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曹真とはどんな人物?諸葛亮を防いだ魏の名将の生涯と最期

曹真は、三国時代の魏で曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた武将。曹操に養子として育てられ、劉備軍や孫権軍と戦い、晩年には諸葛亮の北伐を防ぐうえで大きな役割を果たしました。

この記事では曹真の出自や家族、劉備・孫権との戦い、晩年の蜀遠征と一族の結末まで紹介します。

この記事で分かること

  • 曹真が曹操に育てられ魏の重臣になるまでの経緯
  • 諸葛亮の北伐を防いだ陳倉防衛での役割
  • 曹真の最期と曹爽ら一族が迎えた結末
  • 三国志演義での不遇な扱い

 

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曹真はとはどんな人?

プロフィール

  • 本名:曹真(そうしん)
  • 字(あざな・成人後の呼び名):子丹(したん)
  • 別名・異説の姓:秦(しん)※『魏略』の説
  • 生没年:2世紀後半 〜 231年3月
  • 出身地:沛国譙県(現在の安徽省亳州市)
  • 主君:曹操、曹丕、曹叡
  • 封爵(爵位):霊寿亭侯 → 東郷侯 → 召陵侯(死後の諡号は元侯)

家族

  • 父親:曹邵(そうしょう・字は伯南。異説では秦伯南)
  • 兄弟:曹彬(そうひん・弟)
  • 姉妹:徳陽郷主(とくようきょうしゅ・夏侯尚の妻)
  • 子供:曹爽(そうそう・長男)、曹羲(そうぎ)、曹訓(そうくん)、曹則(そうそく)、曹彦(そうげん)、曹皚(そうがい)

 

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曹真の生涯

出身と少年期、養子になった背景

曹家の一族

曹真は、漢の末期から三国時代にかけて曹魏政権を支えた武将です。もともとの出身は沛国譙県という場所で、魏の基礎を築いた曹操の同族の子にあたります。彼の父親である曹邵は初平年間に曹操が挙兵して兵を集めた際、それに従って行動していました。

ところが豫州刺史の黄琬に殺されてしまいました。曹操は自分のために命を落とした曹邵を憐れみ、残された幼い曹真を引き取って養子に迎えました。

曹家の者ではなかった?

歴史書『三国志』で裴松之が引用した『魏略』には別の記述もあります。

それによると曹真はもともと「秦」という姓で父親の秦伯南は曹操の親友だったというのです。

195年(興平末年)、曹操が袁術の部下に追われて逃げ込んできたとき、秦伯南は彼を匿いました。追手が曹操の居場所を問い詰めると、秦伯南は「私が曹操だ」と名乗って身代わりになって殺されたといいます。

曹操はその功績を思って彼の子を養子にして曹の姓を与えたというのです。

ただし、このエピソードは陳寿が記した『三国志』の本文とは矛盾しています。

虎を倒したエピソード

曹操の家に引き取られた曹真は曹丕らとともに生活することになりました。

あるとき、一族で狩猟に出かけると曹真の後ろから一頭の虎が追いかけて来ました。曹真は馬の上から振り返りざまに矢を放って、その虎を一撃で仕留めたそうです。

この勇猛さを曹操は大変褒め称え、自身が率いる精鋭の騎兵部隊「虎豹騎」の指揮を曹真に任せることにしました。さらに霊丘で起きた反乱を鎮圧した功績によって霊寿亭侯という爵位を与えられています。

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劉備・孫権との戦い

曹真は左将軍の地位を経て218年(建安23年)には下弁という土地で劉備の別将(本隊とは別の部隊を率いる将軍)を破り、中堅将軍に任命されました。

長安に到着した後は、近衛兵や首都の軍事を統括する中領軍という重要な官職に就くことになります。

その後、漢中の戦いで夏侯淵が戦死したときには曹操は曹真を征蜀護軍(蜀方面の軍を監督する役職)に指名し、名将の徐晃らの部隊を統率させて陽平で劉備の部将である高翔を破りました。

曹操が漢中へやってくると、曹真は曹洪らとともに陳倉という要所に駐屯して守りを固めました。

220年(黄初元年)、曹丕が魏の初代皇帝として即位すると、曹真は鎮西将軍に任命されました。仮節(独自の判断で軍を動かす権限)を与えられて、雍州と涼州の諸軍事を統括する都督となりました。

このとき、爵位も東郷侯になってます。彼は部下の費曜を派遣して酒泉で反乱を起こした張進を討伐しました。

その後、222年(黄初3年)に洛陽へ戻ると、上軍大将軍に昇進。仮節鉞(より強い軍事権限)を授かります。

夏侯尚らとともに孫権の領地へ向かい江陵の街を攻撃しました。当初は有利に進むかと思われましたが、呉の将軍 朱然の防衛に阻まれて敗北してしまいます。この戦いののち、彼は中軍大将軍となりました。

皇帝の曹丕が崩御する際、曹真は陳群、司馬懿、曹休とともに枕元に召し出され、次の皇帝となる曹叡の後見を託すという遺詔(いしょう・皇帝の遺言)を受けました。

曹叡が即位すると曹真は召陵侯になり、軍の最高位の一つ大将軍の職に就きました。

諸葛亮の北伐における役割と防衛の計略

228年(太和2年)、蜀の丞相 諸葛亮が魏への遠征(北伐)を開始。南安、天水、安定の三つの郡が蜀に降伏しました。

これに対し、明帝 曹叡は長安へ遠征。曹真に諸軍を監督させて郿県に駐屯させました。曹真の指揮下で張郃が街亭の戦いにおいて蜀の馬謖を大破し、諸葛亮の軍を退却へと追い込みました。

このとき、安定郡の楊条が官吏や民を人質にして月支城に立てこもっていました。曹真が軍を率いてこの城を包囲すると、楊条は「大将軍が自ら来られたのだから、早く降伏したい」と周囲に告げ、自らを縛って出城し、降伏を申し出ました。これにより、離反していた三つの郡は再び魏の統治下に戻りました。

諸葛亮を退けた曹真は、今回の遠征が失敗に終わった以上、次は必ず陳倉のルートから攻めてくるだろうと予測しました。

そこで将軍の郝昭と王双を陳倉へ派遣し、城壁を修理させて防備を徹底的に固めさせました。

翌年の春、諸葛亮は実際に陳倉へ攻め寄せてきましたが、郝昭らが万全の準備で待ち構えていたため、城を落とすことができませんでした。やがて蜀の軍は兵糧が尽き、そのまま撤退を余儀なくされました。

『三国志』の記述によると、曹真は軍の褒賞が不足しているとき、自分の私財を出して兵士に与えました。兵を率いる将軍にとって褒賞は部下との信頼に関わります。

こうした行動から曹真は将兵の扱いに気を配る人物だったのかもしれません。

自分の領地を与える

また、親族の曹遵や同郷の朱讚の子供たちが若くして父親を亡くしたことを気の毒に思い、自分の食邑(しょくゆう・領地からの税収を得る権利)を彼らに割いて分け与えたことも伝えられています。

名馬・驚帆を所有

崔豹が記した『古今注』という資料には、曹真が「驚帆(きょうはん)」という名の快速馬を所有していたことが書かれています。激しい風が帆を押し進めるように疾走することからその名がついたといわれます。

肥満だった?

一方で、彼の体型は肥満であったとされており、曹丕の寵臣であった呉質が宴席の場で芸人に彼の体型を真似させてからかった際、激怒した曹真が席上で剣を抜きそうになるという事件も起きています。

 

最期と晩年

晩年の曹真

230年3月(太和4年2月)、これまでの功績によって曹真は大司馬へと昇進しました。このとき、皇帝に謁見する際に剣を帯び、靴を履いたまま昇殿できる「剣履上殿(けんりじょうでん)」や、朝廷で小走りをしなくてもよい「入朝不趨(にゅうちょうふすう)」という特権を賜っています。

失敗に終わった蜀征伐

曹真は、蜀が何度も国境を侵してくるのを待つよりも、こちらから複数のルートで蜀を攻めるべきだと上表しました。

明帝はこの提案を受け入れ、自ら長安まで見送る中で遠征が開始されました。曹真は子午道という険しい道から進軍し、司馬懿は漢水から他の部隊も斜谷などから蜀を目指しました。

ところが、行軍の最中に一ヶ月以上も激しい大雨が降り続き道が寸断されてしまいます。魏軍は身動きが取れなくなり膠着状態に。そこで明帝の命令により軍を引き揚げることになりました。

 

曹真の最期

遠征から戻った後、曹真は病に倒れ、都の洛陽に帰還しました。療養を続けましたが、翌231年(太和5年)3月にこの世を去りました。死後は「元侯」という諡(おくりな)を贈られ、長男の曹爽がその跡を継ぎました。明帝は曹真の功績を思い起こし、他の5人の息子たち(曹羲、曹訓、曹則、曹彦、曹皚)もすべて列侯に封じました。

その後の家族

しかし、その後の家族には厳しい結末が待っていました。249年、長男の曹爽が司馬懿の起こした政変(高平陵の変)によって失脚し、降伏した後に処刑されました。

このとき曹真の息子たちや親族一同が連座して処刑され、三族皆殺しの処分となったため、曹真の血筋は途絶えてしまいました。

のちに彼の勲功を惜しんだ国によって遠い親戚の曹熙が新昌亭侯に任命され家名が存続されることになりました。

 

『三国志演義』の曹真はなぜ悲惨?史実とのギャップと歪な描写

曹真は『三国志演義』の中で不遇な扱いを受けている武将といえるかも知れません。劇中では蜀の諸葛亮に連敗しては過失を隠そうとする無能な敗将として描かれます。しかも描写には一貫性がなく様々な面を見せています。

たとえば、諸葛亮が仕掛けた「司馬懿が謀反を起こした」という離間計(仲を切り裂く計略)を鋭く見破る知性を見せています。

さらに自身の病床時には大局を考えて軍の総司令官の印を自ら進んで司馬懿に譲るという器の大きい姿も描かれているのです。

なぜこれほど歪な描かれ方をしたのでしょうか?

理由は、物語が司馬懿(しばい)を諸葛亮の「宿敵」として英雄視する構成をとったためです。

史実で曹真が成し遂げた諸葛亮の北伐阻止という功績の多くは、劇中で司馬懿の手柄に置き換えられ、曹真は彼を引き立てる生け贄にされました。

最期も悲惨です。

蜀への遠征失敗後、病床で諸葛亮からの挑発的な手紙を読んで激怒し、そのまま「憤死」してしまいます。

実際の歴史(正史)での曹真は、若いころからエリート部隊を率いて戦果を上げ、諸葛亮の侵攻を正攻法で防ぎ続けた文句なしの名将でした。

しかし、物語の都合によって実力を剥ぎ取られ「司馬懿の引き立て役」に仕立て上げられてしまったのです。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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