フビライ ハーンは、チンギス・ハンの孫として生まれ、モンゴル帝国の第5代皇帝になった人物です。
南宋を滅ぼして中国を統一し、元を建国した人物です。大都の建設や行政制度の整備、紙幣の流通、広域交易の発展を進める一方、日本やベトナム、ジャワへの遠征では大きな損失も経験しました。この記事ではフビライの生涯をたどりながら、その功績やすごさ、政策の課題まで紹介します。
この記事で分かること
- フビライとクビライという二つの呼び方の違い
- 元の初代皇帝になるまでの経緯とアリクブケとの内戦
- 中国統一後に進めた政治制度や紙幣政策
- 元寇をはじめとする海外遠征の結果と晩年
フビライとは
プロフィール
- 名前:クビライ、フビライ
- 地位:モンゴル帝国第5代皇帝、元の初代皇帝
- 廟号:世祖
- 生年:1215年
- 没年:1294年
- 在位:1260年5月5日~1294年2月18日
家族
- 父:トルイ
- 母:ソルコクタニ・ベキ
- 祖父:チンギス・ハン
- 兄:モンケ
- 弟:フレグ、アリクブケ
- 正后:チャブイ
- 子:チンキムほか
フビライ?クビライ?どっちが本当?
フビライの名前には「フビライ」「クビライ」のふたつがあります。
現代モンゴル語ではフビライに近い発音、13~15世紀のモンゴル帝国時代の発音ではクビライに近いとされています。
モンゴル史研究ではクビライの呼び方が使われ。教科書や一般向けの出版物では「フビライ」がよく使われます。
フビライが生まれたトルイ家
フビライの父トルイは、チンギス・ハンの末子でした。チンギス・ハンが亡くなった後には一時的に政務を担当しましたが、1232年に亡くなります。
母ソルコクタニ・ベキは、トルイの死後も息子たちを育て広い所領を守りました。ソルコクタニはネストリウス派キリスト教を信仰していましたが、仏教やイスラム教、漢人の学問にも理解を示したといいます。
ソルコクタニの息子たちはモンゴル帝国の各地で大きな勢力を持つようになりました。モンケは大ハーンとなり、フレグは西アジアを支配し、フビライは中国方面を任されます。このトルイ家の台頭が、のちのモンゴル帝国の政治に大きな影響を与えました。
少年時代のフビライ
1224年、9歳だったフビライは兄モンケとともに狩りへ参加しました。フビライはウサギとレイヨウを仕留めたといいます。
祖父チンギス・ハンは、モンゴルの習慣に従い獲物の脂を孫たちの指に塗りました。その際フビライの言葉には知恵があるので、よく聞くようにと周囲へ語ったと言われます。
チンギス・ハンは1227年に亡くなりフビライの父トルイが一時的に政務を担当。1229年にはチンギス・ハンの三男オゴデイがモンゴル帝国の皇帝となりました。
2代皇帝 オゴデイの時代
河北の統治で失敗を経験する
モンゴルが金を滅ぼした後、オゴデイは河北の8万戸をトルイ家に与えました。そのうちフビライは1万戸を受け取ります。
当初のフビライは中国の農村を治めた経験がありませんでした。現地の役人に任せたところ汚職と厳しい徴税が広がり、多くの農民が土地から逃げ出します。人が減ったため税収も落ち込みました。
フビライは河北へ向かい税の仕組みを改めました。母ソルコクタニも新しい役人を派遣します。その後、逃げていた住民の多くが戻ったといいます。
その後、フビライは漢人官僚や学者を積極的に集めるようになります。
漢人文化と仏教を学ぶ
フビライは若いころから中国文化や仏教に関心を持っていました。
1242年、フビライは北中国で名声の高かった仏僧・海雲を招き仏教について質問しました。海雲は翌年に生まれたフビライの子に「真金」という名前を付けます。モンゴル語ではチンキムです。
海雲はフビライに劉秉忠を紹介しました。劉秉忠は仏教だけでなく、書、詩、数学、建築にも通じていました。のちにフビライの側近となり、政治や都の建設に関わります。
フビライは漢人だけでなく、モンゴル人、ウイグル人、トルコ系の人々、イスラム教徒、チベット仏教の僧侶なども登用しました。広い領域を治めるため出身や宗教の違う人々を宮廷に集めたのです。
4代皇帝 モンケの時代
北中国を任される
1251年、兄モンケがモンゴル帝国の4代皇帝になりました。フビライはゴビ砂漠から南の統治を任されます。フビライは京兆(長安、現在の西安)を拠点に活動しました。
河南の農業生産を増やし京兆では住民救済にも力を入れ、漢人官僚や中国各地の武将から支持を集めます。
その後、フビライは雲南の大理国を攻めるよう命じられました。1253年、フビライは軍を率いて南へ進み、大理の都を占領します。
大理国王の段興智はモンゴルに降伏しました。フビライは段氏を排除せず、現地を治める立場として利用します。降伏した勢力を使って支配を広げる方法はモンゴル帝国が各地で行った統治の一つでした。
チベット仏教のパクパを迎える
フビライは1253年、チベット仏教サキャ派の僧侶パクパ(パスハとも言います)を側近に加えました。
パクパはフビライと妻チャブイに仏教の儀式を授けます。その後、フビライはパクパを帝師に任命しました。パクパは元朝の仏教政策やチベット統治に関わり、モンゴル語を表記するためのパスパ文字も作ります。
元朝では、チベット仏教の僧侶が宗教だけでなく政治や財政にも関わりました。一部の僧侶や官僚による汚職も起こり、晩年のフビライは人事を見直しています。
兄モンケに警戒される
フビライが北中国で支持を集めると、モンゴル王族の中から警戒する声が出ました。フビライが中国で独自の政権を作ろうとしていると訴える者も現れます。
1257年、モンケは調査官を派遣してフビライの配下を調べさせました。多くの違反が指摘され、漢人官僚の一部が処刑されます。フビライが作った行政機関も廃止されました。
フビライは自らモンケのもとへ出向きます。モンケは弟を許し二人は和解しました。
フビライが中国式の政治を進めたことは、北中国を治めるうえでは役立ちました。しかしモンゴル高原の王族には、フビライが中国へ近づきすぎているように見えたのでしょう。
モンケの死
1258年、モンケは南宋を攻めるため、四川へ軍を進めました。フビライも南宋攻撃に参加します。
ところが1259年、モンケは遠征中に死亡してしまいます。
アリクブケとの内戦
フビライとアリクブケが皇帝を名乗る
クビライは使者から兄の死を知らされますが、まだ戦果を挙げてなかったフビライは北へ戻るのを拒否。南宋攻めを続けました。
ところがクビライの正妻チャブイから密使が来て、カラコルムの重臣たちがアリクブケを擁立しようとしていることが知らされます。モンゴル高原の王族やモンケの家族はアリクブケを支持していました。
アリクブケはフビライを呼び戻して自分に従わせようとしました。しかしすでに中原を支配して大きな兵力を持つフビライはアリクブケに従おうとしません。
1260年。フビライは自分の支配地でクリルタイを開き、皇帝への即位を宣言しました。北中国や満洲に所領を持つ王族や漢人官僚たちはフビライを支持します。
フビライが即位したのを知ったアリクブケは、モンゴル帝国の首都カラコルムでクリルタイを開き大ハーンに選ばれました。
こうしてモンゴル帝国に二人の皇帝が存在することになってしまいます。
フビライとアリクブケの戦い
当時、モンゴル帝国ではフレグの西方遠征と、モンケが進めていた南宋遠征が行われていました。多くの兵がモンゴル高原の外へ動員されていたため、カラコルム周辺に残っていた兵力は多くありませんでした。
フビライは華北の農耕地帯を支配していました。そこでは穀物をはじめ、多くの物資を確保できます。
フビライは、その物資がカラコルムへ運ばれるのを止めました。フビライによる輸送の停止はアリクブケ軍の補給を苦しくしました。兵の数と物資の両方で差がつき、戦争の初めからフビライ側が優位に立ちます。
アリクブケはシムルトゥ・ノールの戦いでも敗れました。
アリクブケは食料を確保するためアルグをチャガタイ家の領地へ送りました。糧秣をカラコルムへ送らせようとしたのです。
ところがアルグはチャガタイ家の領地に入ると反乱を起こしてしまいます。これによってアリクブケは、東からフビライ、西からアルグに圧迫される立場になりました。
追い詰められたアリクブケはチャガタイ家の本拠地イリ渓谷を占領しました。ところが、アリクブケは捕虜にしたチャガタイ家の人々を殺しました。そのためアリクブケに従う者は減り、劣勢だった彼を助けようとする皇族や軍団も現れませんでした。
1263年、イリ渓谷で飢饉が起こりました。
食料不足が深刻になるとアリクブケ軍はまとまりを保てなくなります。将兵は離散してアリクブケが戦争を続けることは難しくなりました。
そして1264年、アリクブケはフビライに降伏。
こうして足かけ4年にわたったカアン位の継承戦争は終わりました。フビライが唯一の皇帝となります。
大元を建国
1271年。フビライは国号を「大元」と定めました。翌年には都を大都(北京)へ移します。
大元という国号は、中国古典の『易経』から取られたとされます。フビライは中国王朝の皇帝として統治する姿勢を示しました。
都の建設には劉秉忠や外国出身の建築家が関わりました。大都には宮殿、官庁、市場、寺院が造られます。
夏には上都で過ごしました。上都はヨーロッパでザナドゥと呼ばれ、マルコ・ポーロの物語でも知られるようになります。フビライが中国式の国号と都を採用したことに反発するモンゴル王族もいました。
南宋を滅ぼして中国を統一
フビライが大元を建国した時点でも中国南部には南宋が残っていました。
元軍は南宋の重要拠点である襄陽と樊城を長期間包囲します。フビライは西アジアから攻城技術者を招き、大型投石機を使わせました。
1273年、襄陽が陥落。その後、フビライはバヤンを最高司令官に任命して南宋への総攻撃を始めました。
1276年、南宋が降伏。幼い皇帝と皇太后は大都へ移されました。
南宋の残存勢力は南へ逃れ、抵抗を続けます。
1279年、崖山の戦いで元軍が勝利し南宋は滅亡しました。
こうしてフビライは北方の遊牧地だけでなく、人口と農業生産の多い長江流域や沿岸地域も大元の支配下におさめました。
フビライの政治
中国式の統治制度を採用
フビライは中国式の官庁と地方制度を整えました。
大元の領域には行中書省が置かれました。現在の中国で使われる「省」という行政区分につながる制度です。大都周辺は中央政府が直接治め、各地には地方行政機関が置かれました。
フビライは漢人官僚を登用しましたが、モンゴル人、ウイグル人、イスラム教徒、チベット人も官職に就けました。広い地域を支配するため、複数の言語や文化を知る人材が必要だったのです。
大運河や道路も整備しました。中国南部から大都へ穀物を運ぶには、運河と海上輸送が欠かせませんでした。
郭守敬は水路を整え、大都へ水を引きました。天文学者として暦の改良にも関わっています。
フビライは学校の設置を進め、農業や住民救済にも費用を使いました。南宋征服後には、中国南部や東南アジアと結ぶ海上交易も盛んになります。
紙幣を使った経済政策
モンゴル政権ではフビライ以前から紙幣が使われていました。
1260年、フビライは交鈔と呼ばれる統一紙幣を発行します。紙幣は税の支払いにも使われました。
広い国で重い銅銭や銀を運ぶより、紙幣を使うほうが便利です。大元の政府にとって、税を集め、物資を動かすための手段になりました。
ところが南宋との戦争や海外遠征には多くの費用がかかります。政府は紙幣の発行量を増やしました。その結果、晩年には紙幣の価値が下がり物価上昇が起こります。
フビライの紙幣政策は大国を治めるために役立った一方で、戦費を補うための増発が財政を苦しめました。
宗教と異民族への政策
フビライの宮廷には仏教徒、道教徒、イスラム教徒、キリスト教徒が集まりました。
フビライはチベット仏教を保護し、パクパを帝師に任命しました。チベットの宗教と行政は、中央政府の機関を通して管理されます。
イスラム教徒は、行政官、医師、天文学者、数学者、技術者として働きました。西アジアの攻城技術や天文学も大元へ伝わります。
道教と仏教が寺院や教義をめぐって争った際には、フビライが会議を開いて裁きました。仏教側に有利な処分を行った一方、後には道教の指導者も任命しています。
フビライは多くの宗教を認めましたが、モンゴルの習慣に反すると判断した宗教行為には制限を加えました。
フビライの対外政策
高麗を支配下に置く
モンゴル軍はフビライ以前から高麗への侵攻を続けていました。
1271年。抵抗を続けていた三別抄を鎮圧。三別抄は耽羅島(済州島)に逃れて抵抗を続けていましたが。1273年に鎮圧。高麗は大元の支配下にはいります。
フビライは娘のクトゥルク=ケルミシュを王賰に嫁がせ。高麗を婿の国とします。フビライの時代に高麗王家は大元との関係を深め、高麗の王子は大都で生活し、元の皇族女性と結婚することが慣例になりました。
高麗王国そのものは残されましたが、軍事や外交では大元の強い影響を受けました。日本遠征では、高麗が兵士、船、食糧を用意しています。
樺太侵攻
1264年。フビライはアムール川付近のニヴフ族がアイヌに攻撃を受けたのをきっかけに、樺太を攻めてアイヌを攻撃。この戦いが大元にとって初めての海を渡っての戦いでした。
以後、20年にわたって数度の樺太遠征を繰り返し。樺太で暮らすアイヌは北海道への移住を強いられました。
日本への二度の侵攻
フビライは高麗を服従させたのち、日本も服従させようとしましたが。日本側が拒否しました。
そのため1273年に襄陽を陥落させ南宋攻略が一段落すると日本遠征を計画。
第一次侵攻(文永の役)
1274年にフビライは日本へ最初の遠征軍を送りました(文永の役)。元軍と高麗・女真からなる軍が対馬と壱岐を攻め、博多に上陸。日本と大元双方に被害が出ましたが、大元側の消耗も激しく撤退を決意。夜の間に撤退しましたが、帰路で暴風にあって損失を出してしまいます。
第二次侵攻(弘安の役)
南宋を滅亡させたフビライは再び日本遠征を計画。
1281年。フビライは日本へ大軍を送りました。5月には高麗から東路軍(元・高麗連合軍 4~5.6万)が出港。6月には旧南宋地域から江南軍(旧南宋軍 10万)が出港しました。
東路軍と江南軍は壱岐島で合流の予定でしたが、江南軍が到着せず。7月に平戸周辺で東路軍と江南軍が合流。九州上陸を目指しました。
日本側は博多湾岸に石塁を築き、沖で停泊する船に攻撃を仕掛けて上陸を防ごうとします。
海上での戦闘が続いている間に、7月末に台風が直撃。暴風によって多くの船が沈みました。戦闘続行は不能と判断して撤退します。
日本遠征が失敗した理由には、日本側の防御、元軍の補給、船の構造、部隊間の連携、暴風などが挙げられます。
フビライは三度目の遠征も計画しましたが、財政負担や兵士の被害を理由に反対され、実行されませんでした。
ビルマ侵攻
フビライはビルマ(ミャンマー)のパガン朝に服従を求めましたが、パガン朝側は拒否。
1277年からビルマへの侵攻を開始します。パガン朝側は抵抗したものの、大元は数度の侵攻の後、パガン王朝の都を占領。パガン朝は滅亡しました。フビライは傀儡王朝をたてて属国化しました。
ベトナム侵攻
1282年。大元軍は南ベトナムにあったチャンパ王国(占城国)に海路で侵攻。首都ヴィジャヤを包囲しますが、ゲリラ戦に苦しみ撤退。援軍も暴風で壊滅しました。
1285年。チャンパ攻撃への協力を断った大越国(ベトナム)の陳朝に出兵。大元軍が都を占領したこともありましたが、補給に苦しみ、現地軍の抵抗を受けて撤退します。
その後、チャンパ王国と陳朝は大元へ朝貢、形式的な臣従関係を結ぶことになります。
ジャワ侵攻
1293年。フビライは大元への服属を拒んだジャワのシンガサリ王国に侵攻。ジャヤカトワン王を殺害。王族のウィジャヤがいったんは服従の態度を見せましたが、裏切って大元軍を攻撃。大元軍は撤退しました。
これらの遠征でフビライは大元の皇帝を支配者として認めさせ、貢物と交易を確保する目的もありました。しかし海を越える戦争、慣れない環境での戦闘に苦戦し。多くは目的を達成することはできませんでした。海外遠征の繰り返しは大元の財政に負担を与えました。
しかしこうして海路での遠征の繰り返しは海路開拓にもつながり、モンゴル帝国の経済的発展にも影響を与えます。
モンゴル王族カイドゥとの対立
フビライは大元建国後もモンゴル王族との戦いを続けていました。
オゴデイ家のカイドゥは、フビライの皇帝位を認めませんでした。カイドゥは中央アジアで勢力を広げ、チャガタイ家の一部と協力します。
カイドゥは、フビライが中国に染まりすぎたと批判しました。モンゴルの慣習を守る立場を掲げて自らの正統性を主張。独立した政権をうちたてます(この勢力をカイドウ・ウルスともいいます)
1287年には東方で王族ナヤンらの反乱が起こるとカイドウも挙兵してカラコルムを目指しますが、バヤンが阻止しました。さらにクビライが遠征したため、カイドウは撤退しました。
ナヤンの反乱
モンゴル東部にはチンギスカンの弟たちを祖先に持つ王家(東道諸王)がありました。彼らはクビライの即位を支持しましたが。ナヤンの代になるとクビライとの関係は疎遠になってしまいます。フビライは王族領への監督を強め、所領を持つ王族たちは自立性を失うことを警戒しました。
そして1287年。ナヤンら王族が反乱を起こしました。ナヤンはカイドゥと協力しようとします。
高齢だったフビライは軍を率いて反乱鎮圧へ向かいました。元軍はナヤン軍を破り、ナヤンを捕らえます。
その後も各地の抵抗は続きました。フビライは満洲方面に地方行政機関を置き、中央政府による統治を強めました。
皇太子チンキムと妻チャブイの死
フビライは息子チンキムを後継者に選びました。チンキムは中国式の行政を進め、漢人官僚からも支持されます。
ところが1286年にチンキムはフビライより先に亡くなりました。
妻チャブイは1281年に亡くなっています。チャブイはフビライの即位争いを支え、宮廷の政治にも関わった人物でした。
妻と皇太子を相次いで失った後はフビライは側近と直接会う機会を減らしたといいます。
後継者にはチンキムの子テムルが選ばれました。
フビライの晩年と最期
晩年のフビライは痛風や糖尿病と考えられる症状に苦しみました。体重も増え、酒や肉を多く取っていたといいます。
日本、ベトナム、ジャワへの遠征では多くの兵と船を失いました。遠征費用と紙幣の増発は、大元の財政を苦しめます。
1293年末、フビライは新年の儀式への参加を取りやめました。皇太子の印章を孫テムルに渡します。
1294年2月18日、フビライは78歳で亡くなりました。遺体はモンゴル高原へ運ばれ、歴代のハーンが葬られた場所に埋葬されたといいます。
孫のテムルが後を継ぎ、大元の第2代皇帝となりました。
フビライの功績
フビライは南宋を滅ぼし、中国全土を一つの王朝の支配下に置きました。
大都を建設、中国式の官庁と地方制度を整えます。運河、道路、水路を整備し、中国南部から大都へ穀物を運ぶ仕組みも作りました。
紙幣を広い地域で流通させ税の支払いに使わせました。モンゴル人だけでなく、漢人、ウイグル人、イスラム教徒、チベット人を官僚や技術者として登用しています。
中央アジア、西アジア、ヨーロッパ、東南アジアを結ぶ交易も盛んになりました。マルコ・ポーロをはじめ、多くの商人や使節が大元を訪れた時代です。
一方、海外遠征には多くの費用がかかりました。日本、ベトナム、ジャワでは思うような成果を得られず、兵士と船を失います。紙幣の増発による物価上昇も起こりました。
フビライの治世には中国統一と大都の発展が進みました。同じ時期に、モンゴル帝国は複数の政権に分かれ、大ハーンが全域を直接支配する時代は終わったのでした。
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