郁皇后は中国ドラマ「後宮の涙」で重要な役割を果たす人物です。
彼女は実在した柔然公主、郁久閭氏をモデルにしています。
でもドラマと史実では、その人物像や家族関係が違います。
この記事ではドラマの郁皇后と史実の郁久閭氏のそれぞれの生涯と、二人の共通点と相違点を詳しく解説します。
「後宮の涙」の郁皇后とは?
郁皇后は南北朝時代の北斉の初代皇帝・文宣帝高歓の皇后という設定。
夫:文宣帝 高歓
子供:高湛(こうたん)、高湘(こうしょう)
柔然(じゅうぜん)の公主、高湛(こうたん)と高湘(こうしょう)の生母です。
聡明で心優しい女性として描かれていますが、後宮の権力争いに巻き込まれ婁貴妃(当時)の陰謀によって毒殺されてしまいます。
死の間際、郁皇后は息子・高湛に
と遺言を残します。
この言葉は高湛のその後の人生に大きな影響を与えることになります。
高湛との関わり
郁皇后は息子・高湛を深く愛していました。高湛も母をたいへん尊敬して死を深く悲しみます。
郁皇后の死は高湛が皇位をめぐる争いに身を投じるきっかけとなります。母の遺言を胸に高湛は婁氏一族への復讐を誓い、やがて皇帝の座へと上り詰めていくことになります。
実在の 柔然公主 郁久閭氏
次に北斉の初代皇帝・高歓に嫁いだ実在の柔然の公主 郁久閭氏(柔然公主)について紹介します。
通称:
柔然公主(じゅうぜんこうしゅ)
蠕蠕公主(じゅんじゅんこうしゅ)
家族
夫:北斉 神武帝 高歓(ほくせいしんぶていこうかん)
北斉 文襄帝 高澄(ほくせいぶんじょうていこうちょう)
娘:高氏(こうし、高澄との娘)
柔然から東魏に輿入れ
柔然公主は当時の強国・柔然の可汗、阿那瓌の第二王女として生まれました。
柔然は西魏と友好関係にあり共同で東魏を攻めようとしていました。
東魏の実質的な支配者だった宰相の高歓は西魏に対抗するため、柔然と婚姻関係を結んで同盟しようと考えます。
当初、高歓は息子の高澄との婚姻を提案しましたが、柔然可汗の郁久閭 阿那瓌(いくきゅうりょ あなかい)は高歓自身が娶るように要求しました。
高歓には婁昭君という正妻がいました。でも柔然可汗の要求は断れず、しかたなく柔然可汗を正妻に迎え、婁昭君を側室にしました。
武定3年(545年)。柔然公主 は東魏に輿入れしました。でも彼女は生涯、漢語を話そうとしなかったと言われています。異国の地にあっても、自らの誇りを忘れなかったのでしょう。
高歓との結婚、そして死別
高齢だった高歓は病気がちで、公主の元を頻繁に訪れることはできませんでした。このことに公主の親族は不満を持ったと言われています。
やがて高歓は死亡。
高歓の死後。公主は柔然の習慣に従い、高歓の息子・高澄の妻となりました。そして、娘を一人もうけました。
でも公主自身も若くして病に倒れ、武定6年(548年)に并州の王宮で亡くなります。彼女の遺体は北斉の王陵の北に埋葬されました。
高澄も反対勢力に暗殺され。弟・高洋が孝静帝を廃して北斉を建国しました。その後は北斉と柔然との交流はなくなります。
柔然公主の娘がどうなったのかは記録にありません。
柔然とは
柔然は4世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を中心に活躍した遊牧民族です。
騎馬戦術に優れており、北魏をはじめとする中国の王朝と時には戦い、時には交流しました。
柔然という名前について
柔然は漢字で「柔然」または「蠕蠕」と書きます。でも、これらの漢字に深い意味はありません。彼らの言葉の発音を漢字に当てはめたものと考えられています。元の言葉がどのような意味だったのかは、残念ながら分かっていません。
柔然の起源と発展
柔然の起源は鮮卑に属していた部族だったと言われています。
3世紀頃、鮮卑の多くが中国本土に移住しました。その結果、モンゴル高原に残った鮮卑の勢力が弱まり、4世紀末頃に柔然が力をつけていきました。
そして、可汗を君主とする遊牧国家を築き最盛期にはモンゴル高原から中央アジアにかけて広大な領域を支配しました。
東西交易の中継地として、大変栄えたようです。
北魏との関係
柔然は北魏にとって北方の脅威で、両国は頻繁に軍事衝突を繰り返しました。
でも政治的な駆け引きや婚姻政策を通じて、交流も行われました。
北魏の太武帝は柔然を討伐するために遠征しましたが、決定的な勝利を収めることはできなかったようです。
柔然の衰退と滅亡
6世紀に入ると柔然は内紛や周辺民族の圧力によって衰退し始めました。
そして552年に突厥によって滅ぼされ、残党は各地に散らばってしまったようです。
柔然と北斉の対立と交流
柔然は北魏時代から中国北方の脅威として存在し、頻繁に軍事衝突を繰り返しました。北斉の前身となる東魏も柔然との緊張関係を引き継ぎました。
でも軍事的な対立だけでなく、政治的な駆け引きや交易も行われ様々な交流がありました。
婚姻関係
北斉の実質的な建国者と言える 高歓は柔然との関係を安定させるために柔然可汗の娘、郁久閭氏(柔然公主)を妻に迎えました。この婚姻は両国の関係を深めるための重要な手段でした。
政治的な影響
柔然は北斉の北方政策に大きな影響を与えました。北斉は柔然との関係を安定させるために常に北方を警戒しなければいけません。
柔然の衰退と北斉への影響
6世紀に入ると、柔然は突厥によって滅ぼされその勢力は衰えました。
柔然の衰退で北斉は柔然の脅威にさらされることはなくなりましたが、突厥という新しい勢力に脅かされるようになります。
このように柔然と北斉は軍事的な対立と政治的な交流、婚姻関係を通じて複雑に絡み合っていました。
「後宮の涙」郁皇后と実在の柔然公主の違いと共通点
ドラマ「後宮の涙」に登場する郁皇后は聡明で心優しい女性として描かれますが、後宮の権力争いに巻き込まれ、悲劇的な死を遂げます。彼女の死が高湛の復讐心の原料力になっています。
この郁皇后のモデルとなったのが、北斉に嫁いだ柔然の公主 郁久閭氏(柔然公主)です。
ドラマと史実、二人の郁久閭氏にはどのような共通点と相違点があるでしょうか。
共通点:柔然の姫
- 柔然出身の公主
ドラマ・史実ともに郁久閭氏は柔然の公主として、北斉(東魏)に嫁いでいます。異国での生活を余儀なくされたという点は共通しています。 - 高歓の正妻になる
ドラマ・史実ともに柔然との同盟関係を築くため高歓が郁久閭氏を正妻として迎えています。その結果、婁昭君が側室になってしまいます。 - 異国での孤独
史実の郁久閭氏は漢語を話さなかったと伝えられています。ドラマでも彼女が異国で孤独を感じていた様子が描かれており、異国で寂しく暮らした点が共通点といえるかもしれません。
違う所
最期
- ドラマ:郁皇后は後宮の権力争いに巻き込まれ、婁貴妃の陰謀によって毒殺されます。
- 史実:病死したとされており、ドラマのような劇的な最期ではありません。
高湛との関係
- ドラマ:郁皇后は高湛の実母であり、彼の人生に大きな影響を与える存在として描かれています。
- 史実:郁久閭氏の子は高澄の娘だけ。高湛の母ではありません。
地位
- ドラマ:史実と違い夫の高歓が北斉の皇帝になっているので、郁久閭氏も生前に皇后になっている設定。
- 史実:夫の高歓は北斉の皇帝ににはなっていません。郁久閭氏も生前には皇后になっていません。
ドラマ「後宮の涙」における郁皇后の役割
ドラマ「後宮の涙」では郁皇后の死は高湛に大きなショックを与え、高湛が婁氏を激しく憎む原因になっています。
郁皇后は劇中ではすでに故人になっていて出番はありませんが。物語では重要な役割を果たしています。
まとめ
ドラマ「後宮の涙」の郁皇后は史実の郁久閭氏をモデルにしていますがドラマチックな脚色が加えられています。
ドラマ「後宮の涙」の郁皇后は史実の柔然公主をモデルにしつつ、高湛との母子関係など劇的な脚色がされています。
孤独な異国で誇り高く生きる姿は共通ですが、ドラマでは後宮の権力争いに巻き込まれ悲劇的な死を遂げる点が大きく違います。
ドラマでは郁皇后の存在が、高湛の復讐心の原動力になるなどドラマに深みを与え、重要な役割を果たしているといえますね。
コメント