潘岳は西晋の官僚で文学家でもあった人物です。
字は安仁。後世では「潘安」という名で語られ、美しい男性をたとえる「貌若潘安」「容姿は潘安の如し」という言い方でも知られました。さらに、洛陽の女性たちが彼の車に果物を投げ入れたという「擲果盈車」の故事も有名です。現在でも美男子が女性に慕われる例えとして知られています。
潘岳は美男子伝説の他にも詩人としても有名です。妻を悼んだ『悼亡詩』、秋のもの寂しさと出世への焦りを詠んだ『秋興賦』、母への孝養と隠居生活への思いを書いた『閑居賦』などを残した西晋文学を語るうえで欠かせない文人です。
近年は、中国ドラマ『花間令<かかんれい>~Lost in Love~』で、潘安をモデルにした潘樾という人物が描かれたこともあり、ドラマから潘岳を知った人もいるかもしれません。ドラマはあくまで創作を交えた時代劇です。
この記事では史実の潘岳と後世に広まった潘安像を紹介します。
潘岳(潘安)とは
潘岳(潘安)は西晋の文学家で重臣
潘岳は西晋の時代に生きた官僚で文学家です。
本名は潘岳、字は安仁。字とは、成人後に使われる呼び名です。後世では「潘安」という名が広まり美男子の代名詞のように使われました。
もともと潘岳は滎陽郡中牟県、現在の河南省あたりを本籍とする家の出身でした。幼い頃から賢く文才にすぐれ、地元では神童といわれたようです。
官僚としては地方の県令を務め、その後、中央で散騎侍郎や黄門侍郎になりました。
県令とは、県を治める地方官です。黄門侍郎は皇帝の近くで文書や政務に関わる官職でした。
潘岳の名を広めたものは美貌だけではありません。妻の楊氏を悼んだ『悼亡詩』、秋の寂しさと出世への焦りを書いた『秋興賦』、官界を離れて母への孝養を語った『閑居賦』など、文学の面でも高く評価されました。
その一方で潘岳は西晋末の政争に深く関わりました。賈皇后や賈謐に近づき、皇太子司馬遹を陥れる謀略にも加わったとされます。最後は、かつて恨みを買った孫秀に追い詰められ、八王の乱の中で処刑されました。
プロフィール
- 名前:潘岳(はん がく)
- 字:安仁
- 後世に広まった名:潘安
- 国:晋・西晋時代:西晋
- 本籍:滎陽郡中牟県
- 生年:247年(正始8年)
- 没年:300年(永康元年)
- 享年:満年齢では52〜53歳、数え年では54歳とされます
- 官職:黄門侍郎
- 著作:『悼亡詩』『秋興賦』『閑居賦』『寡婦賦』など
- 関係する事件:八王の乱、皇太子司馬遹の廃位事件
家族構成
- 祖父:潘謹
- 父:潘芘
- 母:王氏
- 兄:潘釈
- 弟:潘豹、潘据、潘詵
- 妻:楊氏
- 再婚相手:氏名不詳
親族:洛陽にも親族がいたとされます
潘岳・潘安・潘安仁の名前の違い
潘岳には潘岳、潘安、潘安仁などいくつかの名前があります。
本名は潘岳です。
安仁は字。そのため「潘安仁」と呼ばれることもあります。
潘安は後世に広まった呼び名です。「安仁」の安をとってそう呼ばれるようになりました。この名は本人が使用した正式な名前というより、美男子伝説の中で有名になった呼び方です。
潘岳の出自
潘岳の本籍は、滎陽郡中牟県です。
祖父の潘謹は安平太守を務めました。太守とは、郡を治める長官のことです。父の潘芘は琅邪内史でした。内史も地方行政に関わる官職です。
潘岳は、地方官を出す家に生まれた人物でした。幼い頃から文才を示したことで、早くから将来を期待されていたのでしょう。
母は王氏で、王烈の姉妹です。潘岳の母は、のちに潘岳が権勢家の賈謐に近づいて軽薄にふるまう姿を見て、たびたび厳しく戒めたといわれます。
この母の言葉は、潘岳の人生を読むうえで大事です。潘岳は才能にも容姿にも恵まれましたが、政治の場では危うい選択を重ねていきました。母はその危なさを感じていたのでしょう。
潘岳の美男子伝説
潘岳で特に有名なのが美男子としての伝説です。
若い頃の潘岳は洛陽の女性たちの間でたいへん人気があったといわれます。潘岳が車に乗って街へ出ると、女性たちが果物や花を投げ入れ、帰る頃には車がいっぱいになったという話が伝わっています。
この逸話が「擲果盈車」です。擲果とは果物を投げること、盈車とは車に満ちること。潘岳の車が果物でいっぱいになるほど女性に慕われた、という意味ですね。
この話は、後世に潘岳を「潘安」という美男子像で語るときによく使われます。
さらに中国古代の美男子を語るとき、潘安はよく代表格として挙げられます。蘭陵王、宋玉、衛玠などと並べて語られることもあります。時代や選び方によって顔ぶれは変わりますが、潘安が美男子の代名詞として人々の記憶に残ったことは確かです。
ただ、果物で車がいっぱいになったというのは事実というより物語的です。潘岳が美貌で有名だったのかも知れませんが、それに尾ひれがついて誇張された逸話と考えたほうがいいかも知れません。
河陽県令と「花」の逸話
285年、潘岳は河陽県令になりました。県令とは県を治める地方官です。潘岳は河陽で約3年務め、その後、懐県令へ転任しました。
河陽県令の時代に潘岳は領民に花を植えるよう勧めたとされます。そのため、町中に花があふれたという話が伝わりました。
他にも潘岳は地方官としても政績を挙げました。役人としても優秀だったようです。
潘岳の生涯
中央へ進んだ若き文人
266年、潘岳は司空府に呼ばれて働くことになりました。
司空とは三公の一つで国家の高官です。司空府に入ることは、中央政界へ進むきっかけになりました。
この頃、潘岳はすでに美貌と文才で知られていたようです。洛陽の女性たちが果物や花を投げたという話も、この若い時期の評判と結びついて語られました。
その後、潘岳は父の喪に服すため一度官職を離れます。
賈充に仕える
272年、賈充が司空になると潘岳は司空掾となりました。
掾とは役所に仕える属官です。潘岳は賈充のもとで働き、賈充が太尉になると、太尉府へ移りました。太尉も三公の一つで軍事や政治に関わる高官です。
278年、潘岳は太尉掾兼虎賁中郎将になりました。
虎賁中郎将は、皇帝周辺の護衛に関わる武官系の官職です。
ところが、まもなく周囲の嫉妬を買ったとされ潘岳は官職を辞して天陵山に隠れ住みました。この天陵山は洛陽と鞏県の間にあり、父の潘芘が晩年を過ごした場所でもありました。
河陽県令・懐県令として政績を挙げる
285年、潘岳は再び官界に戻り、河陽県令になりました。
潘岳は河陽で約3年務め、その後、懐県令へ転任します。どちらの赴任地でも、優れた政績を挙げたといわれます。
河陽で花を植えさせたという逸話もこの時期の話です。潘岳の治めた町が花で満ちたという話は、美男子文人のイメージとよく合います。
289年、潘岳は尚書度支郎に抜擢され、さらに廷尉評へ昇進しました。尚書度支郎は財政に関わる官職、廷尉評は刑罰や裁判に関わる官職です。
しかし、まもなく公務上の理由で免職となりました。潘岳の官僚人生は、出仕、辞職、復帰、失脚を繰り返すものでした。
楊駿に仕えて失脚する
恵帝が即位すると、太傅の楊駿が政治を補佐しました。潘岳は楊駿の主簿に起用されました。
ところが291年、楊駿は賈皇后によって処刑されました。潘岳もその事件で連座。
潘岳は死罪を言い渡されましたが、旧友の公孫宏に救われ、死刑を免れました。その代わり、庶民に落とされてしまいます。
賈謐に近づき、二十四友に加わる
その後、潘岳は外戚として権勢をふるった賈謐に近づきました。
潘岳は賈謐に媚びへつらい、その文人グループの「二十四友」の一員になりました。潘岳の母は、この態度を苦々しく思い、何度も注意したとされます。しかし潘岳は行動を改めなかったようです。
292年。潘岳は長安令になりました。
296年には博士に転任する予定でした。ところが着任前に母が病に倒れたため、潘岳は辞職して喪に服します。
この時期、潘岳は友人の石崇が金谷園で開いた宴にも出席しています。金谷園は石崇の別荘です。
翌年、潘岳は著作郎になり、のちに散騎侍郎へ移りました。
妻の死と『悼亡詩』
298年、妻の楊氏が亡くなりました。
潘岳は喪に服すため、再び官職を退きました。この妻を偲んで作った作品が『悼亡詩』です。
潘岳の『悼亡詩』三首は、中国文学の中でも早い時期の代表的な哀悼詩とされます。
皇太子 司馬遹を陥れる謀略
299年、潘岳は黄門侍郎に就任しました。同じ年に再婚しています。
黄門侍郎は皇帝の近くで文書や政務に関わる重要な官職です。
当時、賈皇后は皇太子の司馬遹を陥れようとしていました。潘岳はその謀略に加わり、謀反をでっち上げる文章を考えたとされます。
そして酒に酔った皇太子にその文章を書き写させました。その文章が罪の証拠にされ、皇太子は廃位されます。翌年、司馬遹は殺害されました。
潘岳の文学は高く評価されました。しかし、この行動は後世に批判の材料となりました。『晋書』が潘岳の評価に厳しい理由も、このあたりにあります。
八王の乱での最期
その後、趙王の司馬倫が皇太子の仇討ちを掲げて挙兵しました。
司馬倫は賈皇后を廃して賈謐らを殺害しました。潘岳も賈謐の一派とみなされ、免職となります。
このとき司馬倫の最側近として中書令になっていたのが孫秀でした。孫秀は、かつて潘岳に鞭で打たれた人物です。孫秀は潘岳に対し、昔の恨みを一日も忘れたことはない、という意味の言葉を放ったとされます。
同じく孫秀と対立していた石崇は、潘岳と手を組み、淮南王の司馬允を説得して司馬倫を討たせようとしました。
その計画は孫秀に見破られました。
一説には、孫秀が潘岳と石崇に謀反の濡れ衣を着せたともいわれます。
潘岳たちが実際に謀反を計画したとする説と、孫秀が恨みから陥れたと見る説があります。
結果として、潘岳と石崇は捕らえられました。潘岳は一族もろとも処刑されました。
300年。潘岳は生涯を閉じました。満年齢では52〜53歳、数え年では54歳とされます。死後は、鞏県の南西にある父・潘芘の墓のそばに葬られました。
潘岳の評価
潘岳の文学は後の時代に高く評価されました。
葛洪は、潘岳の文才を陸機や陸雲よりも上だと称えました。陸機・陸雲兄弟は西晋を代表する文人ですから、かなり高い評価です。
王隠は『晋書』で潘岳の哀悼文を古今に比べるものがないと称えました。傅亮も、潘岳の詩文を清らかで美しく、並ぶ者がないと評しました。
鍾嶸は詩の批評書『詩品』で潘岳を最高ランクの「上品」に置きました。鍾嶸は、潘岳の詩風について、王粲に源流があり、華やかで軽快な響きがあると評価しました。
『文心雕龍』でも、潘岳の哀悼作品は高く評価されました。まっすぐな情感と奥ゆかしい言葉づかいがあり、古い形式の中に新しい味わいがあると見られました。
房玄齢らが編纂した『晋書』は潘岳の文辞の華麗さを認めつつ、権力者に媚びた人物として厳しく批判しています。
潘岳は、文学の才能では称えられましたが、政治的な行動では批判されました。
関連記事
潘岳をモデルにした人物ドラマ「花間令」の潘樾を紹介

コメント