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フレグとはどんな人物?イルハン朝を築きたモンゴル皇族の生涯をわかりやすく解説

フレグは、13世紀にモンゴル帝国の軍を率いて西アジアへ遠征し、ペルシアを中心とするイルハン朝を築いた人物です。

チンギス・ハンの孫であり、モンケ・ハンやクビライ・ハンの弟にあたります。フレグの軍はニザール派の拠点アラムートを降伏させ、アッバース朝の都バグダードを攻略しました。その後はシリアにも進み、モンゴル帝国の勢力を西へ大きく広げています。

一方で、フレグが本国方面へ戻ったあと、シリアに残ったモンゴル軍はアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝に敗れました。さらにフレグは、同じチンギス・ハン一族のベルケとも戦うことになります。

この記事では、フレグの出身や家族、西アジア遠征、バグダード攻略、アイン・ジャールートの敗戦、ベルケとの戦争、ヨーロッパとの外交、そして最期までを紹介します。

 

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フレグとは

プロフィール

名 前:フレグ
別 名:ヒュレグ、フラグ、フレグ
英語表記:Hulegu、Hülegü、Hulagu
地 位:イルハン
在 位:1256年~1265年2月8日
生 年:1217年ごろ
出身地:モンゴル高原
没 年:1265年2月8日
没 地:ザリーネ川付近
埋葬地:ウルミア湖のシャーヒー島
氏 族:ボルジギン氏
王 家:フレグ家
宗 教:仏教

家族

父:トルイ
母:ソルコクタニ・ベキ
祖父:チンギス・ハン
兄:モンケ・ハン
兄:クビライ・ハン
兄弟:アリクブケ

妃:グユク・ハトゥン
妃:ドクズ・ハトゥン
妃:イェスンジン・ハトゥン
妃:クトイ・ハトゥン
妃:オルジェイ・ハトゥン

子:アバカ
子:テクデル
子:ジュムクル
子:モンケ・テムル
子:ヨシュムト
子:コンコルタイ

 

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フレグの生い立ち

フレグは1217年ごろ、モンゴル高原で生まれました。

父・トルイ

父のトルイはチンギス・ハンとボルテの間に生まれた四男で末子です。

チンギス・ハンの死後はトルイは監国となり、新しい大ハンが決まるまで諸王や将軍をまとめ、モンゴル帝国の軍事と政治を取り仕切りました。その後、兄のオゴデイが大ハンに選ばれています。

トルイは1232年に亡くなりました。フレグがまだ若いころのことです。

 

母・ソルコクタニ・ベキ

母のソルコクタニ・ベキはケレイト部出身の王族で、ケレイトの有力者トオリルの姪にあたります。

ソルコクタニはトルイの死後、息子たちの地位を守りながらモンゴル帝国内の政治に関わりました。モンケ、クビライ、フレグ、アリクブケは、それぞれ大ハンや地方政権の君主となっています。

キリスト教の一派である東方教会を信仰していたといわれます。

フレグ自身は仏教を信仰していましたが、母や妻、側近にはキリスト教徒がいました。そのためフレグはキリスト教勢力とも関係を持つことになります。

 

フレグはチンギス・ハンの孫にあたり、兄弟にはモンケ、クビライ、アリクブケがいました。のちにモンケはモンゴル帝国の大ハンとなり、クビライも大ハンの地位をめぐってアリクブケと争います。

 

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フレグの人生

チンギス・ハンと会う

フレグの若いころについては、詳しいことがほとんど分かっていません。フレグの詳しい動向がわかるのは兄のモンケが大ハンになったあとです。

兄モンケから西アジア遠征を命じられる

1251年。フレグの兄モンケがモンゴル帝国の大ハンになりました。

モンケはフレグに大軍を与えて西アジアに残る諸勢力を服従させるよう命じました。

遠征の対象となったのは南イランのルール人、ニザール派、バグダードのアッバース朝、シリアのアイユーブ朝、そしてエジプトのバフリー・マムルーク朝です。

モンケは降伏した者には寛大に接し、抵抗を続ける者は徹底して攻めるようフレグに命じました。フレグはこの方針に従って西へ進軍します。

1253年。フレグはモンゴル帝国各地から集められた軍を率いて出発しました。帝国の戦闘員のうち10分の2がフレグの軍に集められたとされています。

1255年。フレグは中央アジアのトランスオクシアナに到着しました。

フレグの軍にはモンゴル人だけでなく、さまざまな地域の兵士が参加しました。少なくとも1257年以降にはイスラム教徒やキリスト教徒も軍に加わっていたといわれます。中国人の工兵も同行して攻城戦で働きました。

ルール人を服従させる

フレグ軍はまず南イランのルール人を攻めました。

ルール人は比較的早い段階で敗れフレグはさらに西へ進みます。もともとモンゴル帝国はイラン方面にも勢力を持っていましたが、フレグの遠征によって支配地域がさらに広がりました。

ニザール派のアラムート城を降伏させる

フレグが次に向かったのはニザール派イスマーイール派の拠点でした。

ニザール派は後世のヨーロッパで「暗殺教団」と呼ばれたことで知られています。山岳地帯に多くの要塞を持ち、その中心となったのがアラムート城でした。

1256年。フレグの軍が侵攻すると、ニザール派はアラムート城を明け渡しました。住民の命を守る条件を受け入れ、戦わずに降伏したとされています。

これによってイラン各地に要塞を築いていたニザール派の政権は大きな打撃を受けました。

同じ年、フレグはイルハンとして西アジアの支配を始めます。のちに続くイルハン朝は、このフレグを初代君主とします。

 

バグダード攻略

カリフに降伏を求める

1257年11月。フレグの軍はアッバース朝の都バグダードへ向かいました。

当時のバグダードはアッバース朝のカリフ、ムスタアスィムが治めていました。アッバース朝は全盛期ほどの軍事力を持っていませんでしたが、カリフはイスラム世界で高い宗教的権威を持っていました。

フレグはバグダードに近づくと軍をティグリス川の東岸と西岸に分けました。両側から都市を包囲するためです。

フレグはムスタアスィムに降伏を求めましたが、ムスタアスィムは降伏を受け入れませんでした。

その後、バグダード軍の内部で混乱が起こり、モンゴル軍との戦いが始まります。カリフの側近アブー・アルクマの裏切りによってバグダード軍で反乱が起きたとされています。

モンゴル軍は堤防を壊しカリフ軍の背後を水でふさぎました。退路を失った兵士の多くが討たれるか水に溺れたといわれます。

 

バグダードが陥落する

1258年1月29日。モンゴル軍はバグダードの本格的な包囲を始めました。2月5日には、モンゴル軍が城壁の一部を確保しました。ムスタアスィムは交渉を求めましたが、フレグは受け入れませんでした。

2月10日。バグダードは降伏します。

2月13日からモンゴル軍は市内で略奪と破壊を行いました。モスク、宮殿、図書館、病院など、多くの建物が焼かれたとされます。

バグダードの大図書館として知られる「知恵の館」も、このとき失われたといわれます。医学、天文学、歴史などに関する多くの文書が所蔵されていた場所でした。

一方で、歴史家ミハル・ビランは、フレグがバグダードの再建を命じ、図書館も2年以内に再開されました。

カリフの最期

ムスタアスィムはモンゴル軍に捕らえられました。息子たちも一人を除いて殺されたとされます。

カリフの処刑方法については、いくつかの話があります。

マルコ・ポーロの旅行記にはフレグがムスタアスィムを財宝とともに閉じ込め、食べ物を与えずに死なせたという話があります。ただし、この話を裏付ける証拠は示されていません。

モンゴル側やイスラム側の記述ではムスタアスィムを絨毯で包み、その上から馬で踏ませたとされています。王族の血を地面に流すことを避けるためだったという説明もあります。

ムスタアスィムの死によって、バグダードを都とするアッバース朝は終わりました。

 

シリア遠征

アレッポとダマスカスを攻略する

バグダードを攻略したフレグはその後シリアへ向かいました。

1259年。フレグ軍はアイユーブ朝の支配地域へ進みます。

この遠征には、キリキア・アルメニア王国のヘトゥム1世や、アンティオキア公ボエモン6世の軍も参加しました。フレグの側近であるキトブカもキリスト教徒でした。

モンゴル軍とその同盟軍はアレッポを包囲して攻略しました。

アイユーブ朝最後の有力君主アン・ナースィル・ユースフも、この年にフレグによって殺されました。バグダードが破壊され、ダマスカスもモンゴル軍に占領されたことで、イスラム世界の政治的な中心はエジプトのカイロへ移っていきます。

 

マムルーク朝に降伏を要求する

フレグはパレスチナを通ってエジプトへ進むつもりでした。

フレグはエジプトのマムルーク朝スルタン、クトゥズに使者を送り、カイロを開城するよう求め、従わなければバグダードと同じように破壊すると伝えました。

ところがシリアでは大軍を養うための食料や家畜の飼料が不足しました。モンゴル軍が夏の間に涼しい高地へ移る習慣もあり、フレグは主力軍をアゼルバイジャン方面へ戻しました。

モンケ・カアンが亡くなる

モンケの崩御で帰国を決意

1259年。大ハンのモンケ・カアンがに亡くなりました。大ハンの後継者をめぐる争いが始まる可能性があったため、フレグは一旦モンゴルのカラコルムに戻ることにします。

フレグはシリアにキトブカを残しました。キトブカの兵力は1万ほど、あるいはそれ以下だったとされます。フレグは、この兵力でも占領地を守れると考えたのでしょう。

アイン・ジャールートの戦い

フレグの主力軍がシリアを離れたことを知るとクトゥズは軍を集めました。

マムルーク朝の有力者バイバルスもクトゥズに加わります。バイバルスはモンゴル軍によるバグダード攻略やダマスカス占領に対抗しようとしていました。

一方、モンゴル側は十字軍国家の残存勢力に服従を求め、あるいは同盟を結ぼうとしました。

しかしローマ教皇アレクサンデル4世は、十字軍勢力とモンゴル軍の同盟を認めませんでした。さらにシドン領主ジュリアンの行動によってキトブカの孫が殺され、キトブカは報復としてシドンを襲っています。

アッコンの十字軍勢力はモンゴル軍とマムルーク軍のどちらにも全面的には加わりませんでした。

ただし、十字軍側はマムルーク軍が領内を通って北上することを認め、アッコン近くで補給することも許しました。マムルーク軍は妨害を受けずにモンゴル軍へ近づくことができました。

キトブカ軍が敗れる

1260年。クトゥズとバイバルスの軍はパレスチナのアイン・ジャールートへ進みました。

モンゴル軍の兵力は約1万2000とされます。マムルーク軍の兵力については、2万4000から12万まで幅があります。

戦いではバイバルスが率いる部隊が攻撃と退却を繰り返しました。キトブカは逃げるマムルーク軍を追って前進します。

ところがマムルーク軍の主力は丘の陰に隠れていました。モンゴル軍が進んできたところで左右から攻撃し、クトゥズの部隊も背後へ回りました。

包囲されたモンゴル軍は一度は反撃しましたが、次第に兵力を失っていきます。キトブカは降伏せずに戦い、シリアに残っていたモンゴル軍とともに討たれました。

アイン・ジャールートの戦いによって、モンゴル軍のエジプト進出は止まりました。

この戦いにフレグ本人は参加していません。フレグは主力軍を率いてアゼルバイジャン方面へ戻っていました。

 

イルハン国(フレグ・ウルス)の創設

クビライとアリクブケが争い始める

1260年。ところがフレグが帰国の途中でクビライとアリクブケがお互いに大ハンを名乗り争い始めました。

それを知ったフレグは帰国を中止。そのまま西アジアに留まりアゼルバイジャンを本拠地にしました。

以後、フレグは本国から独立した勢力として活動。彼の政権はフレグ・ウルスイルハン国と呼ばれます。

フレグウルスはモンゴル語で「フレグの国」という意味。
イルハン国と呼ばれるのはフレグがイルハンの称号を名乗っていたため。

イルハン国地図

イルハン国 地図

クビライを支持する

フレグは自分は大ハーンは名乗らずに兄のクビライを支持しました。後継者争いが決着してクビライが大ハンとなると、フレグは再び西方遠征を再会。

まずはアイン・ジャールートで敗れた軍の報復として、マムルーク朝への再遠征を準備します。

ところがフレグはエジプト方面へ進む前に、同じモンゴル帝国のベルケと戦うことになりました。

 

ベルケ・フレグ戦争

ジョチ家のベルケと対立する

ベルケはチンギス・ハンの長男ジョチの子です。バトゥの弟にあたり、ジョチ家の政権であるジョチ・ウルスを率いていました。

ベルケはイスラム教に改宗していました。フレグがバグダードを破壊してカリフを殺したことに強く反発したとされます。

ベルケはマムルーク朝と同盟を結びノガイが率いる軍をフレグの領土へ送りました。

ベルケとフレグの対立には宗教だけでなく、経済上の争いもありました。北イランの富をめぐる問題や、ジョチ・ウルスがマムルーク朝へ奴隷を売ることに、フレグ側が制限を求めたことも対立の原因になったとされます。

ベルケは当初は同じモンゴル人同士で戦うことにためらいを見せていました。モンゴル人がモンゴル人の剣で殺されることを嘆き、団結していれば世界全体を征服できたはずだと述べた話も伝わっています。

ところが両者の対立は収まらず、ついに戦争になってしまいます。

コーカサス北方で敗れる

1263年。フレグはコーカサス山脈の北へ軍を進めました。

ところがフレグ軍は、ベルケ側の軍に敗れました。フレグはマムルーク朝への遠征に兵力を使うことができなくなります。

フレグは報復としてベルケ側の交易仲間を殺し、ベルケも同じようにフレグ側の交易仲間を殺しました。

この戦いはチンギス・ハン一族の政権同士が正面から戦った最初の大きな戦争とされます。モンゴル帝国はすでに広大な地域を支配していましたが、各王家がそれぞれの利害で動くようになっていました。

フレグとベルケの戦争によってモンゴル帝国の軍が一つにまとまって西へ進むことは難しくなりました。

 

ヨーロッパとの同盟を求める

フレグの母ソルコクタニ・ベキはキリスト教徒でした。妃のドクズ・ハトゥンもキリスト教徒で側近のキトブカもキリスト教を信仰していました。

フレグ自身は仏教徒でしたがキリスト教徒に比較的友好的だったようです。

フレグはイスラム勢力に対抗するため、ヨーロッパのキリスト教国との同盟を求めました。モンゴル軍と十字軍勢力が協力してマムルーク朝を攻める計画です。

1262年。フレグは書記リカルドゥスを使節として、海の向こうの王や諸侯へ送りました。

ところが使節はシチリア王マンフレーディに捕らえられたとされます。マンフレーディはマムルーク朝と同盟し、ローマ教皇ウルバヌス4世とは対立していました。リカルドゥスは船で送り返されました。

同じ年の4月10日。フレグはハンガリー人ヨハネを通じて、フランス王ルイ9世にも手紙を送りました。

手紙ではエルサレムを教皇のために占領する考えを示し、フランス側にエジプトへの艦隊派遣を求めています。

ただし、この手紙がパリのルイ9世に届いたのかは分かっていません。現存する写本はオーストリアのウィーンに伝わったものです。

フレグやその後継者は何度もヨーロッパとの同盟を試みました。それでも、モンゴル軍とヨーロッパ諸国が共同でマムルーク朝を攻撃する計画は実現しませんでした。

当時のヨーロッパではモンゴルへの関心が高まり、イタリアではモンゴル君主にちなんだ名前を子どもにつける例もありました。フレグに由来するアラオネという名前のほか、アルグン、ガザンなどに由来する名前も使われたとされます。

 

フレグの最期

1265年2月8日。フレグはザリーネ川付近で亡くなりました。47歳ほどだったとされます。

フレグの遺体はウルミア湖にあるシャーヒー島へ葬られました。

その後、息子のアバカがイルハンの地位を継ぎます。フレグの子孫はペルシアを中心に支配を続けます。フレグ家の政権はイルハン国、イルハン朝やフレグウルスとよばれます。

フレグはバグダードを攻略してアッバース朝の支配を終わらせました。さらにアレッポとダマスカスを占領し、モンゴル帝国の支配地域を西アジアへ広げました。

その後、シリアに残したキトブカ軍がアイン・ジャールートで敗れ、フレグ自身もベルケとの戦争に兵力を使いました。そのため、フレグが計画していたエジプト征服は実現しませんでした。

バグダードの陥落、アイン・ジャールートの戦い、モンゴル王家同士の戦争を追っていくと、フレグの生涯には13世紀の西アジアで起きた大きな変化がいくつも重なっています。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

著者 自画像

京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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