曹叡は、三国時代の魏の第2代皇帝です。曹操の孫、曹丕の長男として生まれ、226年に皇帝となりました。
諡号は明帝。廟号は烈祖。239年1月22日、洛陽で亡くなり、高平陵に葬られました。
曹叡の時代、魏は蜀の諸葛亮、呉の孫権、遼東の公孫淵など、いくつもの相手に向き合いました。曹叡は曹真、司馬懿、張郃、満寵らを使い、魏の防衛を支えました。
一方で、晩年には大規模な宮殿造営を進め、臣下からたびたび諫められました。後継者問題も解決しきれず、幼い曹芳を残して亡くなります。その後、曹爽と司馬懿が輔政し、魏の政治はしだいに司馬氏へ傾いていきました。
曹叡は魏を守った皇帝です。けれども、死後の魏に大きな不安を残した皇帝でもあります。
この記事では曹叡の生涯、母の甄氏との関係、諸葛亮や司馬懿との関わり、卑弥呼とのつながり、そして曹叡の評価について紹介します。
明帝 曹叡:曹操の孫の生涯とは?
曹叡のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 曹叡 |
| 読み方 | そうえい |
| 字 | 元仲 |
| 諡号 | 明帝 |
| 廟号 | 烈祖 |
| 王朝 | 魏 |
| 立場 | 魏の第2代皇帝 |
| 在位 | 226〜239年 |
| 父 | 曹丕 |
| 母 | 文昭甄皇后 |
| 祖父 | 曹操 |
| 出身 | 豫州沛国譙県、現在の安徽省亳州市 |
| 墓 | 高平陵 |
曹叡は魏の第2代皇帝です。
祖父の曹操は後漢末の混乱の中で魏の基礎を築きました。父の曹丕は、後漢の献帝に帝位を譲らせる形で魏を建国しました。その後を継いだのが曹叡です。
曹叡は曹操や司馬懿ほど目立つ存在ではないかもしれません。でも魏が蜀や呉の攻撃を受けながら国の命運を保った時期のの皇帝として重要な人物です。
曹叡は詩文にも才能がありました。曹操、曹丕、曹叡は魏氏三祖とも呼ばれます。曹叡は軍事だけでなく、政治や文化にも関わった皇帝だったのです。
曹叡の家族関係 母・甄氏と皇太子問題
曹叡の母である甄氏は、もとは袁紹の子・袁熙の妻でした。曹操が鄴を攻め落とした後、曹丕の妻となり、曹叡と東郷公主を産みます。
曹丕は当初、甄氏を深く寵愛していました。しかし、その寵愛はやがて郭氏へ移ります。黄初2年(221年)、甄氏は怨み言を口にしたとされ、曹丕から死を命じられました。
この出来事は、曹叡の立場にも大きく関わります。曹叡は母の罪に連なる形で、斉公から平原侯へ降格されました。その翌年、222年三月には、ふたたび平原王に進められています。
曹叡は曹丕の長男でした。通常であれば、早い段階で後継者として皇太子に立てられても不思議はありません。
ところが曹丕は、なかなか曹叡を皇太子にしませんでした。一説には、徐姫の子である京兆王・曹礼を後継者にしようと考えたとも伝わります。
曹操に期待された曹叡
曹叡は幼いころから、聡明な皇子として見られていました。
祖父の曹操は曹叡をかわいがり、よくそばに置いたといわれます。宴席でも、侍中や近臣と並ばせることがありました。
曹操は曹叡について、曹氏の基盤を三代先まで保てる人物だという趣旨の言葉を残したと伝わります。
この話が、どこまで曹操本人の言葉を正確に伝えているのかは慎重に見る必要があります。それでも、曹叡が幼いころから期待を受けていた皇子だったことはうかがえます。
曹叡は学問にも関心を持ち、特に法律に注意を向けていたとされます。この関心は、後の律博士制度や魏律の整備にもつながっていきました。
鹿の親子の逸話
曹叡が皇太子に近づいた理由として、鹿の親子にまつわる逸話があります。
『魏末伝』によると、曹叡は曹丕と狩りに出かけました。そこで親子の鹿を見つけます。曹丕は母鹿を射殺し曹叡には子鹿を射るよう命じました。
曹叡は父が母鹿を殺したうえに自分が子鹿まで殺すのは忍びないという意味の返事をし涙を流したと伝わります。
曹丕はその姿に驚き弓を置きました。そして曹叡を太子にしようと考えたといわれます。
これは逸話なので、そのまま事実として受け取ることはできないかもしれません。ただ曹叡が孝心や情の深さを持つ人物として語られていたことは読み取れます。
母の甄氏を失った曹叡にとって、母鹿と子鹿は自分の境遇とも重なるものだったのかもしれません。
曹叡と郭皇后
曹丕は後に、郭皇后に曹叡を養育させました。郭皇后には実子がいません。曹叡は生母の甄氏を失っていました。そのため郭皇后に対して複雑な思いを抱いていたようです。
それでも曹叡は、しだいに恭しく慎重な態度で郭皇后に接するようになります。毎朝夕、宮女を通じて安否をたずねたといわれます。郭皇后も実子がいなかったので曹叡を慈しんだと記録されています。
曹丕の死の直前に皇太子となる
226年、曹丕は病に倒れました。
五月十六日、曹丕は平原王だった曹叡を皇太子にしました。そして曹真、曹休、陳群、司馬懿らに後継者を補佐するよう命じます。
翌日、曹丕が亡くなり、曹叡は洛陽で即位。魏の第2代皇帝となります。
曹叡は長いあいだ皇太子に立てられず、曹丕の死の直前になって、ようやく正式な後継者となりました。若い皇帝にとってかなり厳しい船出だったといえます。
曹叡の功績:有能な皇帝だったのか?
安泰とはいえなかった即位直後の魏
曹叡は若くして皇帝になりました。即位した当時、魏は三国の中で最も大きな国でしたが安心できる状況ではありません。
蜀には諸葛亮が、呉には孫権がいました。さらに国内や周辺地域にも不安定な火種が残っていました。
曹叡はこうした問題に対して曹真、張郃、司馬懿、満寵らを起用しながら対応していきます。
諸葛亮の北伐に対抗する
曹叡の時代で大きな出来事の一つといえば諸葛亮の北伐です。
蜀の丞相・諸葛亮は劉備の死後も漢王朝の再興を目指し魏への攻撃を続けました。227年ごろから234年まで、諸葛亮はたびたび北伐を行います。
魏にとって諸葛亮の北伐は大きな脅威でした。蜀は国力では魏に劣りますが、諸葛亮は軍略と政治能力にすぐれた人物です。
蜀軍が祁山方面へ進むと、魏は長安の西にある隴右を守らなければいけませんでした。隴右には天水、南安、安定などの郡があり、ここを失えば魏は長安の西側の防衛拠点を失います。
曹叡は、曹真、張郃、司馬懿らを用いて蜀の攻撃を防ぎました。結果として、諸葛亮の北伐は魏を滅ぼすまでには至りませんでした。234年、諸葛亮は五丈原で亡くなります。
魏が蜀の攻撃を防ぎ続けたことは曹叡の時代における大きな成果でした。
孫権の攻撃を防ぐ
呉の孫権も魏にとって脅威でした。
226年8月。孫権は江夏と襄陽を攻めました。234年には合肥方面にも攻撃をかけています。
曹叡は満寵らを用いて、呉の攻撃に対応します。孫権は魏の隙を突こうとしましたが、曹叡の時代に魏の防衛線を大きく崩すことはできませんでした。
魏は西で蜀、東南で呉と向き合っていました。曹叡は複数の方面に目を配り、国境を守った皇帝だったといえます。
孟達の反乱を鎮圧
227年には孟達の反乱も起こりました。
孟達はもともと蜀に仕え関羽の死後に魏へ投降した人物です。曹叡の時代に反乱を起こします。ここで孟達が蜀に従えば、蜀軍は魏の西南方面へ入り込む足がかりを得ることになります。
司馬懿はすぐに兵を進めて孟達を討ちました。こうして魏は新城方面が蜀の手に渡るのを避けました。
曹叡の時代に司馬懿が重く用いられた理由も、こうした判断と行動の速さにあったのでしょう。
公孫淵を滅ぼし遼東を魏の支配下にする
曹叡の時代でもう一つ重要なのが遼東の公孫淵討伐です。遼東は現在の中国東北部にあたる地域です。この地では公孫氏が長く独自の勢力を保っていました。
237年。公孫淵は自ら燕王を称しました。曹叡はこの問題を放置せず、司馬懿に討伐を命じます。
司馬懿は四万の兵を率い、夏侯霸らとともに遼東へ向かいました。そして238年、公孫淵を破り遼東を魏の支配下に入れます。
鮮卑の軻比能を秦朗に討たせた
曹叡の時代、北方で問題になったのは鮮卑の有力者・軻比能です。軻比能は鮮卑の諸部族をまとめる力を持っていました。
魏に従っていた鮮卑の歩度根にも働きかけ、魏の并州支配から離れさせようとします。并州刺史の畢軌は、将軍の蘇尚と董弼を送って鮮卑を攻撃させます。しかし軻比能の軍は楼煩で蘇尚と董弼を破り二人を戦死させました。
このまま軻比能と歩度根が合流すれば、魏の北方国境で鮮卑の軍事力が大きくなります。
曹叡は秦朗に軍を率いさせ鮮卑を討たせました。秦朗が出兵すると、軻比能らは漠北へ逃れ、歩度根配下の部族の一部は魏に投降しました。
こうして魏は鮮卑勢力がまとまるのを防ぐことができました。
法律と裁判制度を整える
曹叡は政治制度も整備しました。曹叡は律博士の制度を置き法律を研究、運用する体制を作りました。尚書の陳群らとともに魏律十八篇を制定します。
曹叡は獄訟つまり裁判や刑罰の扱いにも関心を持っていました。死刑の適用を慎重にしようとする姿勢も見せています。
若いころから律法に注意を向けていたとされる曹叡らしい政策といえます。
晩年の曹叡 宮殿造営と後宮拡大
宮殿造営
234年に諸葛亮が亡くなると、魏蜀国境の緊張は以前より落ち着きました。そのころから曹叡は洛陽で大規模な宮殿造営を進めます。
宮殿は皇帝の権威を示す重要な施設です。都を整えることには政治的な意味もありました。
ただ曹叡の造営は規模が大きく多くの人力と物資を使いました。戦争が続いた時代に大工事を行えば、人々の負担は増えます。楊阜や高堂隆らは何度も諫めましたが、曹叡はその意見の多くを採用しませんでした。
後宮の拡大と後継者問題
曹叡の晩年には後宮の拡大も批判されています。
記録には曹叡が多くの女性を後宮に入れたことが記されています。皇帝の後宮は私生活の場であるだけでなく、後継者を得るための場でもありました。
曹叡は実子に恵まれませんでした。生まれた子も早く亡くなり、安定した後継者を残すことができませんでした。それは曹叡本人にとっても大きな不安だったはずです。
曹叡の後継者問題 幼い曹芳と司馬氏の台頭
曹叡には実子がいましたが、早く亡くなりました。
そのため曹芳を養子として迎え皇太子候補として養育。234年には曹芳を斉王にすると後に皇太子とします。
曹叡が亡くなったとき、曹芳はまだ7歳でした。幼い皇帝は自分で政治を行えません。そこで曹爽と司馬懿が補佐する体制になりました。
この二人が協力し続ければ、魏の政治は安定したかもしれません。しかし実際には、曹爽が権力を握り司馬懿を遠ざけるようになりました。
その後、司馬懿は高平陵の変で曹爽を倒します。曹爽は処刑され、司馬氏が魏の政治を握っていきました。
曹叡の死後、魏の皇帝はしだいに実権を失います。そして最終的に司馬氏の晋に取って代わられることになるのです。
曹叡の最後
司馬懿と曹叡に後を任せる
238年の冬ごろから曹叡の体調は悪化し、239年の初めには病状がかなり重くなっていました。
曹叡は当初、燕王曹宇を大将軍に任じ、夏侯献、曹爽、曹肇、秦朗らとともに後継者を支えさせようと考えていました。ところが、曹宇は大将軍の役目を引き受けようとしません。
そこで曹叡は劉放と孫資を呼び相談しました。曹叡は曹宇の代わりに曹爽を大将軍にできるかと尋ねます。劉放と孫資はこれに賛成、さらに太尉の司馬懿に補佐させるべきだと強く勧めました。
曹叡はいったんそれを認めます。しかしその後、曹叡は司馬懿に任せるのはやめようとしました。すると劉放と孫資は曹叡を説得して司馬懿に任せるように働きかけます。
最終的に曹叡は曹爽と司馬懿に曹芳を補佐させる体制を決めました。
曹叡の最期と司馬懿
景初3年1月1日(239年1月22日)。司馬懿は遼東から戻り、河内郡に駐屯していました。
曹叡は司馬懿を急いで呼び、寝所に入れます。そして司馬懿の手を取り、後事を託しました。曹爽とともに曹芳を補佐するよう命じたのです。
その日のうちに曹叡は洛陽宮の嘉福殿で亡くなりました。享年35歳。ただし36歳とする説もあります。
曹叡の死後、曹芳が即位。曹爽と司馬懿が補佐しました。
この体制は最終的に安定しませんでした。曹爽が権力を握り司馬懿を遠ざけるようになります。ところが249年司馬懿は高平陵の変で曹爽を倒しました。
曹叡と卑弥呼の関係
邪馬台国の女王・卑弥呼は、魏に使者を送りました。魏の皇帝は卑弥呼に親魏倭王の称号を与えたと記録されています。
この時代の魏の皇帝が曹叡です。
遼東の公孫淵が滅び魏が東方への影響力を拡大したことで、倭から魏に来る道筋ができました。
魏志倭人伝には景初2年(238年)倭国の使者が魏の帯方郡に来ました。卑弥呼の使者が洛陽を訪れた年については、景初2年説と景初3年説があります。景初3年の場合は使者に会ったのは曹芳になります。
曹叡の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 204年 | 曹叡が生まれる |
| 217年 | 曹操の東征に際し、曹叡と東郷公主は母の甄氏を離れ、卞夫人や曹丕とともに行動する |
| 220年 | 曹操が亡くなり、曹丕が魏王となる。同年、曹叡は武徳侯に封じられる |
| 221年 | 曹叡は斉公となる。母の甄氏が曹丕に死を命じられ、曹叡は平原侯に降格される |
| 222年 | 曹叡が平原王となる |
| 226年 | 曹丕が病に倒れ、曹叡を皇太子に立てる。曹丕の死後、曹叡が皇帝に即位 |
| 226年 | 孫権が江夏と襄陽を攻める |
| 227年 | 孟達の反乱が起こる |
| 227〜234年ごろ | 諸葛亮が魏へ北伐を行う |
| 234年 | 諸葛亮が五丈原で亡くなる。孫権が合肥方面を攻める |
| 234年 | 曹芳が斉王に封じられる |
| 237年 | 景初暦を発布。公孫淵が燕王を称して反抗する |
| 238年 | 司馬懿が公孫淵を討ち、遼東を平定する |
| 238〜239年ごろ | 卑弥呼の使者が魏へ向かう |
| 239年1月22日 | 曹叡が洛陽で亡くなる。曹芳が即位 |
| 239年2月17日 | 曹叡が高平陵に葬られる |
まとめ
曹叡は積極的な遠征はあまり行わずに魏の守りに徹した皇帝でした。
若くして即位し孫権の攻撃、孟達の反乱、諸葛亮の北伐、公孫淵の反乱に対処。曹真、張郃、司馬懿、満寵らを使って魏を守りました。
政治面では律博士を置き、陳群らと魏律十八篇を定め。裁判や刑罰にも関心を持ち、暦も改めました。文化面では詩文を作り、曹操・曹丕とともに魏氏三祖に数えられます。
このように見ると曹叡は軍事、政治、文化の面で多くの仕事をした皇帝といえます。
一方で、晩年には大規模な宮殿造営を進め多くの人力と物資を使いました。
後継者問題も大きな課題でした。実子に恵まれず養子の曹芳を後継者にしました。
曹操や曹丕ほど有名ではありませんが、曹叡の時代を見ると、諸葛亮の北伐、司馬懿の台頭、卑弥呼と魏の関係など重要な出来事の多い時代だったことがわかります。
魏の明帝 曹叡は三国志の後半を理解するうえでも欠かせない皇帝といえるかもしれません。

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