『天幕のジャードゥーガル』のキルギスタニは、子供のように小柄で愛らしい姿ながら、成長した息子コデンを持つオゴタイの第三妃です。
キルギスタニのモデル・キルギクテニの出自やコデンとの関係、チンギス・ハンの妃だったとする説まで紹介します。
この記事で分かること
- 作中のキルギスタニの性格とオゴタイ、コデンとの関係
- キルギスタニとキルギクタニで名前の読み方が異なる理由
- 史実のキルギクテニがオゴタイの第三妃とされる根拠
- チンギス・ハンの妃だったという説と1252年以降の足取り
『天幕のジャードゥーガル』のキルギスタニ
キルギスタニはオゴタイの第三妃
『天幕のジャードゥーガル』にはキルギスタニが登場します。
作中のキルギスタニはオゴタイの第三妃です。この作品は全体的にキャラクターが可愛らしく描かれているのですが、その中でもひときわ小さく子供みたいに見えるのがキルギスタニです。
オゴタイの前では可愛らしく甘える一方、ほかの妃には強い対抗心を見せます。騒動が起きるとすぐに取り乱し、大声で騒ぐこともあり、感情の起伏が激しい人物として描かれています。
でも見た目は子供のように小柄ですがコデンの母親です。息子のコデンはすでに成長していて、コデンを軽々と持ち上げることができます。
キルギスタニのモデルはキルギクタニ
キルギスタニも実在する人物がモチーフです。オゴタイ(オゴデイ)の第三妃キルギクタニがそのモデル。史実のコデンもキルギクタニの息子とされます。
キルギクタニはチンギス・ハンの妃で、後にオゴタイの妃になったのではないかという説がありますが。この作品ではその説は採用されていません。
かわりかどうかはわかりませんが、第一妃のボラクチンがチンギス・ハンの妃だったという設定です。
キルギスタニ?キルギクタニ?
『天幕のジャードゥーガル』ではキルギスタニとなっていますが。日本のモンゴル史研究者の間ではキルギクタニと呼ばれています。
これはオゴタイ、オゴデイも同じで。モンゴルの人物名は漢文やペルシャ語で書かれていた資料があり。日本語に直すときに様々な読み方が出来きるのです。キルギクタニはモンゴル語の発音に近い音とされています。
キルギスタニという読み方はペルシャ語由来の発音です。
『天幕のジャードゥーガル』はペルシャ出身のシタラ(ファーティマ)の視点で描かれる物語なので、ペルシャ語の発音に近いキルギスタニが採用されているのだと思います。
次に史実のキルギクテニについて紹介します。
キルギクテニ・カトンとは?
プロフィール・家族構成
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名前:キルギクテニ・カトン(モンゴル語表記:Kirgiqteni qatun / 漢文表記:乞里吉忽帖尼)
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身分:モンゴル帝国第2代カアン・オゴデイの后妃(呼称:三皇后)
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生没年:不明
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家族:
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夫:オゴデイ
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子:コデンとする説があります
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孫にあたる人物:モンゲトゥ(※キルギクテニをコデンの生母とする説に基づきます)
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キルギクテニ・カトンは、モンゴル帝国 第2代皇帝 オゴデイの妻「カトン」のひとり。
キルギクテニは第三妃
歴史書『元史』には「乞里吉忽帖尼」という漢字で名前が記録されています。もともと彼女がどのような一族の出身だったのか、またご両親が誰だったのかといった詳しい経歴については、よく分かっていません。
『新元史』ではキルギス氏(乞里吉思氏)の出身とされていますが、その根拠は不明です。
キルギクタニは第三妃という高い地位にいましたが、彼女がいつオゴデイの妃になったのかは不明です。
キルギクテニはチンギス・ハンの妃だった?
キルギクタニにはチンギス・ハンの妃だったという説があります。
チンギス・ハンの死後に息子のオゴデイが妻として迎えたいうのです。モンゴル帝国など遊牧民王朝では亡くなった父や兄弟の妃を息子や兄弟が引き継いで妻にする「レビラト婚」という慣習がありました。
事実、ペルシア語で書かれた『五族譜』ではオゴデイの妃に کورکنه(Kürgine:キョルゲネ)という女性がいてチンギス・ハンから継承したと書かれています。
キョルゲネがチンギス・ハンの妃で後にオゴデイの妃になったのは確かでしょう。
中国の研究者・劉迎勝はキョルゲネはチンギス・ハンの妃にた「闊里桀担皇后」という人物で。この闊里桀担がオゴデイの「乞里吉忽帖尼(キルギクタニ)」と同一人物だと主張しました。
でも内モンゴルの研究者である宝音徳力根(ブヤンデルゲル)は「闊里桀担」と「乞里吉忽帖尼」は発音は違うし。کورکنه(Kürgine:キョルゲネ)も乞里吉忽帖尼(キルギクタニ)とは違うと主張しました。
キョルゲネとキルギクタニは別人というわけです。
確かにオゴデイがキョルゲネという父チンギス・ハンの妃を妻に迎えたのは事実なのでしょうが。その女性がキルギクテニだったと決まったわけではないのです。
オゴデイの死後のキルギクテニ
キルギクテニが妃としてどのような生活をしていたのかはわかりません。
オゴデイは1241年にこの世を去りました。その後、モンゴル帝国内ではオゴデイ家と、兄弟のトルイ家の間で次の皇帝の座をめぐって争いが起こりました。
この間、グユクの母・ドレゲネやモンケの母・ソルコクタニの活動は伝えられていますが。キルギクタニが何をしていたのかは分かっていません。
結局、ドルゲネが摂政となりオゴデイの息子・グユクが3代皇帝になります。
グユクとコデンの仲は悪くありません。でもコデンはドルゲネの側近・ファーティマを嫌っていました。コデンは身内に自分が死んだらファーティマが呪ったせいだと訴えるよう言い残して他界しました。そしてグユクはコデン側の主張を信じてファーティマはコデンを呪った罪で処刑されます。ドルゲネもその後、急死します。
この間のキルギクテニがどうしていたのかはわかりませんが。息子のコデンが死んだのは辛かったでしょうからファーティマやドルゲネを恨んだかも知れません。
そのグユクも1251年に死亡。その後は、トルイとソルコクタニの長男モンケが4代皇帝になりました。
翌年の1252年の夏、モンケ・カアンはオゴデイ家の領地を再編してオゴデイの7人の息子たちに分割相続させました。
このときオゴデイの息子コデンはすでに死亡しています。そこでコデンの息子モンゲトゥが相続。コデンとキルギクテニがコデンの土地に移住することになりました。
実はコデンがキルギクタニの息子と言われるのもこの移動のせいです。歴史書『元史』などではコデンの母親が誰かを直接書いた記録はありませんでした。でも「モンゲトゥと一緒に移住した」という手がかりから家族のつながりがわかりました。
コデンの母、モンケドゥの祖母だから、モンゲトゥと同じ所で暮らしたのだろう。と考えられているわけです。
この移住が彼女自身の希望だったのか、それともモンケの命令かはわかりません。少なくとも1252年の時点でキルギクテニが生きていたことが分かりますね。
キルギクテニのその後
1252年にキルギクタニが移住したあと、彼女がどのような晩年を過ごしたのかは分かっていません。彼女がいつ亡くなったのか、その最期を伝える記録も残されていないのです。
オゴデイの妻となった時期も、亡くなった時期も不明で、分かっているのは「三皇后」という高い地位にいたことと、1252年に孫とされるモンゲトゥと旅をしたことだけです。
それでも、断片的な記録を組み合わせることで、彼女がオゴデイ一族の激動の歴史のなかでコデン家の人々と暮らしてきた姿が想像できるのです。
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