中国ドラマ「独孤伽羅」では伽羅の姉で北周皇后「独孤般若」は強烈な印象を残すキャラクターです。
ドラマ「独孤皇后」にも伽羅の姉は登場しますが、目立つ存在ではありません。
全く違う描かれ方に戸惑います。そのため独孤般若は本当に歴史上に実在したの?と疑問に思うかもしれません。
結論からお話しすると、独孤般若という名前はドラマの創作ですが、そのモデルになった人物は間違いなく実在しました。
それが今回ご紹介する北周の明敬皇后 独孤氏です。
波乱の時代に生きた明敬皇后(独孤氏)は一体どのような生涯を送ったのでしょうか?
この記事では明敬皇后(独孤氏)の史実を中国の主要な関連ドラマの描写と比べながら分かりやすく解説します。
独孤般若は実在した!史実では明敬皇后と呼ばれる人物
ドラマ「独孤伽羅」で描かれる独孤般若は架空のキャラクターだと思われがちです。
でも彼女にはモデルになった実在の人物がいます。それが中国の南北朝時代に栄えた北周という国の二代目の君主 明帝の后になった明敬皇后(独孤氏)です。
史実では彼女は「明敬皇后」あるいは単に「敬皇后」「独孤氏」と呼ばれていました。
「独孤般若」という名前はドラマ「独孤伽羅」でつけられた名前です。
明敬皇后 独孤氏の家族と時代背景
明敬皇后(独孤氏)がどのような人物だったのかを知るには、まず彼女を取り巻く家族と生きた時代を知ることが大切です。
明敬皇后 独孤氏の基本情報
本名 | 独孤氏(名は不詳) |
---|---|
別名 | 明敬皇后、敬皇后、独孤氏 |
時代 | 西魏〜北周 |
民族 | 鮮卑族 |
出生地 | 雲中定襄(現在の内モンゴル自治区ホリンゴル県) |
生年 | 不詳 |
没年 | 558年 |
享年 | 不詳 |
父 | 独孤信(大司馬、衛国公) |
母 | 郭氏(太原郭氏) |
夫 | 宇文毓(北周明帝、当初は天王) |
兄弟姉妹 | 独孤羅、独孤善、独孤穆、独孤蔵、独孤順、独孤陀、独孤整(兄妹) 元貞皇后(妹)、独孤伽羅(妹) |
諡号 | 明敬皇后(当初は敬皇后) |
父・独孤信は北魏の武将
彼女の父は独孤信(どっこしん)です。彼は北周の時代に「大司馬(だいしば)」という軍事の最高責任者を務めた、非常に力を持った武将でした。
独孤信は遊牧民族 鮮卑族の出身で、戦いに長けた武門の名家として知られています。彼は娘たちを有力な一族に嫁がせて自らの影響力をさらに強めていきました。
また、彼女の母親は郭氏であったと伝えられています。
姉妹が皇后に?独孤伽羅たちの存在
明敬皇后 独孤氏は独孤信の長女でした。彼女には有名な妹たちがいます。
特に知られているのが、後に隋王朝を建国した楊堅(ようけん)の皇后となる独孤伽羅(どっこから)です。
また、唐王朝の初代皇帝である李淵(りえん)の母親も、独孤信の娘(元貞皇后)でした。
独孤信の三人の娘がそれぞれ異なる王朝で皇后(あるいは生母)になったというのは中国史でも非常に珍しいです。独孤家の影響力がどれほど大きかった物語っています。
彼女が生きた北周という時代
明敬皇后(独孤氏)が生きたのは、6世紀の中国が南北朝時代という混乱期にあった頃です。
様々な王朝が興亡を繰り返す中で卓抜鮮卑の北魏が東魏と西魏に分裂。西魏から誕生したのが北周です。
明敬皇后の夫 宇文毓(うぶんいく)は北周の2代皇帝でした。
この時代、北周の君主は当初「皇帝」ではなく「天王(てんおう)」と名乗っていました。そのため明敬皇后も生前は「王后(おうごう)」という称号でした。
後に夫の宇文毓が「皇帝」を名乗るようになったので彼女も皇后と追尊されました。
明敬皇后 独孤氏 波乱の生涯と短い在位
権力者の娘として生まれた明敬皇后 独孤氏ですが、その生涯は波乱に満ちていました。
宇文毓との結婚、そして父の死
独孤氏がいつ宇文毓と結婚したのかは正確には分かっていません。
宇文毓が寧都公(ねいとこう)になった後ではないかと考えられています。
でも彼女の人生に大きな影を落としたのが、父・独孤信の死です。父は当時権力を持っていた宇文護(うぶんご)と対立。政争に巻き込まれてしまいます。
最終的に独孤信は宇文護によって自宅で自殺するよう強要されてしまいました。557年のことです。
北周の王后へ、そして急逝
父の死後、状況はさらに動きます。宇文護によって当時の君主が廃位され、代わって彼女の夫である宇文毓が天王として即位しました。
これにより独孤氏も翌年の558年1月に王后になりました。でも王后となってわずか三ヶ月余りの同年4月、彼女は若くして亡くなってしまいます。
死因は?
彼女の死因については史料には「難産で亡くなった」という記述があります。
また亡くなる前日に皇子誕生の恩詔が出されているという記録もあり、これが難産説の根拠の一つとされています(『文館詞林』などの史料に示唆されています)。
一方で、父と同様に権力者である宇文護によって暗殺されたのではないか、という推測もあります。でも、これはあくまで憶測なので確かな証拠はありません。彼女は亡くなった後、昭陵(しょうりょう)に葬られました。
王后から明敬皇后へ追尊された理由
明敬皇后(独孤氏)は生前は王后でした。では、なぜ亡くなった後に「明敬皇后」という称号が贈られたのでしょうか?
それは彼女の夫 宇文毓が、彼女が亡くなった後の559年に「天王」から「皇帝」という称号を使うようになったからです。
皇帝の后は「皇后」と呼ばれますから、それに合わせて独孤氏も敬皇后(けいこうごう)と追贈されました。
夫の宇文毓が亡くなった後、彼に「明帝」という諡号が贈られたため、彼女の諡号も加えて「明敬皇后」と呼ばれるようになったのです。
これは『周書』や『北史』といった信頼できる歴史書にも記載されています。
中国ドラマに登場する独孤氏(明敬皇后)と史実の違い
多くの人が独孤氏(明敬皇后)を知るきっかけとなったのは、中国ドラマ「独孤天下」や「独孤皇后」といった作品に登場します。
でもドラマでの描かれ方には違いがあり、史実の明敬皇后とは違う点も多くあります。
ドラマはフィクション!名前以外の違いは?
ドラマ「独孤天下」では、明敬皇后をモデルにしたキャラクターが「独孤般若」という名前で登場します。安以軒(アン・イーシュアン)さんが演じ、野心家で物語の中心人物の一人として深く描かれています。
予言の「独孤天下」を信じ皇后になるために奔走。権力者 宇文護との複雑な関係や、妹たちとの間の葛藤などドラマを盛り上げるための脚色が多く盛り込まれています。
一方、ドラマ「独孤皇后」にも明敬皇后は登場しますが「独孤般若」という名前ではありません。また「独孤天下」に比べると登場シーンも短く、劇中の役割も小さいです。
このように同じ史実の人物をモデルにしていても、ドラマによって名前や描かれ方がかなり違います。
史実の記録では、彼女の詳しい人物像や具体的なエピソード、性格に関する記述はほとんどありません。
歴史書に残されているのは、彼女は独孤信の娘。宇文毓の后になって若くして亡くなった。といった限られた情報のみです。
ドラマで描かれるような強い野心や具体的な人間関係のドラマは、史実に基づいたものではなく、エンターテイメントとして創作された部分なのですね。
まとめ
いかがでしたか?独孤般若はドラマが生んだキャラクター名ですが、北周の明敬皇后 独孤氏として実在した人物です。
権力闘争の中で短い生涯を終えたものの、北魏で活躍した稀代の軍人・独孤信の娘 そして北周明帝の后、独孤伽羅の姉として確かに歴史に名を刻んでいます。
ドラマと史実、両方を知ると明敬皇后という人物の様々な顔が見えてくるはずです。あなたの中国史への興味が、この記事をきっかけにさらに深まれば嬉しいです。
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