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ヌルハチとホンタイジの違いとは?父子関係と後継者選び

ヌルハチとホンタイジは、清朝の成立に関わった父と息子です。父ヌルハチは女真諸部を統合して後金を建国し、八男ホンタイジはその国を継いで1636年に国号を「大清」へ改めました。

でも、なぜ八男のホンタイジが父の後継者になったの?と思いますよね。

この記事では、二人の続柄と功績の違い、後金から清への改称、ホンタイジが後継者に選ばれた経緯を紹介します。

この記事で分かること

  • ヌルハチとホンタイジの父子関係と、それぞれの功績
  • 後金を建国したヌルハチと、大清に改称したホンタイジの違い
  • ホンタイジが変更した八旗や政治制度
  • 八男ホンタイジが後継者に選ばれた理由とドルゴンへの継承説

ホンタイジの生涯や最期については、ホンタイジの生涯と主な功績を紹介した記事をご覧ください。

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ヌルハチとホンタイジは父と息子

ホンタイジは、ヌルハチの八男です。母はヌルハチのフジン(妻)イェヘナラ氏のモンゴジェジェで、後に孝慈高皇后と呼ばれました。ヌルハチには生涯で4人のフジンがいましたが、フジンには正室側室の区別はなく、その子らも相続権は同等でした。

なのでホンタイジは八男であっても他のフジンの子らと同等の相続権を有していました。

ホンタイジは父のもとで戦争や政治に参加し、後金の国政を担当する「四大ベイレ」の一人となりました。

父が亡くなった1626年には有力王族たちの支持を受けて第2代のハン(王)となります。

ヌルハチ・ホンタイジ・順治帝の順番

ヌルハチのあとにホンタイジが即位し、その次にホンタイジの九男フリンが皇帝となりました。このフリンが順治帝です。

人物 家族関係 即位と国の関係
ヌルハチ ホンタイジの父 1616年に後金を建国し、ハンとなる
ホンタイジ ヌルハチの八男 1626年に後金を継ぎ、1636年に大清皇帝となる
順治帝フリン ホンタイジの九男 1643年に清の皇帝となる

三人は祖父・父・孫の関係です。ホンタイジの弟ドルゴンは順治帝にとって叔父にあたります。

 

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ヌルハチとホンタイジの違いを比較

二人の主な違いは、ヌルハチが女真諸部を統合して後金を建国したのに対し、ホンタイジは父から受け継いだ国の統治制度と軍隊を拡充し大清という国号を採用したことです。

比較項目 ヌルハチ ホンタイジ
生没年 1559~1626年 1592~1643年
続柄 父 八男
治めた国 後金 後金を継ぎ、大清に改称
主な仕事 女真諸部の統合と後金の建国 清への改称と政治・軍事制度の拡充
八旗との関係 八旗制度を設ける 蒙古八旗・漢軍八旗を編成する
明との主な戦い サルフの戦い、遼陽・瀋陽の攻略 長城を越えた遠征、松錦の戦い
朝鮮との関係 サルフの戦いで明を支援した朝鮮軍と交戦 丁卯の役・丙子の役で朝鮮へ侵攻
清朝での廟号 太祖 太宗

 

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清を建国したのはヌルハチとホンタイジのどちら?

ヌルハチは1616年に後金を建国しました。息子のホンタイジは父の死後にその国を継ぎ、1636年に国号を「大清」へ改めて皇帝となりました。

清はヌルハチが建てた後金から続く王朝です。国名は変わったものの王朝としては続いているため、清の歴代皇帝ではヌルハチを初代、ホンタイジを第2代と数えます。

ヌルハチは女真諸部を統合して後金を建国

ヌルハチは中国東北部で女真諸部との戦争や交渉を続け、配下となった人々を八旗に編成しました。そして1616年、ヘトゥアラでハンとなり、国号を「金」、元号を「天命」としました。この国を、12世紀に成立した金と区別して「後金」と呼びます。

さらに明との戦争を始め、1619年のサルフの戦いで明軍とその援軍を破りました。その後は遼陽や瀋陽を攻略し、1625年には都を瀋陽へ移しました。ホンタイジが継いだのは、すでに遼東の都市や農村を治める国だったのです。

ホンタイジは後金を継ぎ、国号を大清に変更

ホンタイジは1626年に後金のハンとなりました。その後、漢人官僚の採用やモンゴル諸部との同盟を進め、1635年には民族名を女真から満洲へ変更しました。

1636年には満洲・モンゴル・漢人の有力者たちの支持を受けて皇帝に即位し、国号を「大清」、元号を「崇徳」としました。

ヌルハチが清の初代皇帝とされる理由

ホンタイジは皇帝になると亡くなった父ヌルハチにも皇帝の称号を贈り、廟号を「太祖」としました。後金を建てた父を大清の初代皇帝として扱ったのです。しかも国名は変わっても後金も大清も一続きの王朝です。

このため、大清という国号を採用した人物はホンタイジであっても、清の初代皇帝はヌルハチとされているのです。

 

ホンタイジは父ヌルハチの政策をどう変えた?

ヌルハチの征服によって後金には多くの漢人が暮らすようになりました。ホンタイジは父が設けた八旗を使いながら、新たに支配下へ入った人々を統治するため、軍隊や役所の制度を変更していきます。

八旗を拡充し、モンゴル人や漢人の部隊を編成

ヌルハチが設けた八旗は、兵士だけを集める軍隊ではなく、所属する人々の戸口や生活も管理する行政組織にもなっていました。旗主となった王族は、それぞれの旗に属する兵や人々を支配していました。

ホンタイジは帰順したモンゴル人や漢人の部隊を編成し、1635年に蒙古八旗、1642年に漢軍八旗を成立させました。父の八旗を引き継ぎ、その中に加わった人々を別の八旗として組織したのです。

漢人の部隊には火砲を扱う兵や技術者も含まれました。これらの人々を採用したことは城にこもる明軍を攻めるうえでも役立ちました。

漢人の待遇を変更し、官僚や武将を採用

ヌルハチの治世には、征服した漢人を王族や有力者のもとで働かせる一方で逃亡や反抗への取り締まりも行われました。

ホンタイジは即位すると、漢人の一部を従来の隷属状態から民戸として編成し直し、漢人官僚に管理させました。また、耕作を続けられるように土木工事の負担を抑え、王族の配下が農民の家畜を勝手に奪うことも禁じました。

役人や武将についても、明から降伏した人々を採用しました。農民を定着させて食糧を確保し、行政や戦争に必要な知識を持つ人々を国政に参加させたのです。

役所を設け、君主が国政を指揮する制度を拡充

ヌルハチの時代から、有力王族や大臣は国政の協議に加わっていました。ホンタイジも即位直後はダイシャン、アミン、マングルタイとともに政治を行っています。

ホンタイジは1631年に吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部を設け、官吏の任用、財政、儀礼、軍事、裁判、土木などを担当させました。王族だけでなく、実務を担う官僚を役所に配置して国政を処理するようにしたのです。

その一方で、アミンへの処分や、他の有力王族の権限を制限する措置も行いました。父から受け継いだ王族同士の協議を続けるだけでなく、君主の命令が役所や各旗に及ぶ制度を拡充しました。

 

ホンタイジはなぜヌルハチの後継者に選ばれた?

ホンタイジが即位するうえで重要な働きをしたのが有力王族ダイシャンと、その息子ヨト、サハリャンの支持です。

後継者は長男が自動的に継ぐ制度だった?

ヌルハチは生前に長男チュイエンに政治を任せようとしたことがありました。しかし、チュイエンは弟たちや大臣との対立によって父の信任を失い、後継者からは外されました。

1626年にヌルハチが亡くなったとき、後継者は確定していませんでした。次の君主を決めるには、兵や人々を支配するベイレたちの支持を得る必要がありました。

ベイレは当時の後金で有力王族に用いられた称号です。それぞれが軍事力を持っていたため、ハンとなる人物も他の王族の意向を無視できませんでした。

ダイシャンら有力候補とホンタイジの違い

当時、国政を担当する四大ベイレは次の四人でした。

人物 ヌルハチとの関係 即位時に関わる経歴
ダイシャン 次男 四大ベイレの筆頭で、戦争と国政に長く参加
アミン 弟シュルハチの息子、ヌルハチの甥 自らの旗を率い、軍事・国政を担当
マングルタイ 五男 旗主として戦争と国政に参加
ホンタイジ 八男 四大ベイレの一人として戦争と国政に参加

ホンタイジは年長の兄たちに比べれば若いものの、すでに国政を担当し、サルフの戦いなどで兵を率いた経験がありました。

ダイシャンと息子たちの支持が即位につながる

『清史稿』の太宗本紀には、ヌルハチの死後、ダイシャンと息子のヨト、サハリャンがホンタイジの才能と徳を評価し、他のベイレたちと即位を協議したと記されています。

年長で国政経験もあるダイシャンがホンタイジを支持したことは、他の王族の同意を得るうえで重要でした。ホンタイジ自身の実績に加え、有力王族の支持が集まったことで即位が実現したのです。

ただし、即位によって兄たちの権限がすべてなくなったわけではありません。ホンタイジは当初、三大ベイレを尊重しながら政治を行い、その後に君主の権限を拡大していきました。

 

ドルゴンが後継者になるという遺言はあった?

ドラマではヌルハチがドルゴンを後継者に決めていたのに、ホンタイジが帝位を奪ったという話が描かれることがあります。

一方、『清史稿』はヌルハチの死去時に後継者が未定だったと記し、『清太宗実録』にも、王族たちの協議によってホンタイジが即位した経緯が記されています。これらの記録から、ドルゴンへの継承が確定していたとはいえません。

ドルゴンの母アバハイは、ヌルハチの死後に殉葬されました。この死とホンタイジの即位を結び付ける説もありますが、アバハイの殉葬だけを根拠に「ドルゴンへの遺言があり、ホンタイジが隠した」と判断することはできません。

ホンタイジの死後には、息子ホーゲや弟ドルゴンをめぐって帝位継承が争われ、最終的にフリンが順治帝として即位しました。このときドルゴンが皇位争いに加わっていたからといって、まだヌルハチ死後の後継者争いにドルゴンも加わっていたことにはなりません。

 

まとめ ヌルハチが建国した後金をホンタイジが大清に改称

ヌルハチは女真諸部を統合し、八旗を設け、1616年に後金を建国しました。八男ホンタイジは1626年にその国を継ぎ、役所や軍隊を拡充したうえで、1636年に国号を大清へ改めました。

清朝がヌルハチを初代皇帝と数えるのは、ホンタイジが亡き父を皇帝として追尊したためです。後金を建てた父と、大清を名乗った息子という違いを押さえると、二人の功績を区別できます。

ホンタイジの即位では、ダイシャンと息子たちをはじめとする有力王族の支持が重要でした。その支持を受けて君主となったホンタイジは、即位後に王族の権限や行政制度を変更し、清の皇帝として国政を指揮するようになりました。

 

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清の皇帝
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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