中国ドラマ「美人骨」は中国南北朝時代を舞台にした壮大な歴史ドラマです。
北魏の若き大将軍・周生辰と名門漼家の一人娘・漼時宜の切ない愛と悲劇的な運命を描いています。
周生辰は数々の戦で勝利を収める有能な将軍でありながら皇族でありながら臣下として国に忠誠を誓う人物です。
漼時宜は生まれながらにして太子との婚約が決まっているお嬢様であり周生辰と出会い惹かれ合いますがその恋は許されません。
ドラマは周生辰の活躍二人の出会いと別れそして悲劇的な結末へと展開していきます。
史実を基にしながらも作者の創作が加わり空想的な要素も含まれています。
この記事では「美人骨」の時代背景周生辰のモデルとなった人物や漼時宜の背景にある歴史的な出来事について紹介します。
中国ドラマ「美人骨」は実話?
舞台は中国南北朝時代の北魏
中国が南北に分かれて争っていた南北朝時代。ドラマ「美人骨」はその時代の北の王朝で北魏(ほくぎ)を主な舞台としています。
北の王朝・北魏には幾多の戦場で名を轟かせた若き大将軍・南辰王 周生辰(アレン・レン)がいました。彼は皇族ですが皇位継承争いを避けるため皇籍を離れ、母方の姓を名乗り国に忠誠を誓う臣下として生きています。
清河の名門漼家の一人娘・漼時宜(バイ・ルー)は親同士の約束で太子との婚約が決められています。将来の皇太子妃となる運命でした。
周生辰と漼時宜の出会いと悲劇的な運命
家族の縁により漼時宜は南辰王府で学ぶことになりました。周生辰は彼女を11番目の弟子として迎え入れました。共に過ごす中で漼時宜は周生辰の人柄にしだいに心惹かれていきます。
二人の間には強い絆が育まれますが、身分違いの二人の恋は許されるものではありませんでした。
そんな中、国境で戦が始まり周生辰は軍を率いて戦場へと向かいます。漼時宜は定められた約束に従い太子と結婚することになるのでした。
数々の激戦を乗り越え、敵を打ち破ってきた周生辰でしたが、彼の苦労は報われません。朝廷内の裏切り者によって無実の罪を着せられ、残酷な凌遅刑に処されてしまいます。
彼は最愛の漼時宜に遺言を残し息を引き取りました。その悲報を受けた漼時宜は絶望の淵に沈み、自ら命を絶ってしまうのです。
史実との違い:ほぼ架空の王朝と人物設定
ドラマ「美人骨」は南北朝時代を舞台にしていますが、史実を忠実に描いたものではありません。
北魏の皇族の姓は鮮卑姓の拓跋(たくばつ)氏、または漢風の元(げん)氏でした。
でもドラマの中では劉(りゅう)姓が用いられています。実際に北魏で劉姓を名乗っていた有力な氏族としては独孤(どっこ)氏などが挙げられます。
皇族の姓をはじめとしてドラマの設定は史実とは異なる点が多いです。「美人骨」は歴史上の人物をモデルにしているものの、ほぼ架空の王朝で繰り広げられる架空の人物たちの物語として作られています。
小南辰王 周生辰の実話?
周生辰は架空の人物ですが、キャラクター設定には実在の人物が参考にされています。
具体的にどのような人物がモデルになったと考えられるのか以下に紹介します。
モデル1:蘭陵王 高長恭
蘭陵王 高長恭(こう・ちょうきょう)は北斉の皇族ですが戦場で軍を率いる将軍として活躍した人物です。
生没年: 541年 – 573年
享年: 33歳
出自: 東魏の重臣・高澄の子。北斉の建国者・文宣帝高洋は伯父にあたる。
王の功績を恐れた皇帝・高緯によって謀反の罪を着せられ自害を命じられました。
活躍: 18歳で将軍となり数々の戦で勝利を収めました。特に北周の大軍を打ち破った戦いは有名です。
人物像: 美形で武勇に優れ部下にも優しかったと言われています。
美形の仮面伝説
蘭陵王は顔を隠すために仮面をつけて戦ったという伝説があります。彼の美貌が敵を油断させたり味方の士気を下げたりするのを防ぐためだったとされています。
しかし当時は顔を保護するために戦場で仮面をつけることはありました。
蘭陵王が美形だったのと人気があったこと悲劇的な最期をとげたために脚色されたようです。
この伝説をもとに作られた「蘭陵王入陣曲」は日本でも雅楽として演奏されています。
蘭陵王の最期
蘭陵王 高長恭はその卓越した能力と功績により皇帝や周囲の人間から次第に警戒されるようになりました。特に甥である皇帝・高緯は蘭陵王の人気の高さと才能を恐れていました。
高緯自身は有能な皇帝ではなく周囲の讒言を信じやすくまた元々蘭陵王を排除するつもりだったとも考えられます。彼は蘭陵王に謀反の濡れ衣を着せ自害を命じました。
蘭陵王は皇帝の命令に逆らうことができず無念の死を遂げました。
周生辰との共通点
- 有能で美形
- 皇族だが傍流で母の身分が低く皇位継承順位は低い
- 連戦連勝の将軍
- 部下にも優しい
- 謀反の罪をかけられ若くして処刑
周生辰との違い
- 北魏ではなく北斉の人物(ただし北斉は北魏から分かれた国)
- 姓は変えず国姓のまま
- 結婚している
蘭陵王 高長恭は周生辰のキャラクター設定に大きな影響を与えた人物の一人と言えるでしょう。
モデル2:清河王 元懌
清河王 元懌(げん・えき)は北魏の皇族。周生辰のモデルの一人として考えられています。
生没年: 487年 – 520年
享年: 34歳
出自: 北魏の孝文帝の子。
人物像: 幼い頃から聡明で容姿端麗であり孝文帝に寵愛されました。
孝明帝の補佐
元懌は甥である孝明帝の補佐を任されました。霊太后の信頼を得て政治に関与しましたがその忠告は受け入れられませんでした。また霊太后の妹の夫である元叉の専横を止めようとしたため恨みを買い陥れられました。
清河王 元懌の最期
元叉と宦官の劉騰の陰謀により元懌は謀反の罪を着せられ処刑されました。
周生辰との共通点
- 有能で美形
- 権力を狙う宦官や皇族と対立
- 謀反の罪をかけられ若くして処刑
周生辰との違い
- 姓は変えず国姓のまま
- 連戦連勝の将軍ではない
- 結婚している
清河王 元懌は周生辰と同様に才能がありながら権力争いに巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた人物です。
結論:周生辰は理想化された英雄像
周生辰は特定の人物をモデルにしたキャラクターではありません。作者の墨宝非宝は歴史上の様々な人物からインスピレーションを得て理想的な人物像を創造したと考えられています。
周生辰は優れた部分を多く持ち理想に近い人物として設定されていますが完璧ではなく同時に人間的な弱さも持っています。そんな姿が多くの視聴者や読者から共感され人気が出たようです。
美人骨の漼時宜は実在する?
白鹿(バイ・ルー)演じる漼時宜は名門のお嬢様で、口がきけないというハンデを背負っています。
周生辰に惹かれますが、政略結婚によって別の男性の妻になることが決まってしまいます。
最終的には周生辰の死を受け入れられず、自ら命を絶ってしまうという悲劇的な人物です。
漼時宜のモデルは?
漼時宜のモデルは架空の人物です。周生辰のようにモデルがいるわけではありません。
でも彼女の設定には実在した「清河崔氏」という名門一族が大きく影響しています。
清河崔氏とは
清河崔氏は前漢時代から続く中国の名門一族です。彼らは多くの知識人を輩出し、政治や学術の世界で大きな力を持っていました。北魏の建国や制度作りにも貢献。孝文帝の漢化政策でも重要な役割を果たした氏族です。
ドラマ「美人骨」ではこの清河崔氏をモデルにした「清河漼氏」が絶大な権力を持つ名門として描かれています。漼時宜はその一人娘として幼い頃から皇族との婚姻が決まっていました。
この清河崔氏という歴史的な存在が、漼時宜のキャラクター設定に影響しているのは間違いありません。
「美人骨」が意味するものとは?
ドラマのタイトルである「美人骨」という言葉。これが何を意味するのか気になる人は多いと思います。
ドラマの中では周生辰が人々から「美しい骨を持つ人」と呼ばれていました。この「骨」には単に外見の美しさだけでなく、彼の内面の素晴らしさを意味しています。
「骨」が示すもの
- 人徳:周生辰が持つ高潔な人柄優しさ誠実さ
- 富や名声への無関心:権力や地位に執着しない清廉な生き方
- 卓越した才能:軍事や政治における彼の優れた能力
周生辰は皇帝よりも美しい骨を持つ人物として描かれています。これは彼が皇帝以上に人間として優れていることを意味しています。
でもこの「美しさ」が彼を妬む者たちの怒りを買い、悲劇的な最期へと繋がってしまうのです。
「美人骨」と「骨相学」の関連性
「美人骨」という言葉は特定の「実在する美しい骨」を指すものではありません。
その背景には中国の伝統的な思想「骨相学(こつそうがく)」が関連しています。
骨相学とは
骨相学は人間の骨格の形や特徴からその人物の性格運命才能などを判断しようとする占いの一種です。顔の骨格特に頭蓋骨や顔の凹凸などが重視されました。中国では古くから人の内面や運命が外見特に骨に表れるという考え方がありました。
「美人骨」という言葉はこの骨相学的な視点から「優れた品性や才能運命を持つ人物はその骨格にも美しさや特徴が表れる」という考えを表現しているのです。
そのため、ドラマでも周生辰の人徳や才能が「美人骨」として表現されているのです。
「美人骨」の時代背景はどこまで実話?北魏の歴史解説
ドラマ「美人骨」の舞台は中国の南北朝時代特に北魏です。この時代背景には多くの歴史的事実が反映されています。
北魏の成立と歴史:最盛期と改革
北魏は中国の南北朝時代における北朝の一つです。386年から534年まで存在した王朝でした。鮮卑族(せんぴぞく)の拓跋氏(たくばつし)によって建国され、北方民族と漢民族の文化を融合させた独特の文化と歴史を持っています。
北魏の成立と初期
- 建国:386年拓跋珪(たくばつけい)(後の道武帝)によって建国。
- 首都:当初は平城(現在の山西省大同市)を首都としました。
- 特徴:遊牧民族である鮮卑族が漢民族の文化や制度を積極的に取り入れ安定した農耕社会を築こうとしました。
北魏の最盛期と孝文帝の改革
北魏は太武帝(たいぶてい)(在位423年-452年)の時代に最盛期を迎えました。彼は領土を拡大し華北全域を支配下に置くことに成功します。
その後孝文帝(こうぶんてい)(在位471年-499年)が登場し大規模な改革を実施しました。
- 洛陽への遷都:北方ではなく、より中原に奥深く入った場所に都を移しました。
- 漢化政策:鮮卑族の風俗を廃止し漢族の服装や名前を採用。これにより鮮卑族と漢族の融合が進みました。
- 均田制の導入:農民に対して土地を均等に分配する制度を導入し農業生産の安定化を図ります。この制度は後の中国の土地制度に大きな影響を与えました。
孝文帝の改革は北魏の社会と文化に大きな変化をもたらしました。
北魏の文化と社会
北魏時代には仏教が大いに隆盛しました。特に洛陽や大同の雲岡石窟敦煌の莫高窟など多くの仏教寺院や石窟寺院が建立されます。これらの遺跡は北魏の仏教文化の象徴として現在も残っています。
北魏の仏教は鮮卑族と漢族の文化を融合させ独自の発展を遂げていきました。また文学や芸術も繁栄し北魏の石窟寺院に残された美しい仏像や壁画書道や絵画は後の中国文化に大きな影響を与えています。

雲崗石窟
北魏の分裂とその後の東魏・西魏
北魏は孝文帝の死後内部の権力闘争や外部からの圧力により徐々に弱体化します。そして534年北魏は東魏と西魏に分裂しました。この分裂は北魏の権力構造が崩壊し中央集権が維持できなくなったことが主な原因です。
分裂の原因と東魏・西魏の成立
- 分裂の原因:孝文帝の死後内部の権力争いが激化。宦官や貴族たちが権力を巡って対立し国家の統治力が弱まりました。漢化政策を推進する勢力と鮮卑族の伝統を維持しようとする勢力の文化的な対立も一因です。大規模な内乱「六鎮の乱」後北魏は東魏と西魏に分かれました。
- 東魏:北魏の東部を支配。後に北斉が建国されます。
- 西魏:北魏の西部を支配。後に北周が建国されます。
北魏の分裂後北斉と北周は互いに対立しながらもそれぞれ独自の発展を遂げていきました。ドラマ「美人骨」はこのような歴史的背景を参考にしながら物語が展開されています。
まとめ
「美人骨」は南北朝時代を舞台にしたドラマでありながら実在の人物や出来事を忠実に再現したものではありません。
周生辰には蘭陵王や清河王といったモデルとなった人物がいますがあくまでも彼らの生き方や特徴を参考に作者が独自のキャラクターを創造しました。
漼時宜についても同様で清河崔氏という名門一族を背景に持ちながらも彼女自身の物語はフィクションです。
このドラマは歴史上の人物や出来事を題材にしつつも作者の想像力によって彩られた物語であり史実とは異なる部分も多く含まれています。
史実とフィクションの違いを理解した上で「美人骨」の世界観や登場人物たちのドラマを楽しむといいかもしれませんね。
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