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モゲ・カトンとは?チンギス・ハンとオゴデイの妃の生涯

モゲ・カトンはモンゴル帝国のチンギス・ハン、オゴデイ・カアンの妃。

メクリン部からチンギス・ハンのもとへ嫁ぎましたが、その死後は息子のオゴデイの妃となりました。二人の君主との間に子供はいませんでしたが、オゴデイが彼女のオルドを主要な居所とし死後にはその宮門前から命令が出されるほど高い地位を保っていた女性です。

この記事で分かること

  • モゲ・カトンの出身や家族、名前の表記
  • チンギス・ハンとオゴデイの后妃になった経緯
  • 狩猟への同行や真珠の耳飾りにまつわる逸話
  • オゴデイ死後の役割とメクリン部との関係

 

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モゲ・カトンとはどんな人?

プロフィール

  • 名前:モゲ・カトン(モンゴル語:Möge qatun、ペルシア語史料:ムカイ・ハトゥンに近い形、中国語:木哥、『新元史』:謨蓋皇后)

  • 出身:メクリン部

  • 生年:不明

  • 没年:1242年前後とする説あり

  • :チンギス・ハン、オゴデイ

  • 子供:なし

家族構成

  • :メクリン部の首長または有力者(名前は諸説あり)

  • :不明

  • :なし

 

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メクリン部の公女モゲがチンギス・ハンの后妃になる

モゲはメクリン部の出身

モゲは東部天山山脈の周辺に暮らしていたメクリン部という部族の出身でした。

モゲの父親はこの部族の首長または有力者だったと考えられています。父親の名前は、史料によってチナンチ、只難赤、カティ・イェナチなどと書かれています。これは同じ人物の名前を別の文字で書き写したときに違った形で伝わった可能性がありますが、詳しいことは分かっていません。

 

メクリン部からチンギス・ハンに差し出される

歴史書『集史』などによると、メクリン部がモンゴル帝国に降伏したとき、部族の首長は娘のモゲをチンギス・ハンに差し出しました。

当時の婚姻には部族同士の関係を結ぶ意味もありました。モゲが嫁いだことで、チンギス・ハン家とメクリン部の間に結びつきが生まれたのでしょう。チンギス・ハンはモゲを寵愛したといわれます。しかし、二人の間に子供は生まれませんでした。

その後、チンギス・ハンはメクリン部に今後も娘たちを差し出すよう求めたとも伝わっています。チンギス・ハンが気に入った女性は自らの妻とし、ほかの女性は息子たちの妻にするというものでした。

モゲの婚姻が一度きりの出来事ではなく、メクリン部とチンギス・ハン家の世代を越えた同盟関係につながったことがうかがえます。

 

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慣習による再婚

チンギス・ハンの死後・オゴデイの妃になる

1227年にチンギス・ハンが亡くなり、三男オゴデイが即位しました。モゲはオゴデイに娶られたとされます。

モンゴル社会には、父や兄など近い一族の男性が亡くなった後、その妻の一部を別の男性が引き継ぐ慣習がありました。モゲとオゴデイの婚姻もこの慣習によるものだったと考えられています。

歴史書の『新元史』には、オゴデイがモゲをたいへん丁重に扱ったことや、次男のチャガタイがモゲを望んだことが書かれています。

オゴデイはモゲをほかの妻たち以上に愛したといわれます。そのため、ほかの后妃たちはモゲに嫉妬したとも伝わっています。

モゲはオゴデイの狩猟に同行することが多く、オゴデイもモゲのオルドを主要な居所の一つとしていました。

 

オルド
后妃の住居と従者や財産、家畜などを含めて運営される組織をまとめて呼ぶ言葉。

 

オゴデイがモゲのオルドで過ごすことが多かったのであれば、モゲは日常生活でもオゴデイの近くにいたことになります。でも二人の間にも子供は生まれませんでした。

 

チャガタイもモゲが好きだった

チンギス・ハンの死後、オゴデイの兄・チャガタイもモゲを妻に迎えたいと望んでいました。

チャガタイはオゴデイがすでにモゲを娶っていたことを知らずにオゴデイに使者を送りました。父が残した母妃や妾たちの中から、モゲ・カトンを自分に与えてほしいと求めたのです。

オゴデイは、すでに自分がモゲを娶っていると答えました。もっと早く申し出ていれば譲ったが、今となっては別の女性を与えると伝えたといわれます。ところがチャガタイは自分が望んでいるのはモゲだけであり、ほかの女性は求めないと返事したのでした。

モゲはチンギス・ハンよりもかなり年下で、彼らの子の世代に近い年齢だったのでしょう。オゴデイだけでなくチャガタイからも望まれるほどの女性だったのでしょう。

 

狩猟への同行と、真珠の耳飾りの逸話

モゲはオゴデイとよく外出していました。そのためいくつかのエピソードがあります。

スイカの褒美に真珠の耳飾りを与える

ある時、オゴデイが狩りをしていると貧しい男が三つのスイカを献上しました。このときモゲもオゴデイのそばにいました。

あいにくその時のオゴデイは褒美に与えられるものを持っていませんでした。そこで男への褒美としてモゲが身につけていた真珠の耳飾りを与えるよう命じます。耳飾りはたいへん高価な物だったのでモゲは最初は手放すことをためらいました。でもオゴデイが与えるよう求めたため、最後には従いました。

ところが、耳飾りを受け取った男はその価値を知らずに安く売ってしまいます。その後、買い取った人物がその耳飾りをオゴデイに献上。その場にはモゲもいました。こうしてモゲのもとに手放した耳飾りが再び戻ってきたのです。

この話からは、オゴデイが高価な品を惜しまず褒美に使う人物だったことが描かれていると同時に、モゲが狩猟中にもオゴデイの近くにいたことが分かります。

 

オゴデイがもてなしに満足して褒美を与える

また別の狩猟の時にも、モゲはオゴデイに同行しました。

オゴデイとモゲ一行は途中で、ホラズム出身のムスリム官僚ヤラワチの居所に立ち寄りました。オゴデイはそこで休息し、もてなしに満足しました。

そして、奉仕した者たちやヤラワチに多くの財物を与えたといわれます。この時もモゲは行動を共にしていました。

このときはモゲが何かをしたわけではありませんが、モゲがオゴデイの狩猟や移動にたびたび同行していたことが分かります。

 

後宮での高い地位と『元史』に名前がない理由

モゲはオゴデイの后妃の中でも高い地位にあったとみられます。ペルシア語の歴史書『集史』では、正妃ボラクチン・カトン、ドレゲネ・カトンに続いてモゲの名が挙げられます。そのため、第三皇后に近い立場だったともいわれます。

一方で漢文史料からは第四皇后だったのではないかという説もあります。

モゲの正確な順位は分かっていませんが、オゴデイがモゲを大変に気に入り、彼女のオルドを主な居場所にしていたことからもモゲの地位は高かったと考えられます。

 

オゴデイ死後の役割とメクリン部のその後

1241年。オゴデイ・カアンが亡くなりました。長男のグユクは、まだ西方遠征から戻っていませんでした。そこで次の皇帝が決まるまで、帝国には命令を出す場所が必要でした。

この時、モゲ・カトンのオルドの宮門前で命令が出され、人々が集められたと伝わっています。オゴデイは生前はモゲのオルドを主要な居所の一つとしていました。そのため、死後もしばらくは、その場所が命令を出す場として使われたのかもしれません。

そのためモゲが短期間の摂政だったともいわれます。

しかしモゲはその後、亡くなってしまいます。詳しい没年も死因もわかっていません。

『集史』ではオゴデイが亡くなった後、モゲもまもなく死去したとされます。そのため1242年前後に亡くなったと考えられています。

モゲの死後はドレゲネ・カトンが監国となって政治を主導しました。ドレゲネはチャガタイやその息子たちの支持を得て、監国として権限を強めたとされます。オゴデイ時代の大臣を遠ざけ自らの側近を採用して権力を高めるのでした。

 

モゲはチンギス・ハンとの間にも、オゴデイとの間にも子供がいませんでした。后妃は自分が産んだ皇子を支えることで勢力を築くことがありました。モゲには皇子がいなかったため、息子を次の皇帝にすることはできませんでした。

それでもモゲは独自のオルドを持ち、オゴデイはその場所でたびたび過ごしました。オゴデイの死後にモゲのオルドの宮門前で命令が出されたということからみても、モゲは子供がいない后妃なのに高い地位を保っていたことがわかります。

 

その後も続いたメクリン部とオゴデイ家の関係

モゲをきっかけに始まったメクリン部とオゴデイ家の関係は、その後も続いたとされます。

オゴデイと第二皇后アルクイの子カシンは、メクリン部出身の女性スィプキナと結婚しました。二人の間に生まれたのがカイドゥです。

カシンはオゴデイ在位中に太子とされた人物ですが若くした亡くなりました。そのカシンの子・カイドゥも有力な皇子とされていました。

カイドゥはのちにクビライに従わず独自の行動をとるようになり彼の勢力はカイドウ王国(カイドウ・ウルス)と呼ばれるようになります。

カイドゥはジタンジュという人物が率いるメクリン人を捕らえ、自らの支配下に置いたとも伝わっています。

また、モゲはもともと第二皇后アルクイの配下にいてアルクイの死後にその地位を継いだとする説もあります。そのため、アルクイの子・カシンとメクリン部の間に婚姻関係が生まれたというのです。

詳しい経緯は分かっていませんが、メクリン部とオゴデイ家との関係がモゲの時代だけで終わらなかったことは分かります。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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