清を建国したホンタイジは、朝鮮に二度侵攻しました。1627年にはアミンに出兵を命じ、二度目には自ら軍を率いて朝鮮国王・仁祖を降伏させています。
ホンタイジが朝鮮を攻めた理由には、明との戦争が深く関係していました。明を支援する朝鮮の軍事協力を抑え、食糧や物資を確保することに加え、皇帝となった自分への臣従を認めさせようとしたのです。
この記事では、ホンタイジと後金・清の立場から、二度の朝鮮侵攻で何を求め、仁祖の降伏によって何を実現したのかを紹介します。
ホンタイジの生涯や清の建国については、ホンタイジの生涯・功績と最期で詳しく紹介しています。
ホンタイジが朝鮮を攻めた3つの理由
ホンタイジにとって、朝鮮との関係は明との戦争を進めるうえで重要な問題でした。朝鮮が明を支援すれば、後金は明軍との戦闘に加え、朝鮮方面からの攻撃にも備える必要があったからです。
さらに、後金は食糧や交易の問題を抱えていました。ホンタイジは朝鮮に軍事的な圧力を加え、明への支援を抑えるとともに、物資を得られる関係を求めました。
明への軍事支援と毛文龍の存在
朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻で援軍を送ってくれた明を、恩義のある国として重視していました。1623年に即位した仁祖の政権も明との協力を掲げ、朝鮮近海の椵島を拠点とする明の将軍・毛文龍を支援しました。
毛文龍の部隊は、後金が支配する遼東方面を脅かしていました。後金軍が西へ進んで明と戦う間に、毛文龍が東側から攻撃すれば、後金は複数の方面に兵を置かなければなりません。
そのためホンタイジは、朝鮮による毛文龍への支援を問題視しました。朝鮮侵攻には、明軍の活動を支える地域に圧力を加える目的がありました。
後金の食糧不足と朝鮮との交易
ヌルハチの死後、1626年に後金を継いだホンタイジは、国内の食糧不足にも対処する必要がありました。遼東を征服しても、戦争や住民の反乱が続く状況では、農業や物資の供給を安定させることが難しかったのです。
ホンタイジは朝鮮との交易や物資の提供を求めました。朝鮮への出兵には、敵対的な軍事行動を抑えることに加え、後金が必要とする物資を得る狙いもありました。
清の皇帝として朝鮮国王を従わせるため
ホンタイジの要求は、二度の侵攻で変化しています。一度目の戦争では後金と朝鮮が「兄弟の国」として講和しましたが、のちにホンタイジは朝鮮国王に臣下となることを要求しました。
1636年に皇帝になったホンタイジは朝鮮にも自分を皇帝として認めさせようとしました。二度目の侵攻では、朝鮮が清に従うことを、国王本人の降伏と具体的な条件によって確定させたのです。
一度目の朝鮮侵攻でホンタイジは何を得た?
1627年、ホンタイジは従兄のアミンに朝鮮への出兵を命じました。この戦争は丁卯の役、または丁卯胡乱と呼ばれます。
ホンタイジ本人は朝鮮へ出陣せず、現地での軍事行動や講和交渉はアミンらが担当しました。
アミンに命じた出兵と毛文龍への攻撃
後金軍は鴨緑江を渡り、朝鮮北部へ侵入しました。軍の一部は毛文龍の部隊を攻撃し、主力は平壌方面へ進みます。仁祖は江華島へ避難しました。
ただし、後金軍は毛文龍の捕殺には失敗しました。また、朝鮮の奥深くまで進軍すれば、本国から軍需品を運ぶ距離が長くなります。明軍が後金を攻撃する可能性もあり、軍を長期間朝鮮に置くことには問題がありました。
アミンらによる講和交渉
後金軍の内部でも、その後の行動について意見が一致していたわけではありません。アミンがさらに侵攻することを主張した一方、同行したほかの有力者たちは講和の成立を待ちました。
後金側には、明との戦争や物資の不足に加え、朝鮮各地で活動する義兵への対処も必要でした。軍事的に優勢でも、そのまま朝鮮全土を支配できる準備があったわけではなく、交渉によって戦争を終える必要があったのです。
兄弟関係の成立と交易・歳幣の取り決め
講和では、後金と朝鮮が兄弟の関係を結び、互いの領域を侵さないことなどが約束されました。朝鮮は、後金と講和しても明に敵対しないという条件を確保しています。
その後の交渉では、国境での交易や、朝鮮から後金へ毎年贈る歳幣なども取り決められました。後金は朝鮮との正式な関係と物資を得る手段を獲得しましたが、朝鮮と明の関係を断つことまでは実現できませんでした。
ホンタイジが朝鮮への要求を変更した理由
一度目の講和後も、後金と朝鮮の交渉は続きました。交易や歳幣、明への支援などをめぐる対立が残ったためです。
その間にホンタイジはモンゴル諸部への服属工作や遠征を進め、1636年には国号を大清に改めて皇帝となりました。朝鮮にも、それまで以上の服従を求めるようになります。
兄弟関係の限界と明への協力問題
最初の講和では、朝鮮は明との関係を維持できました。ホンタイジからすれば、朝鮮と約束を交わしても、明への協力を完全に断たせることには成功していなかったのです。
後金は交易や歳幣について要求を続け、朝鮮側は負担の増加に反発しました。両国は講和していましたが、互いに相手へ求める条件には隔たりがありました。
ホンタイジの皇帝即位と君臣関係の要求
ホンタイジは、満洲人だけでなく、モンゴル人や漢人も治める君主として皇帝を名乗りました。朝鮮国王にも、清の皇帝に仕える臣下としての待遇を求めます。
この要求を受け入れれば、仁祖はホンタイジと兄弟の関係にある国王から、清の皇帝に従う国王となります。朝鮮にとっては、明との関係にも関わる大きな変更でした。
朝鮮側の拒否とホンタイジの親征
朝鮮側はホンタイジの要求に反発しました。1636年の皇帝即位に際しても、現地にいた朝鮮使節は臣下としての礼を拒んでいます。
ホンタイジは朝鮮を従わせるため、今度は自ら軍を率いました。この二度目の戦争が丙子の役、または丙子胡乱です。一般に旧暦の1636年から1637年にかけての戦争として記され、新暦では1637年に当たります。
ホンタイジはどう仁祖を追い詰めた?
二度目の侵攻で清軍は、朝鮮国王を早期に追い詰める作戦を取りました。国境付近の城を一つずつ攻略するより、まず漢城方面へ急進し、仁祖の避難を阻むことを優先したのです。
清軍の先鋒が江華島への道を遮断
清軍の先鋒は朝鮮側の主要な防御拠点を避け、漢城付近まで進みました。仁祖は一度目と同じ江華島への避難を考えましたが、清軍がその経路を遮断します。
江華島へ渡れなくなった仁祖は昭顕世子や臣下たちと南漢山城へ入りました。清軍は城を包囲し、朝鮮各地から国王救出に向かう軍にも対処しました。
ホンタイジは仁祖本人の出城を要求
南漢山城では食糧が不足し、朝鮮側は清軍の陣営へ使者を送って交渉しました。仁祖は国書でホンタイジを天子と認める意思を示しましたが、自分は城に残ったまま礼を行うことを求めます。
ホンタイジはそれでは受け入れず、仁祖自身が城を出て降伏するよう要求しました。国書の表現を変えるだけでなく、国王本人に清の皇帝への服従を認めさせることにこだわったのです。
ドルゴンらが江華島を攻略し王族を確保
南漢山城の包囲と並行して、清軍は王族たちが避難した江華島も攻撃しました。ホンタイジの弟ドルゴンらが島を攻略し、鳳林大君や世子嬪などを確保します。
清側は江華島の陥落を仁祖に知らせ、改めて出城を要求しました。王族の避難先も失った仁祖は、最終的に城を出て降伏することを受け入れました。
ホンタイジは朝鮮にどのような降伏条件を求めた?
ホンタイジは仁祖を降伏させ、朝鮮と清の関係を君臣関係に変更しました。最初の講和との大きな違いは、朝鮮の対明外交と軍事行動にも具体的な制限を課したことです。
三田渡で三跪九叩頭の礼をさせる
旧暦1637年1月30日、仁祖は南漢山城を出て、漢江付近の三田渡でホンタイジに降伏しました。仁祖は三度ひざまずき、そのたびに三度頭を地につける三跪九叩頭の礼を行います。
ホンタイジはこの儀式によって、自分が皇帝、仁祖が臣下であることを国王本人に認めさせました。一度目の「兄弟の国」という約束から、両国の正式な関係が変更されたのです。
明との断交と清への軍事協力を約束させた
降伏条件には、明との外交関係を断ち、清の年号を使用することが含まれていました。さらに、清が明を攻める際には、朝鮮にも軍事協力を求めることになりました。
これによりホンタイジは、明を支援していた朝鮮に、清の対明戦争へ協力する義務を負わせました。朝鮮侵攻で求めた軍事上の目的を、降伏条件として認めさせたことになります。
王子の人質と歳幣によって服従を継続させた
ホンタイジは、仁祖の長男で王位継承者の昭顕世子と、次男の鳳林大君を人質として清へ送らせました。朝鮮が約束を破れば王室にも直接影響するため、王子の滞在は朝鮮に条件を守らせる手段となりました。
また、朝鮮には毎年の歳幣も課されました。ホンタイジは一度の降伏儀式に加え、人質、貢納、軍事協力を通じて朝鮮との君臣関係を継続させようとしたのです。
ホンタイジは仁祖を国王として残しましたが、朝鮮は外交や軍事に清の要求を受けるようになりました。清は朝鮮王朝を存続させたまま、自国に従わせる関係を成立させました。
朝鮮服属後のホンタイジと明への軍事行動
ホンタイジは、降伏によって得た約束を、その後の明との戦争で実行させました。朝鮮を攻めて戦争を終えるだけでなく、兵船や軍糧の提供を求め、明に対する軍事行動へ協力させたのです。
朝鮮の協力を得て椵島の明軍を攻略
1637年、清軍は椵島の明軍を攻撃しました。毛文龍はすでに1629年に明の袁崇煥によって処刑されていましたが、その後も椵島には明の軍事拠点が残っていました。
ホンタイジは孔有徳らに攻略の準備を命じ、朝鮮からも兵船や部隊を出させました。清軍は島を攻略し、明軍の拠点を消滅させます。
一度目の侵攻時には排除できなかった椵島の明軍を、二度目の侵攻後には朝鮮の協力も得て攻略しました。これは、ホンタイジが朝鮮を服属させたことで実現した具体的な成果でした。
昭顕世子を通じて兵や軍糧を要求
瀋陽に滞在した昭顕世子は、人質として監視されるとともに、清から朝鮮への要求を伝える役割も担いました。清側は世子を通じて、出兵や軍糧の提供などを求めました。
ただし、世子は清の要求をそのまま受け入れていたわけではありません。負担を抑えようとして、清側との交渉で難しい対応を求められることもありました。ホンタイジは、世子が自分の要求を本国へ伝える前に拒もうとすることに不満を示しています。
また、1641年には昭顕世子がホンタイジの錦州・松山方面への遠征に同行しました。ホンタイジは朝鮮王室の後継者を清に滞在させ、外交交渉と対明戦争の両方に関与させていました。
関連記事
ホンタイジの生涯や明との戦い、最期について

清朝の歴代皇帝は

清朝の国について


コメント