楊忠の生涯・隋文帝の父はう勇猛な将軍だった

楊忠 6 南北朝
記事内に広告が含まれています。

楊忠は南北朝時代の中国で活躍した武将。隋を建国した楊堅の父です。

彼は507年に生まれ62歳となる568年に亡くなりました。北魏・西魏・北周という三つの王朝に仕え多くの戦場で功績を上げました。

その勇猛さと智略で楊家の勢力を拡大。王朝内での地位を高めました。後に息子の楊堅が隋王朝の礎を築きますが、その礎を作ったといってもいいかもしれません。

この記事では楊忠の生涯を詳しく紹介します。

 

スポンサーリンク

楊忠とはどんな人物?

楊忠のプロフィール 

  • 生年月日:507年
  • 没年月日:568年
  • 漢姓 :楊氏
  • 鮮卑姓:普六茹(ブルスカン)氏
  • 名称:忠
  • 国:北魏→西魏→北周
  • 称号:武元皇帝(隋追尊)
  • 廟号:太祖(隋追尊)
 

家族 

  • 父 楊禎
  • 母 蓋氏
  • 妻 呂苦桃
  • 妾 李氏
  • 子供
    楊堅
    楊整
    楊瓚
    楊嵩
    楊爽
    安成長公主
    昌楽長公主
 

勇猛な武将 楊忠のルーツと鮮卑との関係

楊忠は成長すると体がかなり大きく身長は七尺八寸およそ2メートルになりました。堂々とした顔立ちで髪と髭も美しかったと伝えられています。武芸に大変優れていました。

彼の父である楊禎は北魏の建遠将軍です。

楊忠の一族は自称では漢の名家である弘農楊氏の出身とされています。

でも楊家は北魏が北方の騎馬民族である柔然との国境を守るために置いた六つの軍団「六鎮」の一つ武川鎮(現在の内モンゴル武川県)の軍人の家系でした。六鎮は当初鮮卑人で構成されていましたが匈奴やテュルク系騎馬民族も加わっていました。

このため楊忠の一族は漢の名家ではなく鮮卑人や遊牧民系の血筋を強く受け継ぐ一族と考えられています。

鮮卑人は3世紀頃から中国の北方で勢力を拡大した遊牧民族です。彼らは騎馬技術に優れやがて北魏を建国し中国北部に広大な王朝を築きます。漢民族とは異なる文化や風習を持っていましたが時代が下るにつれて漢化政策も進みました。楊忠の時代は民族の融合が進む過渡期にあります。

彼は鮮卑人の武勇と漢民族の教養や戦略を併せ持っていたのかもしれません。

 

スポンサーリンク

波乱に満ちた青年期 捕虜から将軍へ

南朝梁での捕虜生活と転機

楊忠は若い頃は各地を転々としていました。

524年。18歳の時に泰山にいたところ、南朝梁軍がこの地を攻略。楊忠は梁軍に捕らえられ江南に送られました。

故郷を離れ敵地で捕虜生活は苦労したと思います。でも彼はただ捕まっているだけではなく、そこで情報を吸収し状況を見極めていました。

529年楊忠は梁で5年間暮らした後、北海王・元顥(げん こう)の部下になりました。

元顥は北魏の皇族で、北魏に反乱を起こして梁に寝返っていたのです。

楊忠は元顥とともに北魏の都・洛陽を占領。「直閤将軍」になりました。彼はただの捕虜ではなく武将としての才能を認められていたのでしょう。

この時代、敵の将兵でも見込みがあれば採用することはよくありました。

乱世を生き抜く才覚 爾朱度律との出会い

しかし元顥は北魏の爾朱度律(じしゅ・どりつ)に敗北。爾朱度律は楊忠を配下にしました。楊忠は再び北魏に戻ってきたのです。

530年には洛陽を攻める北魏軍の爾朱兆が率いる軽装騎兵隊の一員として活躍し「昌県伯」の爵位と「授任都督」の役職を与えられています。

その後、楊忠独孤信(どっこ・しん)のもとで戦います。南陽攻略では功績をあげその武名をさらに高めていきました。

この時期彼が多くの武将と出会い戦術や戦略を磨いていったことは後の建国に繋がる重要な経験となります。

スポンサーリンク

西魏・北周での輝かしい活躍と「揜于」の異名

宇文泰に認められた稀代の才覚

534年。北魏の孝武帝が宇文泰と協力して関中に移動すると楊忠もそれに従いました。

北魏は孝静帝を担ぐ高歓の東魏と孝武帝を担ぐ宇文泰の西魏に分裂。

独孤信とともに梁に亡命

楊忠は独孤信とともに西魏軍として、東魏軍と戦い穣城を占領します。半年間守り抜きましたが圧倒的な数の東魏軍を防ぎきれません。仕方なく楊忠は独孤信とともに梁に亡命しました。

西魏に帰国

537年。武帝の許しを得て楊忠は独孤信とともに西魏の長安に戻りました。

西魏の丞相 宇文泰は楊忠の勇猛さを気に入って常に彼の側に置きました。

「揜于=虎」の名を与えられた武勇伝

楊忠は宇文泰とともに龍門で狩りに出かけたことがあります。この時、楊忠は一人で一頭の虎と戦いました。彼は左手でその腰をしっかりと抱え、右手で獣の舌を力ずくで引き抜いたという逸話が残されています。

宇文泰は楊忠の並外れた勇猛さに喜んで楊忠「揜于」の名を与えました。「揜于」は鮮卑語で「虎」の意味です。

西魏での数々の軍功と昇進

537年。楊忠は宇文泰とともに、唐魏の武将・竇泰を捕らえ、沙苑の戦いでは東魏軍を撃破しました。この功績により「征西将軍」「金紫光禄大夫」に昇進。「襄城県公」の爵位を与えられます。

538年。河橋の戦いでは楊忠は五人の壮士とともに奮戦し橋を守り抜きました。敵軍はついに前進できませんでした。この戦功により「左光禄大夫」「雲州刺史」「大都督」に任命されています。

その後楊忠は李遠とともに黒水一帯の稽胡を撃破。怡峰とともに玉壁の包囲を解除しました。この功績で洛州刺史に任命されました。

543年。邙山の戦いでは楊忠は率先して敵陣に突入。その功績により大都督に任命され「車騎大将軍」「儀同三司」「散騎常侍」に昇進しています。

朝廷は楊忠の母親である亡き蓋氏を「北海郡君」に追封しました。

鮮卑姓「普六茹」を賜る意味

554年。普六茹という鮮卑姓が楊忠に与えられました。

北魏は鮮卑人系民族の国でしたが漢化政策によって漢風の一字姓を名乗るのが流行した時期がありました。でも宇文泰は鮮卑姓を復活させようと考え、漢風の姓を名乗る配下の者たちに鮮卑姓を復活させました。

普六茹鮮卑語で「楊=やなぎ」と同じ意味を持ちます。この改姓は楊忠鮮卑人としてのルーツを尊重され、宇文泰の鮮卑化政策においても重要な役割を担っていたことを意味しています。

 

北周時代の楊忠

北周でも要職を歴任

557年。宇文泰の死後、宇文護が宰相となりました。宇文護は西魏の皇帝を廃して、宇文泰の息子・孝閔帝 文覚を即位させました。

西魏は北周へと国名が変わります。

楊忠は北周でも重要な役職を歴任しています。

  • 小宗伯:宗廟や礼儀を司る役職
  • 柱国大将軍:最高位の軍職の一つ
  • 隋国公(559年):領地を与えられた公爵
  • 大司空(562年):三公の一つで行政を司る最高官職

突厥同盟の提言

562年。北周の朝廷では突厥と同盟して北斉を攻撃するかどうかが議論されていました。多くの大臣が消極的な意見でしたが、楊忠は積極的に突厥と同盟し、北斉の攻撃を進言しました。

最終的には楊忠の意見が採用され北斉と戦うことになります。

 

隋王朝の礎を築いた楊忠 息子・楊堅との関係

漢東平定の偉業と奇襲作戦の全貌

550年正月。楊忠は安陸を包囲しました。

柳仲礼は随郡の陥落を聞き安陸の陥落を恐れて急いで援軍に向かいました。諸将は柳仲礼の援軍が到着すれば安陸の攻略が難しくなると考え、速やかな攻城を求めました。

しかし楊忠は野戦では味方が有利と判断。精鋭の騎兵二千を選び、夜の闇に紛れて柳仲礼に奇襲攻撃をかけました。

楊忠は自ら敵陣に突入し、柳仲礼を撃破し捕獲。敵軍の将兵も捕虜とします。

安陸を守っていた馬岫は降伏。し王叔孫は孫皓を殺害して竟陵を献上し降伏しました。全てが楊忠の事前計画通りに実現します。

これにより漢東の地は全て西魏の領土となりました。

この奇襲作戦は楊忠の優れた戦術眼と大胆な決断力を現しています。彼は敵の弱点を的確に見抜いて、自軍の強みを最大限に活かすことで圧倒的な勝利を収めたのです。

梁との和睦 交渉術と政治手腕

同年二月。楊忠はさらに軍を石頭城に進め江陵を攻めようとしました。それを知った梁元帝 蕭繹は使者を派遣し和睦交渉を求めました。楊忠梁元帝の派遣した使者と和睦交渉を行い、蕭方略を人質として差し出させることになりました。

西魏の朝廷はこれを認めます。西魏と梁は安陸を国堺とし、互いに子を人質として送り、貿易を発展させて友好関係を続けることを決めました。

この交渉をまとめた楊忠は凱旋するとこの功績により陳留郡公に昇進。大将軍となりました。

彼は武力だけでなく外交能力も高かったのです。

息子・楊堅と独孤伽羅との政略結婚

楊忠は長男・楊堅を独孤信の七女・独孤伽羅と結婚させました。

もともと楊家は北魏の国境を守る武川鎮軍閥に所属。そこには宇文・独孤・李(大野)の有力武将が所属しお互いに姻戚関係を結んでいました。この結婚も楊氏と独孤氏という有力貴族同士の結びつきを強化するものでした。

結果的に、この結婚が王朝建国に大きく貢献することになるのでした。

 

楊忠の死と後世への影響 

最期と武元皇帝への追贈

568年7月。楊忠は病気になり北周の首都・長安に戻りました。そしてその年のうちに病死します。享年62でした。

彼は北魏から北周という戦乱の時代を息抜き、多くの時間を戦場で過ごしました。

彼の死後、581年に息子の楊堅が北周を継承しを建国。楊堅は父である楊忠の生前の功績を称え「武元皇帝」という諡号を贈り「太祖」という廟号をつけます。

「太祖」は普通は建国者につけられる称号ですが、楊堅は父がそれにふさわしい存在だと認めたのでした。楊忠がいなければも存在しなかったのです。

楊忠のドラマ

楊忠の生涯は現代の歴史ドラマでも描かれています。楊忠の息子・楊堅が隋を建国したため。ドラマでは「楊堅の父」として登場します。

  • 独孤伽羅 (2018年中国) 演:盧慶輝
  • 独孤皇后 (2019年中国) 演:張磊

どちらも同じ時代を舞台にしたドラマですが。

独孤伽羅」は独孤三姉妹を中心に描かれ、楊家の扱いは小さいです。

逆に「独孤皇后」は独孤家の扱いが小さく、独孤家はほぼ「伽羅」一人が目立ってる状態。逆に楊家の人々の登場場面が多いです。そのため楊忠の出番も「独孤皇后」の方が多くなります。

 

まとめ

楊忠の南北朝時代の激動の時代を生き抜きました。多くの時間を戦いに費やし捕虜から将軍へ。国の重臣へと地位を高めます。

戦うだけの人物ではなく、外交交渉でも能力を発揮。北周の貴族内でも交流して政治的な地位も高めます。

彼の気付いた勢力と人脈があったからこそ楊堅が隋王朝を建てることができたのです。

そのルーツが鮮卑と深く関わっていたこと、そして息子・楊堅と独孤伽羅との政略結婚が後の隋建国に繋がったことは、彼の存在が中国史においていかに重要であったかを物語っています。楊忠は単なる一武将に留まらず、新たな時代を切り拓く「太祖」として、その名を歴史に刻んだのです。

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました