同治帝の皇子とされ、皇族や大臣から皇位を継ぐ人物として扱われます。

ところが義和団事件によって父の載漪が処罰されると、溥儁も1901年に大阿哥の称号を取り上げられました。紫禁城を出された後は皇帝になる機会を失い、清朝滅亡後には収入も減少します。

日本では「保慶帝」と紹介される場合があります。しかし史料から確認できる溥儁の地位は「大阿哥」であり、正式に即位した皇帝ではありません。この違いが、溥儁を知るうえで最も重要な点です。

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愛新覚羅溥儁とは?史実ではどんな人物?

どんな人?

  • 王朝・時代: 清朝末期から中華民国期
  • 氏: 愛新覚羅
  • 名: 溥儁。「溥俊」と表記されることもあります
  • 称号: 皇子、大阿哥
  • 生年月日: 光緒11年12月2日(1886)亥時
  • 没年: 1942年
  • 出身: 清朝皇族
  • 所属: 満洲鑲白旗の宗室
  • 父: 端郡王・載漪

溥儁が生きたのは清朝の最末期です。日清戦争、戊戌変法、義和団事件、辛亥革命と、中国の政治が大きく動いた時代でした。日本では明治時代から昭和前期にあたります。

溥儁本人は少年時代に慈禧太后から皇位継承者へ選ばれたため、清朝末期の皇位問題に巻き込まれました。そのため彼の人生は、父の載漪や慈禧太后、光緒帝との関係を抜きにして説明できません。

家族

  • 父:載漪

    端郡王。義和団を強く支持し、1900年には軍機大臣にも任命された清朝皇族。義和団事件後に責任を問われて失脚。
  • 母:博爾済吉特氏

    載漪の継福晋。
  • 兄:溥僎

    載漪の長男。溥儁は次男。
  • 系譜上の父:同治帝
  • 妻:氏名不詳

    阿拉善王家の女性。
  • 子供:毓巍、毓岭

 

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溥儁の生涯

端郡王載漪の家と溥儁の血筋

溥儁の父・載漪は道光帝の五男・奕誴の子です。つまり溥儁は道光帝の曾孫にあたり、光緒帝や同治帝と同じ愛新覚羅宗室のかなり近い位置にいました。

載漪自身は瑞敏郡王奕誌の家を継いでいたため、清朝の宗人府に提出した溥儁の家系では、曾祖父を瑞懐親王、祖父を瑞敏郡王、父を端郡王と記録しています。

溥儁には実際の血筋と清朝皇族の養子制度による家系の双方があったわけです。

この近さが、慈禧太后が溥儁を皇位継承者に選ぶ条件の一つになりました。郭衛東は、溥儁が当時14歳ほどの少年で、父の載漪が慈禧太后を支持していたことも選定に関係したと考えています。

溥儁の誕生

愛新覚羅溥儁は、清朝末期の光緒11年12月2日亥時(1886年1月5日)に北京で誕生しました。

 

父は端郡王 載漪

父は愛新覚羅載漪(さいい)。

載漪は道光帝の孫にあたる清朝皇族で、後に端郡王となりました。

実父は道光帝の第五皇子・奕誴ですが、載漪自身は瑞敏郡王 奕誌の家を継いでいます。そのため溥儁は血筋では道光帝の曾孫にあたり、光緒帝や同治帝とも近い皇族でした。

 

母は博爾済吉特氏

母は載漪の継福晋・博爾済吉特氏。
博爾済吉特氏はモンゴルの阿拉善親王家の出身で、阿拉善親王貢桑珠爾黙特の娘とされています。

『清史稿』を理由に載漪の妻を慈禧太后の弟・桂祥の娘とし、溥儁を慈禧太后の近親者とする説がありす。

中国第一歴史档案館が公開した清朝文書では溥儁の母は継福晋・博爾済吉特氏と書かれてます。また近年の研究でも慈禧太后の姪が載漪に嫁いだという説には問題があると指摘しています。溥儁が慈禧太后の姪の子の可能性は低いと言えるでしょう。

 

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戊戌の政変後に皇帝候補になる

1898年、光緒帝は康有為や梁啓超らを登用し政治制度を改革する戊戌変法を進めました。しかし慈禧太后は改革派を排除。光緒帝を瀛台に住まわせて政治の実権を再び握ります。

ここから光緒帝の後継問題が表面化しました。光緒帝には子供がいません。しかも慈禧太后と光緒帝の関係は悪化しています。そのため宮廷内外では光緒帝を退位させて別の皇族を皇帝にするのではないかという話が広まりました。

その候補になったのが、端郡王載漪の次男・溥儁です。

 

1900年に同治帝の皇子・大阿哥となる

光緒25年12月24日(西暦1900年1月24日)。清朝は溥儁を同治帝の嗣子にする詔を出しました。

詔では光緒帝に皇子が生まれた場合、その皇子を同治帝の後継にする予定だったものの、光緒帝に子が生まれなかったため、近い皇族から同治帝の嗣子を選ぶと説明しています。

そして載漪の子・溥儁を「皇子」として同治帝のあとを継がせました。

溥儁には「大阿哥」という呼び名が与えられ崇綺が師傅となり、徐桐が日常の教育を担当します。弘徳殿などで学び、皇室を代表して寺院や奉先殿で香を供える役目も任されました。

 

大阿哥は皇太子と同じ?

清朝では公式には皇太子は決めませんから、溥儁も皇太子という称号は与えられていません。清朝の詔では「皇子」、宮廷文書では「大阿哥」と呼ばれています。

ただし1901年に溥儁を廃した詔には、彼が担うはずだった立場については「儲位」と明記されています。「儲位」は将来皇帝になる者の地位を意味します。

そのため皇太子の称号はないものの、実際には次の皇帝になる予定の皇位継承者だったといえるでしょう。

むしろ清朝では後継者を秘密にしておくのが普通なのに、溥儁を「大阿哥」と呼んで皇位継承者を決めたことでした。

慈禧太后が光緒帝に代わる皇帝を準備していると国内外から受け取られたため、大きな政治問題になりました。

 

義和団事件で父・載漪が失脚

溥儁の運命を大きく変えたのが義和団事件です。

父の載漪は義和団を強く支持して外国勢力との対決を主張する勢力の中心人物でした。1900年には北京で外国公使館が包囲され、八カ国連合軍が北京へ進軍します。慈禧太后、光緒帝、溥儁ら清朝宮廷は北京を離れて西安方面へ避難しました。

戦争に敗れた清朝が列国との講和を進めると、義和団を支持した皇族や官僚の処分が問題になります。載漪は事件を引き起こした主要人物の一人とされ、爵位や役職を失いました。

父が外国との戦争を招いた責任を追求されてしまったため、その息子を次の皇帝にするこは難しくなります。

 

1901年に大阿哥を廃される

光緒27年10月20日、清朝は溥儁から大阿哥の称号を取り上げました。

慈禧太后の懿旨では義和団事件について父の載漪を「禍首」とし、祖先に罪を犯した人物の子が皇位継承者の地位を担うのは適切ではないとしています。

そして溥儁からは大阿哥の称号を撤去し、ただちに宮殿から退出させることを命じました。代わりに溥儁には「入八分公」に準じる待遇と俸給を与えられ、溥儁は載漪の実子として元の家系に戻されました。

同治帝の後継者についても改めて別の人物を選ぶことになり、溥儁が皇位を継ぐ可能性は失われました。

新疆への流刑が決定

1902年(光緒28年)。載漪・溥儁父子は新疆への流刑を命じられました。ただし実際には西太后が内々に取り計らったこともあり二人は新疆にまで送られず、当面は西安周辺や、溥儁の母方の縁にあたる内モンゴル・阿拉善旗のあたりに身を寄せて暮らしたと伝えられています。溥儁はこの地で阿拉善旗の王族の娘を妻に迎えました。

その後、載漪・溥儁父子は草原での暮らしになじめず、財産分与を当てにして北京へ戻りました。

北京に戻った溥儁は父の旧邸の惇王府の一角で暮らしましたが、夫婦仲は良好とは言えず、たびたび口論になったと言われます。

溥儁は芝居見物や酒色にふけるようになり、やがて阿片にも手を出して専属の世話係を雇うほどの日々を送ったとされます。

次男を5歳で亡くした悲しみも、すさんだ生活を送る理由になったのかもしれません。

清朝滅亡後

1911年の辛亥革命によって清朝が滅亡。

中華民国成立後の溥儁は北京政府関係の名目的な職を与えられ、しばらく収入を得ていたとされています。しかし1920年代になるとその収入もなくなり、皇族が持っていた土地から得られる収益も減りました。

溥儁の最後

官職や俸禄を失って収入が途絶えると親族の援助に頼るほかなくなり、一時は妻の縁を頼って阿拉善旗の「塔王」家に身を寄せたこともありました。でも、その援助も長くは続かず、次第に冷遇されるようになりました。

晩年は寝たきりの状態になったとも伝えられ、生活はさらに苦しくなっていきました。

その生活も次第に苦しくなり、溥儁は病気になって1942年に亡くなったとされています。正確な死亡日と病名を裏付ける清朝公文書は存在せず、直接の死因までは確認できません。

葬儀は北京の嘉興寺で行われ、遺体も同寺付近に埋葬されます。その後、寺院周辺の状況が変わったため、墓の所在は分からなくなったとされています。

溥儁は 保慶帝 として即位した?

溥儁は「保慶帝」と呼ばれることがあります。本当に皇帝になったのでしょうか?

1900年1月24日、慈禧太后の主導する清朝宮廷は端郡王載漪の子・溥儁を同治帝の嗣子にして「大阿哥」に定めました。

溥儁は宮中で教育を受け、皇室を代表して祭祀にも参加するようになります。将来、光緒帝に代わって皇帝になることが予定されていました。

しかし、この段階では光緒帝は退位していませんし、溥儁の即位も行われていません。

この事件は「己亥建儲」と呼ばれ清朝が溥儁を大阿哥として立て、適切な時期に光緒帝と交代させようとした事件とされています。

つまり溥儁は次の皇帝になる予定でしたが、まだ皇帝ではありませんでした。

当時は1900年の正月に光緒帝が退位し、溥儁が即位して「保慶」と改元するという話が広まっていました。後世の記録には「保慶」のほか「普慶」という年号も伝わっています。

ところが予定されていた皇帝交代は実現しませんでした。光緒帝はその後も皇帝であり続け1900年も清朝では「光緒26年」の年号が使われました。

そのため溥儁は皇帝になったことはありませんし「保慶帝」と呼ぶこともできないのです。

「3日間だけ皇帝だった」という説は?

溥儁が「即位から3日後に退位した」「3日間だけ皇帝だった」と言われることもありますが清朝の記録ではそうはなっていません。

溥儁は1900年1月に大阿哥となった後も、その地位のまま宮中で暮らしました。

溥儁が大阿哥の地位を失ったのは義和団事件後の1901年です。父の載漪が義和団を支持した責任を問われると、慈禧太后は「その子に皇位継承者という重要な地位を任せることはできない」として、溥儁から大阿哥の称号を取り上げました。

つまり溥儁は皇帝になる予定はあったものの、実際には即位することなく皇位継承者から外されてしまった人物なのです。

 

ドラマの中の愛新覚羅溥儁

中原の虹

制作年: 2010年
原作:浅田次郎の小説
国: 日本・中国共同制作

役名: 保慶帝 / 愛新覚羅溥儁(大阿哥)

浅田次郎の歴史小説を原作とする作品群(『蒼穹の昴』の続編)で溥儁は西太后と父・載漪の政治的野心に翻弄される痛々しい少年として描かれています。

劇中では「保慶帝」の名で一瞬だけ玉座に就く描写がなされることがありますが、史実にでは即位式は一切執り行われず、公式な皇帝として即位した事実は存在しません。ドラ

マでの描写は清末期の混乱した状況と西太后の権力執着を強調するための脚色・表現といえます。

溥儀の料理番~紫禁城 最後の日々~

制作年: 2024年
原題:末代厨娘
国: 中国

役名: 大阿哥(溥儁)

清末から中華民国初期の紫禁城を舞台にしたミステリー・ロマンス時代劇です。作中では旧清朝の皇族「大阿哥(溥儁)」として登場します。

劇中では主人公の宮女・容児(りゅうようじ)に対して執拗に求婚を迫る場面や、宴席で毒入りの料理を勝手に食べて倒れ、容児が毒殺未遂の容疑で逮捕される事件を引き起こすなど、史実の放蕩で身勝手な振る舞いのイメージを踏襲したトラブルメーカー的な役どころとして描かれています。

溥儀の料理番:登場人物・キャスト紹介
『溥儀の料理番』のキャスト・登場人物を紹介。劉容児や李琪、溥儀をはじめ、皇族や宮女、太監の役柄と人物関係、実在人物との違いを解説します。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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