グユクはモンゴル帝国第3代皇帝です。
チンギス・カンの孫でモンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの長男、母は六妃ドレゲネです。若いころから東アジアやルーシ方面への遠征に参加しました。
1246年にモンゴル帝国第3代皇帝となりましたが、在位期間は2年足らずでした。
即位するまでには母ドレゲネが政治を行いましたが、その間に後継者争いがありました。皇帝になってからはドレゲネ時代の人事を改めて南宋・イラン・高麗などへの軍事行動を進めました。在位中はバトゥとの対立があり。
1248年、グユクは西へ向かう途中で急死しました。病死とされますが、バトゥとの対立を疑う説もあります。
グユクがどのように皇帝となり、短い在位期間に何を行いなぜ西へ向かう途中で亡くなったのかを初回します。
グユクとは
プロフィール
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名 前:グユク(Güyük、Güyüg)
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漢語表記:貴由、古余克、谷由など
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『元史』の表記:古与、貴由、貴裕
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ペルシア語表記:Kuyūk khān、Guyūk khānなど
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地 位:モンゴル帝国第3代皇帝
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在 位:1246年8月24日~1248年4月20日
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生 年:1206年3月19日
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没 年:1248年4月20日
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廟 号:定宗
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諡 号:簡平皇帝
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一 族:ボルジギン氏
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宗 教:ジュヴァイニーはキリスト教徒だったと記していますが、教派はわかっていません
家族
- 祖父:チンギス・カン
- 父:オゴデイ
- 母:ドレゲネ
- 妻:元妃・ウルハシミシュ(皇子時代の妃)
- 第三妃・オグルガイミシュ(欽淑皇后)
- ナイマン氏(ドレゲネの妹)
- 息子:ホージャ、ナグ、ホクホー
- 娘:ババハル、イェリミシュなど
ウルハシミシュはグユクが皇子時代の妃で没年は不明。オグルガイミシュは第三妃とされますが、グユクの死後に摂政となり、皇帝不在の時期に政務を担うことになります。ナイマン氏は母ドレゲネの妹です。
称号:カアン(ハーン)は名乗ってない?
父オゴデイは「カアン(Qa’an)」の称号を使いましたが、グユク自身は父だけの称号と考えたためか、主に「カン(Qan)」を使ったと考えられています。
オゴデイ以降はカアン(後の時代にはハーン)を使う事が多いので、グユク・ハーンと呼ばれることもありますが。グユク本人は名乗ってない可能性はあります。
グユクの出身と一族
グユクは1206年、オゴデイとドレゲネの子として生まれました。この年は祖父テムジンがチンギス・カンの称号を名乗りモンゴル諸部族をまとめてモンゴル国を成立させた年です。
父オゴデイ
父のオゴデイはチンギス・カンの三男。
のちにチンギス・カンの後継者になり、モンゴル帝国第2代皇帝になりました。グユクはオゴデイの長男でオゴデイ家を代表する王族の一人として育ちました。
グユクにはオゴデイが即位以前から領有していたバルハシ湖付近のエミル・コボク地方が与えられました。
オゴデイはグユクに軍事経験を積ませました。グユクは祖父チンギス・カンの時代から軍事訓練を受けチンギス・カンが1227年に亡くなった後は父オゴデイのもとで活動します。
ただしオゴデイは最初からグユクを後継者に決めていたわけではなかったようです。『集史』では、オゴデイがは別の息子クチュに期待して後継者に考えていたと記録しています。
クチュは南宋遠征に参加しましたが1236年に前線で亡くなりました。その後、オゴデイはクチュの息子シレムンをかわいがり、後継者として宮廷で育てていました。
グユクが皇帝となるまでに長い時間がかかった理由の一つが、この後継者問題でした。
母ドレゲネ
グユクの母・ドレゲネはオゴデイの第六妃。オゴデイが1241年に亡くなるとドレゲネが摂政となってモンゴル帝国の政務を担いました。
その後、ドレゲネはグユクの即位を強く後押しします。
もともとオゴデイはシレムンを後継者に考えていたため、グユクを皇帝にするためには王族たちへの根回しが必要でした。とくに西方で勢力を持つジョチ家の当主バトゥとの関係が問題になります。ドレゲネはグユクを皇帝にするために各王族との調整を行ったようです。
グユクの人生
大真国を攻める
1233年、グユクは満州方面へ出兵しました。
グユクは母方の従兄弟アルチダイやモンゴルの将軍タングトらとともに、金朝から離反した蒲鮮万奴の大真国を攻めます。遠征軍は数か月で大真国を倒しました。
このころのグユクは皇帝の息子として実際の軍事行動を経験している段階でした。
その後、叔父トルイが亡くなるとオゴデイはトルイの未亡人ソルコクタニ・ベキとグユクを結婚させようとしました。しかしソルコクタニは自分には息子たちを育てる役目があるとして断わりました。
ソルコクタニの息子の一人がのちに第4代皇帝となるモンケです。グユクの死後、オゴデイ家からトルイ家へ皇帝位が移ることを考えると、この二つの家の関係はその後の帝国政治にも深く関わってきます。
バトゥの西方遠征に参加
1235年、オゴデイはカラコルムでクリルタイを開き大規模な遠征を決めました。
西方へ向かう軍ではジョチ家のバトゥが総司令官となります。グユクはオゴデイ家を代表してこの軍に参加しました。トルイ家からはモンケ、チャガタイ家からはブリなど、チンギス・カンの子孫たちが集められています。
グユクはルーシ方面で戦いリャザン攻略やアラン人の都マガスをめぐる戦いにも参加しました。1239年にはモンケとともにアラン人との戦闘で戦果を挙げたとされます。
ところが遠征中にグユクと総司令官バトゥの関係が悪化しました。
『元朝秘史』や『集史』では、遠征軍の酒宴でブリがバトゥと口論してグユクもブリに同調したと伝えています。グユクがバトゥを侮辱する言葉を浴びせたとも伝わっています。
総司令官を公然と侮辱したため、バトゥはオゴデイに報告しました。
オゴデイに叱責される
オゴデイはグユクたちの行動を知ると激怒。グユクとブリに本国に戻るよう命じました。モンケもグユクとともに帰国したと伝えています。
オゴデイはグユクにし敵に勝てたのは自分一人の力だとは思うなと厳しく叱りました。さらに身内の王族と争ったことや、配下の兵士への扱いについても叱りました。
この遠征中の対立によって、グユクとバトゥの関係は後々まで続く問題になりました。
オゴデイの死と後継者争い
1241年。オゴデイが亡くなりました。
グユクは本国へ戻る途中で父の死を知ったとされます。母ドレゲネは摂政となり、後継者を決めるクリルタイの開催を進めました。
当初はオゴデイが育てていた孫シレムンが後継者候補でした。そこへドレゲネがグユクを推したため、オゴデイ家の中でも誰を皇帝とするかが問題になります。
オゴデイの死後にはチンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンも皇帝位を狙う行動を見せました。しかしグユクが戻ってきたことで、テムゲは即位を断念したとされます。
その後、グユクが皇帝となってからテムゲの行動は改めて審理されました。オルダとモンケが調査し、テムゲは処刑されました。
バトゥがクリルタイへの出席を拒む
バトゥはグユクやドレゲネとの関係が悪く皇帝を決めるクリルタイになかなか参加しませんでした。バトゥはチンギス家の有力な王族です。彼が欠席したまま皇帝を決めることには反対意見も出ました。
それでもドレゲネはクリルタイを開催します。参加した王族たちはオゴデイの子孫から皇帝を選ぶことで一致し、ドレゲネの働きかけもあってグユクが選ばれました。
1246年8月24日、グユクは第3代皇帝となりました。
グユクの即位式
グユクの即位式にはモンゴル帝国内外から多数の王族、使節、聖職者、支配者の代理人が集まりました。
ローマ教皇インノケンティウス4世の使節プラノ・カルピニとベネディクト・ポラック、ウラジーミル大公ヤロスラフ2世、グルジア王位を争っていたダヴィト・ナリンとダヴィト・ウル、アルメニアから来たセンパド、のちのルーム・セルジューク朝スルターンとなるクルチ・アルスラーン4世などが参加しています。
アッバース朝カリフやデリー・スルターン朝からも使節が訪れました。『世界征服者の歴史』を書いたジュヴァイニーも、中国方面、中央アジア、ホラーサーン、イラク、アゼルバイジャン、グルジア、モスル、バグダードなど、各地から人々が集まった様子を伝えています。
プラノ・カルピニは、3,000人から4,000人ほどの来訪者がいたと伝えました。ジュヴァイニーは、大勢の客を迎えるため2,000張りものフェルト製の天幕が用意されました。
モンゴル帝国が東アジアから東ヨーロッパ、西アジアまで広がっていた時代です。グユクの即位式にも、その広い支配地域から使節が集まっていたのでしょう。
ローマ教皇に服従を要求
プラノ・カルピニはローマ教皇の使節としてモンゴル宮廷を訪れていました。
教皇側はヨーロッパのキリスト教国に対するモンゴル軍の攻撃を問題にしていました。これに対してグユクはチンギス・カンやオゴデイの時代にモンゴルの使者が殺されたことを理由として挙げました。
グユク側の考えではモンゴル皇帝の支配は世界全体に及ぶものです。そのためローマ教皇に対しても対等な外交交渉を求めるのではなく、服従するよう要求しました。
1246年にはインノケンティウス4世へ宛てたグユクの勅書が作られています。
この勅書には1246年11月11日の日付があり、グユクの印璽も押されています。印璽にはウイグル文字によるモンゴル語の銘文が使われました。発給時期が明らかなモンゴル皇帝の印璽として非常に早い時期の資料で碑文を除けばモンゴル帝国の命令文書として現存する古い例の一つです。
母ドレゲネの側近を処罰
グユクは即位すると自分で政務を行うため、母ドレゲネの摂政時代に行われた人事を変更、命令についても再検討しました。
ドレゲネの側近ファーティマ・ハトゥンはオゴデイ時代に仕えていたチンカイやマフムード・ヤラワチらの失脚に関わっていました。グユクはファーティマを捕らえ「呪術によって弟コデンを死なせた」という罪で処刑します。
アブドゥル・ラフマーンも汚職を理由に処刑されました。
その後、グユクはチンカイ、マフムード・ヤラワチ、マスウード・ベクら、父オゴデイの時代に活動していた官僚を復帰させました。ドレゲネが地方に任命した人物ではオイラト出身のアルグン・アカが引き続き用いられています。
グユクはドレゲネの側近を処罰した母との関係も悪化しました。ドレゲネはその後に死去していますが、ドレゲネの死因は不明です。
チャガタイ家の当主も交代させる
グユクはチャガタイ家の人事にも介入しました。
当主だったカラ・フレグを当主の座から辞めさせチャガタイの五男イェス・モンケを新たな当主としました。イェス・モンケはグユクと親しい王族でした。
このほかオゴデイ死後に皇帝位を狙ったテムゲ・オッチギンも処刑しています。
帝国全体で人口調査を進める
グユクは帝国内で人口調査を命じました。
1246年には財産に対して30分の1から10分の1ほどにあたる税が課され、グルジアやアルメニアでは男性から銀60ドラムの人頭税が徴収されたとされます。
行政組織にも手が加えられ、大ダルガチの職と書記官の長の職が分離されました。またグユクは父オゴデイが持っていた親衛隊ケシクの半分を自ら引き継いだとされます。
グユクの時代にはウイグル系官僚の存在感が増して華北出身者やイスラム系官僚の発言力が弱まりました。
南宋・イラン・高麗へ軍を送る
グユクの即位後もモンゴル帝国の遠征は続きました。
南宋方面では戦争を続けイラン方面でも軍事行動の準備を進めました。アッバース朝とイスマーイール派には全面的な服従を要求しています。
グユクはイラン方面を担当していたバイジュについて、アッバース朝の抵抗を招いたとして責任を問いました。
高麗にも軍が送られます。1247年7月にはアムカンの軍が高麗へ進みました。高麗王高宗が江華島から旧都の松都へ戻ることを拒否するとモンゴル軍は朝鮮半島で軍事行動を続けました。
ルーム・セルジューク朝やグルジアにも介入
ルーム・セルジューク朝では王位をめぐる争いが続いていました。
グユクはカイカーウス2世に代わってクルチ・アルスラーン4世をスルターンとする判断を下し、その決定を実行させるためダルガチとモンゴル兵2,000人を送りました。
グルジアではダヴィト・ナリンとダヴィト・ウルが王位を争っていたので、二人をグユクの宮廷へ呼びだし、ダヴィト・ウルを正統な王としました。
キリキア・アルメニアでは、王ヘトゥム1世の兄センパドがモンゴル宮廷へ来て、キリキア・アルメニアがモンゴル帝国に従属することになりました。
センパドにはモンゴル人の妻が与えられ、アルメニア側が自発的に服属したことからモンゴルの監督官の常駐や一部の負担を免れたとされています。
ルーシ諸公に対してもグユクは権限を行使してアンドレイ2世をウラジーミル大公に任命しました。
グユクの宮廷にはヨーロッパ、ルーシ、コーカサス、西アジアから次々と王侯や使節が訪れていました。2年足らずの治世でも皇帝として判断を下した地域はかなり広い範囲に及びます。
西方遠征を再び進める
1247年8月、グユクはイルジギデイを指揮官とする先発隊をイランへ派遣しました。
目的にはバグダードのアッバース朝やイスマーイール派への軍事行動が含まれていました。
その後、グユク自身も軍を率いて西へ向かいます。表向きの目的は自らの所領であるエミル・コボク地方への巡幸でした。
実はこの行動を別の目的と結びつけた史料があります。
『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキが、グユクの西行はバトゥを攻撃するためではないかと疑い、バトゥへ事前に知らせたと伝えています。
バトゥとグユクはヨーロッパ遠征以来、対立を続けていました。そのためグユクが軍を率いてバトゥの勢力圏に近づけば、ジョチ家側が警戒するのも無理はなかったのでしょう。ただしこれは、バトゥやソルコクタニ側の判断です。
グユクが本当にバトゥ討伐をするつもりだったかは不明です。
グユクの最後
1248年4月、グユクは西へ向かう途中で旧領に近いビシュバリク方面で急死しました。4月20日、42歳でした。
死因については、以前から酒などによって健康を害していたため病死したとされます。グユクが病弱だったという記録もあり、病気による急死だった可能性は考えられます。
一方、『集史』ではソルコクタニがバトゥに警告したという話も伝わっています。そこからバトゥ側がグユクの死に関わったのではないかという説も出ました。
バトゥによる暗殺を証明するものはありません。グユクがバトゥとの対立を抱えたまま西へ進んで、その途中で急死したので暗殺説がでてきたのでしょう。
埋葬地について『元史』は起輦谷としています。ただし、その谷が現在のどこにあたるのかは明らかになっていません。オノン川やブルカン・カルドゥン山に近い場所だったともされます。
グユクの死後に再び皇帝位が空く
グユクが亡くなると、皇后オグルガイミシュが摂政として政務を行いました。
ところがトルイ家の王族やジョチ家のバトゥは、オグルガイミシュが主導する後継者選びには参加しませんでした。モンゴル帝国では再び皇帝を決められない時期が続きます。
その後、バトゥは自分たちでクリルタイを開き、トルイの長男モンケを支持しました。
オゴデイ家の王族はシレムンを次期皇帝にしようとしました。ところが、オゴデイが希望したシムレンでなくグユクを皇帝に推したのがオゴデイ家(正確にはドルゲネと支持者)自身だっため、他の王族からは支持が得られません。
ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主らもバトゥとモンケ側の集会に参加します。
さらにシレムンや、グユクの息子ホージャ、ナグらオゴデイ家からも参加する姿勢を示しました。
こうしてモンケが第4代皇帝となり、皇帝位はオゴデイ家からトルイ家へ移りました。
グユクがもう少し長く生きて西方への遠征を続けていた場合に帝国の遠征先がどう変わったのかについては、さまざまな説があります。
グユクの死によって西方への軍事計画が中断、その後はモンケやクビライの時代に南宋方面への戦いが進んみました。
ただし、グユクがヨーロッパへの全面侵攻を続けたとして何処まで成果が上がったのかは不明です。
のちにクビライが元を建てると、グユクは歴代皇帝の一人として位置づけられました。1266年には廟号「定宗」、諡号「簡平皇帝」が贈られています。
まとめ
在位期間だけを見ると2年にも届きませんが、その間にグユクはドレゲネ時代の人事を改め、人口調査を進め、南宋・イラン・高麗への軍事行動を続け、ルーシや西アジアの王位にも介入しました。
私は、グユクの時代を追っていて特に印象に残るのは、ローマ教皇へ送った勅書が現在まで伝わっていることです。モンゴル高原の皇帝とローマ教皇が、それぞれ相手に服従を求める立場で向き合っていた時代だったことが、この一通の文書からもよく伝わってきますね。
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