チャガタイは、チンギス・カンの次男です。
モンゴルの法を厳しく守る「ヤサの番人」と呼ばれたチャガタイは、兄ジョチと激しく対立する一方、弟オゴデイの皇帝即位を支えました。ホラズム遠征での役割や中央アジア統治、後のチャガタイハン国につながる領国を築きました。厳しさだけでは語れないチャガタイの生涯を紹介します。
この記事で分かること
- チャガタイの家族関係と兄ジョチとの対立
- 「ヤサの番人」と呼ばれた理由
- ホラズム遠征や中央アジア統治で果たした役割
- チャガタイウルスが後世に与えた影響
チャガタイとはどんな人?
チャガタイはチンギス・ハンの次男。兄のジョチとは激しく対立しましたが、弟のオゴデイとは親しく、父の死後はオゴデイの即位を支えました。チャガタイはモンゴルの法や慣習に詳しく、ヤサの管理を任された人物としても知られています。
一方で、チャガタイは中央アジアではモンゴルの規則を厳しく守らせたため、現地の住民やイスラム教徒から反感を持たれたともいわれます。
プロフィール
- 名前:チャガタイ(別名:チャアダイ、チャプタイ)
- 生年:1178年、1184年ごろ、1185年、1186年など諸説あり
- 没年:1242年
- 身分:モンゴル帝国の皇族
- 異名:ヤサの番人
- 領地:アルタイ山脈南部から中央アジア一帯
家族構成
- 父:チンギス・カン
- 母:ボルテ
- 兄:ジョチ
- 弟:オゴデイ、トルイ
- 妻:イェスルン、トゲン、ほか
- 子:モトゥケン、バイダル、イェス・モンケ、ほか
- 孫:カラ・フレグ
生い立ち:チンギス・カンとボルテの次男
チャガタイは、チンギス・カンと正妻ボルテの間に生まれました。兄はジョチ、弟はオゴデイとトルイです。チャガタイの生年にはいくつかの説があり正確な年は分かっていません。
母のボルテは、チンギス・カンと結婚した後、メルキト部に連れ去られたことがあります。ボルテが一族のもとに戻った後に生まれたのが、長男のジョチでした。そのため、ジョチの父親を疑う声が一族の中にありました。ただし、チンギス・カンはジョチを自分の息子として認めています。
ところがチャガタイは、兄ジョチの出生に強い疑いを持ち続けました。この問題は後の後継者争いにも影響していくことになります。
モンゴル国の建国と領地
1206年、テムジンは有力者が集まるクリルタイでチンギス・カンに即位。大モンゴル国(イェケモンゴルウルス)が成立すると、チンギス・カンは息子たちに軍団と領地を与えます。
当初はチャガタイはアルタイ山脈南部を中心とする土地と、複数の千人隊を受け取りました。チャガタイに与えられた兵力については、四千人だったという説と八千人だったという説があります。
チャガタイの配下にはバルラス、バアリン、ジャライルなどの集団が入りました。これらの軍団と住民が後のチャガタイ家の領国を支えるもとになります。
ヤサ(法)の番人
チャガタイは、モンゴルの法と慣習に詳しい人物でした。チンギス・カンはチャガタイに、モンゴル帝国の法とされるヤサの管理を任せたといわれます。そのため、チャガタイは「ヤサの番人」と呼ばれました。
ヤサの内容は現在まで完全な形では伝わっていません。チンギス・カンの命令や軍事上の規則、モンゴルの慣習などを含んでいたと考えられています。
チャガタイは法を厳しく守り、周囲にも同じ態度を求めました。チャガタイの激しい気性と一本気な性格も伝えられています。父のチンギス・カンは、その厳しさを認めてはいますが、帝国全体を治める後継者には向かないと考えたようです。
金とホラズムへの遠征
その後、チャガタイはチンギス・カンが進めた征服戦争に参加しました。1211年に始まった金への遠征ではチャガタイはジョチやオゴデイとともに軍を率いています。
さらに1219年から始まったホラズム帝国への遠征にもチャガタイは従軍しました。この遠征でチャガタイは戦闘だけでなく、橋の建設、道路の整備、連絡路の維持なども担当しています。広大な地域を進むモンゴル軍にとって、兵士や馬、物資を動かし続ける仕事は欠かせません。チャガタイは遠征軍を支える役目も任されていたのです。
オトラル攻略
ホラズム遠征のきっかけとなった都市がオトラルです。オトラルの総督イナルチュクは、モンゴルから来た商人たちを捕らえました。チンギス・カンが引き渡しを求めても、ホラズム側は応じませんでした。
そこでチンギス・カンは、チャガタイとオゴデイにオトラル攻略を任せます。オトラルは約五か月にわたって抵抗しました。市内が陥落した後もイナルチュクは城塞に立てこもりましたが、やがて捕らえられます。
チャガタイとオゴデイは、イナルチュクをチンギス・カンのもとへ連行しました。
ジョチとの対立
チャガタイと兄ジョチの関係は、険悪だったといわれます。チャガタイはジョチを「メルキトの子」と呼び、家族の前で争ったという話も残ります。
ホラズム帝国の都市グルガンジュを攻めたときにも、二人は攻略方法をめぐって対立しました。
ジョチは都市をできるだけ傷つけずに手に入れようとしましたが、チャガタイは早く攻略することを優先しました。なかなか方針が決まらず、結局はチンギス・カンがオゴデイを指揮官にしました。
後継者に選ばれなかった理由
当時のモンゴルでは、長男が必ず帝位を継ぐ決まりはありませんでした。後継者は有力者が集まるクリルタイ(会議)で選ばれます。
ジョチは出生をめぐる問題を抱えていました。チャガタイは法に詳しく、皇族として高い地位にいましたが、性格が厳しく、ジョチへの敵意も強く持っていました。
チンギス・カンは、一族をまとめる役目をチャガタイに任せるのは難しいと考えたのでしょう。その結果、人の意見をよく聞く弟のオゴデイが後継者に選ばれました。
オゴデイの即位を支える
1227年、チンギス・カンが亡くなりました。父の死後、トルイが一時的に国政を担当します。その後はチャガタイは父の遺志に従って、オゴデイの即位を支持しました。
ジョチはすでに亡くなっていたため、チャガタイは存命の兄弟の中で最年長でした。
そのチャガタイがオゴデイを支持したことで、後継者争いは抑えられたと考えられます。1229年、オゴデイは第2代皇帝に即位しました。
オゴデイは兄のチャガタイを尊重して政策を決めるときには相談したといわれます。チャガタイも弟を皇帝として立てました。
宴会の席でオゴデイに無礼を働いたチャガタイが、自分を罰するよう求めたことがありました。でもオゴデイが兄を罰しなかったため、チャガタイは自らに罰を与えたといわれます。
この話には、法を厳しく自分にも当てはめようとするチャガタイの姿が表れていますね。
中央アジアの支配
ホラズム遠征の後、チャガタイは中央アジアの広大な土地を与えられました。領地はアルマリク周辺からアム川方面まで広がり、現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン南部、中国の新疆の一部にあたります。
この地域には、遊牧民だけでなく、都市住民や農民も暮らしていました。チャガタイとその一族は遊牧生活を続けました。一方、都市部の行政にはモンゴル帝国の中央政府から派遣された官僚も関わっていました。
そのため、チャガタイと行政官の間では土地や税をめぐって対立が起こります。
イスラム教徒との関係
チャガタイは中央アジアでもモンゴルのヤサを厳しく守らせました。ところが中央アジアでは、イスラム法に基づく生活習慣が広がっていました。動物の屠殺方法、沐浴、礼拝などをめぐり、モンゴルの慣習とイスラム教徒の習慣がぶつかることがあります。
そのため、イスラム系の知識人たちはチャガタイを厳しく批判しました。一方で、チャガタイの宮廷にはイスラム教徒の役人や有力者も仕えていました。
後世には反イスラム的な君主という印象が強まりましたが、チャガタイ自身はイスラム教徒を嫌ったり遠ざけてはいません。モンゴルの法を優先させたため批判を受けることになったのでしょう。
チャガタイの最期
1241年、オゴデイが亡くなりました。オゴデイの死後、妃トレゲネが政権を握るため、チャガタイの支持を求めてきました。チンギス・カンの息子として最年長だったチャガタイの意見は皇族の中で大きな影響力を持っていました。
ところが翌1242年、チャガタイも亡くなります。
妻のイェスルンは家政を担当していたワジルが毒を盛ったと疑い、処刑させたといわれます。
実際に毒殺だったのかは分かっていません。チャガタイの死因については、確かな結論が残っていないようです。
チャガタイの死後は、ジョチの子バトゥが、チンギス・カン家の最年長の皇族となりました。
カラ・フレグが後を継ぐ
チャガタイの領地は、息子モトゥケンの子であるカラ・フレグが継ぎました。モトゥケンはチャガタイより先に亡くなっていたため孫が後継者に選ばれたのです。
ところが、カラ・フレグの地位は安定しませんでした。モンゴル帝国の皇帝グユクはカラ・フレグを退け、チャガタイの子イェス・モンケを新しい当主にしました。
チャガタイの死後、その領地ではモンゴル帝国の皇帝交代に合わせて当主も入れ替わりました。チャガタイが生前に築いた支配は子や孫へそのまま安定して受け継がれたわけではなかったようです。
チャガタイウルス(チャガタイハン国)の祖
チャガタイは中央アジアに広い領地と軍団を持ちました。チャガタイの勢力はチャガタイウルスと呼ばれました。でもこのときは独立国ではなく、モンゴル帝国を構成する地域のひとつでした。
その領地は子孫へ受け継がれました。やがてチャガタイウルスの領主は中央から独立した行動をとるようになり、後にチャガタイハン国とも呼ばれるようになります。
そのためチャガタイはチャガタイウルス(チャガタイハン国)の初代君主、または国の祖とされています。
チャガタイ自身は大きな都市や宮殿を積極的に築かなかったといわれます。領内に造ったのは、水鳥を飼う池、倉庫、小規模な集落などでした。
チャガタイは遊牧生活を続けながら教育を受けた外国人やウイグル人の官僚を登用しました。自分の領地を治めるため、モンゴル人以外の人材も利用していたことが分かります。
後世に作られたチャガタイ像
チャガタイは気性が激しく法を厳しく守らせた人物として知られています。兄ジョチへの敵意、グルガンジュでの対立、イスラム教徒への厳しい態度などがよく取り上げられます。
その一方で、父の死後にはオゴデイの即位を支え、弟の治世でも相談役を務めました。遠征では道路や橋の整備を担当し、中央アジアでは官僚を使って広大な領地を治めています。
十五世紀の西洋にはキリスト教徒になったチャガタイを描いた挿絵もあります。マルコ・ポーロに関係する写本では、チャガタイが洗礼を受ける場面が描かれました。
ただしチャガタイがキリスト教へ改宗した証拠はありません。西洋でモンゴル皇族への関心が高まる中で作られたイメージだったようです。
チャガタイは個性の強い人物でした。それだけに様々なイメージが形作られたようです。

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