テムゲは、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの末弟です。
兄たちが遠征に出ている間、テムゲは母ホエルンとともにモンゴル本土を治めました。戦場で名を挙げた兄たちとは少し違い、政治や統治を担う機会が多かった人物です。
ところが、甥のオゴデイ・ハーンが亡くなると、テムゲは大ハーンの座を求めて行動します。その試みはオゴデイの妃ドレゲネによって阻まれ、のちにテムゲは処刑されました。
この記事では、チンギス・ハンの末弟テムゲがどのような立場にあり、なぜ帝位を求め、どのような最期を迎えたのかを順番に紹介します。
テムゲとは
プロフィール
- 名前:テムゲ
- 別名:テムゲ・オッチギン
- 生年:1168年ごろ
- 没年:1246年
家族
- 父:イェスゲイ
- 母:ホエルン
- 兄:チンギス・ハン
- 甥:オゴデイ・ハーン
- オゴデイの子:グユク
テムゲはイェスゲイの四男として生まれました。兄の一人が、のちにモンゴル帝国を築くチンギス・ハンです。
『元朝秘史』によると、チンギス・ハンがまだテムジンと呼ばれていた9歳のころ、テムゲは3歳でした。この記述をもとにすると、兄弟の年齢差はおよそ6歳だったと考えられます。
テムゲの名前
テムゲはテムゲ・オッチギン、または単にオッチギンとも呼ばれます。
「オッチギン」は家の末子を示す呼び名でした。モンゴル語で末子を意味する「オトゴン」の縮小形とする説があります。また古いテュルク語の「オト」と「テギン」を組み合わせ、ハーン家の若い一員を意味するとする解釈もあります。
当時のモンゴルでは末の息子が家や本拠地を守る役目を受け継ぐ慣習がありました。そのため、オッチギンという呼び名には、単に年齢が若いという意味だけでなく、家と領地を守る者という立場も含まれていたようです。
テムゲという名前よりもテムゲ・オッチギンの形で知られることが多いのは、この役割と結びついているためでしょう。
テムゲの出身と一族
テムゲはモンゴル高原で勢力を持っていたイェスゲイの家に生まれました。
父のイェスゲイが亡くなったあと、母ホエルンと子どもたちは厳しい生活を送ることになります。
テムゲは兄弟の中で最も幼く、母や兄たちから甘やかされて育ったとも伝わります。幼いころからぜいたくを好み成長後も怠けがちな面を兄チンギス・ハンから注意されたことがあったようです。
一方で、戦いでは勇敢で力が強く、素早く行動したとも伝わっています。その戦いぶりはテムゲの一族と敵対する人々にも知られていたといわれます。
テムゲの人生
本拠地を守る弟
早くに父を亡くしたテムゲは兄テムジンが諸部族との争いを続ける中で成長しました。もともと末子には家族の本拠地や財産を守る役目がありました。兄たちが外に出て戦う一方で、テムゲは母ホエルンのそばに残り一族の拠点を支える立場になっていきます。
テムジンがチンギス・ハンとして即位したとき、テムゲと母ホエルンには多くの土地と人々が与えられました。末子と母に多くの財産を残すモンゴルの慣習に沿った処置だったようです。
この領地と配下の人々はテムゲがモンゴル本土で力を持つ基盤になりました。
テブ・テングリを殺害する
チンギス・ハンの時代にココチュという人物が大きな影響力を持つようになりました。ココチュはテブ・テングリとも呼ばれた宗教者です。
テブ・テングリは宗教的な権威を背景にしてモンゴルの人々を自分の一族へ引き寄せようとしました。その影響はチンギス・ハンの家族にとっても無視できないものになっていたようです。
その後、チンギス・ハンはテムゲにテブ・テングリへの対応を認めました。テムゲは、あらかじめ準備された組み討ちの場でテブ・テングリと争い彼を殺害します。
兄たちの遠征中にモンゴル本土を治める
テムゲは兄弟の中では戦争を好まない人物だったようです。チンギス・ハンから怠け者だと叱責されたこともありました。
兄たちが各地への遠征を始めると、テムゲは母ホエルンとともにモンゴル本土の統治を任されました。
チンギス・ハンとその兄弟たちは、長期間にわたって本拠地を離れることがあります。その間も残された領民をまとめ、物資や人員を管理して一族の拠点を維持しなければなりません。
テムゲは、こうした政務を担当できる人物だったようです。戦場で軍を率いる機会は兄たちより少なかったものの、政治的な交渉や領地の統治では力を発揮しました。
母ホエルンが健在だった時期には母と協力しながら本土を治めたと考えられます。チンギス・ハンが安心して遠征を続けるためには、留守を守るテムゲの役割も必要だったのでしょう。
西夏や金の文化に関心を持つ
モンゴル帝国の領土が広がると、テムゲは征服された地域の文化に触れるようになりました。
当初は西夏や金の文化から影響を受け、その後はモンゴル帝国に組み込まれた他の地域の文化にも関心を示したといわれます。
テムゲには学問や文化に興味を持つ面があったようです。兄たちが軍事遠征を進める中、テムゲは本土で政務を担当しながら、征服地から入ってきた知識にも目を向けていました。
オゴデイ・ハーンの死
1227年にチンギス・ハンが亡くなったあと、モンゴル帝国の大ハーンにはオゴデイが選ばれました。
テムゲはチンギスハンの息子チャガタイとともにクリルタイを主導して兄チンギスハンの遺言通りオゴデイの即位を実現させました。
オゴデイはチンギス・ハンの子で、テムゲにとっては甥にあたります。テムゲは兄の子が大ハーンとなった時代にも、チンギス家の年長者として領地と配下を持っていました。
皇帝の座を狙ったテムゲ
オゴデイの死後、軍を率いてカラコルムへ向かう
1241年末、オゴデイ・カアンが亡くなりました。
このときオゴデイの皇子グユクは西方遠征からの帰国途中にあり、モンゴル帝国の次のカアンはまだ決まっていませんでした。オゴデイの皇后ドレゲネは自分の子グユクを即位させるため、帝国の政務を取り仕切ります。
テムゲはオゴデイの死を知ると、カアンの位を求めて軍隊を率い、オゴデイの皇后たちが暮らすカラコルムへ向かいました。
オッチギンはチンギス・ハンの実弟でモンゴル本土に広い領地と多くの配下を持っていました。兄たちの遠征中には母ホエルンとともに本土を治めた経験もあります。こうした立場があるので自分にもカアンになる資格があると考えたのかもしれません。
ところが、ドレゲネはテムゲの行動を反乱だとして批判しました。さらに西方から戻ったグユクがエミルに到着したという知らせが届きます。
テムゲはグユクの帰国を知ると、カアンの位を求めることを断念。テムゲはドレゲネに対し、オゴデイの死を弔うために訪れたのだと伝え、率いてきた軍を引き返しました。
グユクを選ぶクリルタイに出席
テムゲは軍を引き返したあとも、すぐにモンゴル帝国の政治から排除されたわけではなかったようです。
オッチギンは王侯たちを引率し新たなカアンを選ぶためのクリルタイに出席しました。このクリルタイでは、オゴデイとドレゲネの子グユクが次のカアンに選ばれます。
テムゲの最期
オッチギンはそのクリルタイと即位式に出席していました。
その後、トルイ家のモンケとジョチ家のオルダから批判をうけ罪を問われることになりました。このときはテムゲの配下の武将で済まされましたが。その後、テムゲ自身も1246年に生涯を終えました。
テムゲがどのようにして亡くなったのか、誰かが処刑したのかについてはわかりません。
関連記事

コメント