宇文護【独孤伽羅】青い目や般若との関係は史実か?イケメン俳優が演じる悪役の真実

宇文護 6 南北朝
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中国ドラマ『独孤伽羅~皇后の願い~』の宇文護は悪役ながら人気のキャラクターです。

演じた俳優シュー・ジェンシーさんが「イケメン悪役」として話題になり、特に印象的な「青い目」や独孤般若との切ない関係に惹きつけられた方も多いのではないでしょうか?

確かに宇文護は実在の人物です。でもドラマの宇文護があまりにも印象深いキャラクターだったために「本当に史実なの?」と疑問に思った方もいるでしょう。

ドラマでは北周の太師から晋王へと上り詰める彼ですが、史実ではどうだったのでしょうか?この記事では、ドラマで描かれた宇文護の姿と史実を比較しながら、その波乱に満ちた生涯の真実に迫ります。

 

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『独孤伽羅』版・宇文護の魅力

多くの皆さんが宇文護を知るきっかけとなったであろう、ドラマ『独孤伽羅~皇后の願い~』で描かれた宇文護の姿を振り返ってみましょう。

ドラマでの彼は冷酷で目的のためには手段を選ばない一方、ある女性への一途な愛に苦悩するという、人間的な深みを持つキャラクターでしたね。

ドラマの中では、当初は北周の太師という重職にあり、後に晋王という最高位に近い爵位を得る人物として描かれています。

宇文護が「イケメン」「魅力的」と言われる理由は?【俳優:シュー・ジェンシー】

宇文護 イケメン」という言葉で検索してたどり着いた方もいるかもしれませんね。ドラマで宇文護を演じたのは、俳優のシュー・ジェンシー(徐正溪)さんです。

彼の端正なルックスと、冷たい表情の裏に見せる切ない演技は、多くの視聴者の心を捉え、「悪役なのに魅力的」「史上最高の悪役」と言われました。

単なる悪役ではない複雑な内面を表現したシュー・ジェンシーさんの演技力こそが、ドラマ版宇文護をこれほどまでに魅力的にし、「イケメン」という印象を与えた大きな理由でしょう。彼の存在感は、ドラマの人気を牽引したと言っても過言ではありません。

ちなみに史実の宇文護の外見について、具体的な記録はほとんど残されていません。特に「イケメンだった」といった容姿に関する記述は史料にはないため、ドラマでの「イケメン」というイメージは、俳優さんの魅力とドラマの演出によるものと言えます。

 

宇文護と独孤般若との関係はどこまで史実?

ドラマ『独孤伽羅』前半の中心的な要素に宇文護と独孤般若(どっこ はんじゃく)の激しい関係があります。

史実の宇文護と般若の関係はどうなの?と疑問に思った方も多いでしょう。

結論から言うとドラマで描かれたような宇文護と独孤般若の恋愛関係は、史実には一切記録がありません

史実では独孤般若は北周の明帝の皇后で宇文護が毒殺した皇帝の妻です。二人の間にロマンスがあったという話は完全にドラマオリジナルの創作です。

ドラマの中では独孤伽羅が誘拐された事件をきっかけに二人の関係が決裂したり、後の隋の文帝の皇后となる娘の楊麗華(ようれいか)が、実は宇文護と般若の間に生まれた子。といったエピソードがあります。

でもこれもドラマを盛り上げるための作り話です。史実にはそのような記録はありません。

ドラマでの二人の関係は物語を動かす重要な要素となっていますが、史実ではないことを理解しておくと、より史実の宇文護や独孤一族への理解が深まります。

 

「青い目」はなぜ?:史実ではどうだった?

ドラマ版宇文護のもう一つの強い印象が「青い目」ですね。宇文護の 青い目はなぜ?と不思議に思われた方もいるかもしれません。

史実の記録で宇文護の硬めが色が違うとか、青い目だったという直接的な記述はありません

しかし宇文護は北方民族である鮮卑族の出身です。鮮卑族を含む胡族(漢民族以外の北方民族)の中には、現在のヨーロッパ系民族のように色素が薄く髪や目の色が明るい特徴を持つ人々もいました。

武帝 宇文邕の妻・阿史那皇后の父・阿史那俟斤は目が青かったと記録されています。

そのため宇文護が青い目だった可能性はゼロではありません。

でもそれを裏付ける史料がないので史実とは断言できないのです。

仮に目が青かったとしても両目が青いのが普通ですし。感情で色が付くといったこともありません。

ドラマを盛り上げるための演出としてこの特徴が加えられたのはもちろんですが、彼の異民族性やミステリアスな雰囲気を強調するための演出もあったのかもしれません。

 

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史実で見る宇文護:冷酷な権力者の生涯

ドラマで描かれる魅力的な(そして恐ろしい)宇文護像の背景には、激動の時代を生きた一人の歴史人物の存在があります。

史実の宇文護は一体どのような生涯を送ったのでしょうか。

出自から権力掌握まで:宇文泰との関係と昇進

史実の宇文護は、西暦513年に、後の北周の実質的な創始者である西魏の大将軍 宇文泰(うぶんたい)の甥として生まれました。彼の父は宇文泰の兄である宇文顥(うぶん こう)です。

彼らの父は宇文肱(うぶん こう)という人物で、宇文一族の有力者でした。宇文護は幼い頃に父を亡くし、叔父である宇文泰の軍に身を寄せます。

宇文泰は卓越した軍事的・政治的才能を持ち、北魏の分裂後に西魏という国を打ち立てました。宇文護は叔父のもとで多くの戦場を駆け巡り、武功を立て、その能力を認められていきます。

宇文泰から後を託される

叔父からの信頼は非常に厚く、西暦556年に宇文泰が病に倒れた際、まだ息子たちが幼かったため、宇文護に国の未来を託すという遺命を与えました。

史実では宇文泰は宇文護を輔政大臣兼太師に任じ、嫡子の孝閔帝(宇文覚)を補佐するよう命じています。

この遺命を受けて、宇文護は北周という新しい王朝の最高権力者の地位に就きました。

三代皇帝の廃立と粛清:史実の冷酷な実像

宇文護は宇文泰の遺命を守る形で権力を握りましたが、次第にその権力への執着心をあらわにしていきます。

彼は自らが擁立した三代の皇帝を次々と廃位したり殺害したりしました。これらの皇帝は宇文泰の子であり、宇文護から見れば従兄弟にあたります。

  • 初代 孝閔帝(宇文覚): 宇文泰の嫡子で、宇文護が西魏から禅譲を受けて擁立した北周最初の君主。宇文護の専横に反発したため、廃位され殺害されました。
  • 二代 明帝(宇文毓): 孝閔帝の次に宇文護が擁立した皇帝。非常に聡明で有能だったため、自身の地位が脅かされると感じた宇文護に毒殺されました。
  • 三代 武帝(宇文邕): 明帝の弟。即位当初は愚鈍を装って宇文護を油断させながら密かに力を蓄えました。

このように血縁者の皇帝すら自らの権力の邪魔になれば容赦なく排除したのが史実の宇文護です。

宇文泰と共に戦った古参の重臣たち、例えば趙貴独孤信(ドラマ『独孤伽羅』の独孤伽羅の父)なども、宇文護の横暴に反発したり、排除しようとしたりしたため粛清されました。

独孤信が自害に追い込まれたのも史実に基づいています。

 

最期の瞬間:武帝による暗殺劇の史実【独孤伽羅 宇文護の最後】

ドラマでも衝撃的に描かれる宇文護の最期ですが、これも史実通り、武帝によって暗殺されました。「独孤伽羅 宇文護の最後」について検索された方も、ドラマでの壮絶なシーンを覚えているでしょう。

西暦572年、宇文護が都に戻った際、武帝は周到に練った計画を実行に移します。

武帝は、高齢ながら酒好きだった皇太后(叱奴太后)を諫めるため、宇文護に『酒誥(しゅこう)』という書物を読み聞かせてほしいと頼みます。宇文護が皇太后の宮殿で無防備に書物を読んでいる隙を狙って、奥に隠れていた武帝が飛び出し、手に持っていた笏(しゃく:儀礼用の板)で宇文護の背中を強く突き倒しました。

倒れた宇文護に、武帝の弟である宇文直(うぶんちょく)がとどめを刺し、その場で絶命させました。享年60でした。長年恐れられた権力者は、あっけない最期(被滅殺)を迎えたのです。

宇文護のこの死をきっかけに、彼の死後、独孤伽羅の夫である楊堅が権力の中枢へと進出し、隋の建国へと繋がっていくことになります。宇文護の最期は、北周、そしてその後の隋唐の歴史において、大きな転換点となった出来事と言えるでしょう。

 

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独裁者だけじゃない?宇文護の功績と歴史的評価

冷酷な権力者としてのイメージが強い宇文護ですが、彼が生きた時代や立場を考えると、功績と呼べる側面もありました。

北周の安定と発展への貢献

宇文護は、叔父・宇文泰の遺志を継ぎ、建国間もない北周王朝の基盤を固めることに尽力しました。彼は北周の開国奠基者(基礎を築いた者)の一人と言えます。古代周の制度を取り入れた六官制(りくかんせい)の整備など、内政を安定させるための政策を進めました。

また、異なる民族が融和するための政策も行い国の内側を固めようとしました。

北斉との力関係を変えた手腕

宇文護が権力を握っていた頃、北周は東の北斉と激しく対立していました。建国当初は北斉の方が優位でしたが、宇文護は巧みな内政運営と軍事力強化によって、徐々に北斉との差を縮め、最終的には対等、あるいはそれ以上の国力を持つまでに北周を成長させました。

この国力増強があったからこそ、後に武帝が北斉を滅ぼし、華北統一を成し遂げることができたのです。彼の統治は、短期的には混乱と恐怖をもたらしましたが、長期的には北周の発展に貢献したという見方もできます。

功罪両面:歴史は彼をどう評価する?

宇文護に対する歴史的な評価は、まさに功罪両面から語られます。

  • 罪の側面: 三代の皇帝殺害、多くの反対派粛清といった冷酷な権力闘争の手法は厳しく批判され、独裁者、権臣として悪名が高いです。
  • 功の側面: 乱世において強固なリーダーシップを発揮し、不安定だった北周を安定させ、国力を増強させて華北統一の礎を築いた点は高く評価されます。

宇文護は、その生きた時代ゆえに、良くも悪くも大きな足跡を残した、複雑な人物と言えるでしょう。

宇文護に関する【徹底解説】FAQ

ドラマや歴史に触れて宇文護について抱きやすい、様々な疑問にお答えします。

宇文護の子供や子孫はどうなった?

Q: 宇文護の子供や子孫はどうなりましたか?【家系図はありますか?】
A: 宇文護には記録に残るだけでも10人以上の息子がいました。ドラマでは独孤般若との間に娘「麗華」がいるという設定がありましたが、これは史実ではありません。史実の宇文護は、彼が武帝によって暗殺された際、その息子たちや近い親族、そして彼に従っていた多くの人々が武帝によって徹底的に粛清されました。そのため、宇文護の血筋はそこで途絶えてしまったと考えられています。

 

『独孤伽羅』以外のドラマではどう描かれている?【他の俳優は?】

Q: 『独孤伽羅』以外のドラマでは、宇文護はどのように描かれていますか?演じている俳優は誰ですか?
A: 宇文護は、『独孤伽羅』以外にも、中国時代劇に登場し、「宇文護 俳優」としてシュー・ジェンシーさん以外の俳優さんも演じています。

  • 『独孤皇后 ~乱世を駆ける愛~』: こちらのドラマも隋の文帝・皇后を描いていますが、宇文護はより冷酷で、歴史書に近い「悪役」として描かれる傾向があります。特に、このドラマでは宇文護はイケメンとしてではなく、権力に取り憑かれた中高年の男性として描かれており、『独孤伽羅』での描写とは対照的です。演じているのは蔣愷(ジャン・カイ)さんなど。
  • 『蘭陵王』『蘭陵王妃』: 北斉の蘭陵王が主人公のドラマです。北周の最高権力者として、主人公たちの敵役の一人として登場します。『蘭陵王』では鄭曉寧(ジョン・シャオニン)さん、『蘭陵王妃』では林韋辰(リン・ウェイチェン)さんが演じています。

作品によって年齢設定や描かれ方に違いがあり、それぞれの俳優さんが異なる宇文護像を作り上げています。

 

まとめ:ドラマと史実から見えた宇文護という人物

ドラマ『独孤伽羅』で「イケメン悪役」として強烈な印象を残した宇文護ですが、ドラマでの姿は史実に基づいている部分(権力者としての地位、皇帝廃立、武帝による暗殺など)もあれば、ドラマオリジナルの創作(独孤般若との恋愛、青い目、楊麗華のエピソード、爵位の一部など)もあります。

史実の宇文護は確かに三代もの皇帝を手にかけ、多くの血を流した冷酷な権力者でした。

でも彼は同時に叔父・宇文泰から託された北周王朝を安定させ、国力を増強させた功労者でもあります。

彼の生涯は乱世における苛烈な権力争いや人間の持つ功罪といったものを極端な形で現しているのかもしれません。

 

参考情報

史実の宇文護の生涯について、もっと知るための参考情報を以下に示します。

宇文護の家族構成

父: 宇文顥(うぶん こう) – 北魏の武人。
母: 閻姫(えんき)
叔父: 宇文泰(うぶん たい) – 北周の実質的な創始者。
妻: 河南元氏(かなん げんし) – 西魏の安昌王・元均(げん きん)の娘。

子供: 宇文訓(うぶん くん)、宇文会(うぶん かい)、宇文至(うぶん し)など、記録に残るだけでも10人以上の息子がいました。

宇文護と主要人物の簡単な相関関係

  • 宇文泰: 宇文護の叔父であり、師、そして権力継承を託した人物。
  • 孝閔帝(宇文覚): 宇文泰の嫡子。宇文護が擁立した北周初代天王。後に宇文護に廃され殺害される。
  • 明帝(宇文毓): 宇文泰の庶長子。宇文護が擁立した二代皇帝。後に宇文護に毒殺される。
  • 武帝(宇文邕): 宇文泰の子。宇文護が擁立した三代皇帝。後に宇文護を暗殺し親政を開始。
  • 独孤信(どっこ しん)、趙貴(ちょう き): 宇文泰時代の重臣。宇文護の専横に反発し、粛清された。
  • 于謹(う きん)、李弼(り ひつ): 宇文泰時代の重臣。宇文護の権力掌握に協力した。

宇文護の生涯年表(主要な出来事)

513年: 誕生
524年頃: 六鎮の乱で父・宇文顥が戦死
526年頃: 叔父・宇文泰の軍に入る
534年: 孝武帝の長安入りに関与、水池県伯となる(西魏の成立)
549年: 江陵攻略で活躍、司空となる
556年: 宇文泰が死去、その遺命により権力を託される
557年: 西魏恭帝から宇文覚への禅譲を実現、北周を建国。初代天王・孝閔帝を擁立、大塚宰として実権を握る。趙貴、独孤信らを粛清。孝閔帝を廃位・殺害。
557年末: 二代皇帝・明帝(宇文毓)を擁立
560年: 明帝を毒殺。三代皇帝・武帝(宇文邕)を擁立。
572年: 武帝によって暗殺される(享年60)

 

参考文献/情報源

宇文護についての歴史情報は主に以下の史書をもとにしました。

『周書』: 北周の正史。宇文護の伝が収められています。
『北史』: 北朝全体の歴史を記した史書。
『資治通鑑』: 編年体の歴史書。宇文護の時代の出来事が詳細に記されています。

 

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