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嘉慶帝・偉大な父 乾隆帝の跡を継いだ清朝7代皇帝の苦悩

嘉慶帝 1.1 清の皇帝

嘉慶帝(かけいてい) 愛新覚羅 顒琰(あいしんかくら・ぎょうえん)は大清帝国の第7代皇帝(ハーン)。

皇子時代の名前は永琰(えいえん)

父は第6代皇帝 乾隆帝。
母は孝儀純皇后 魏氏。

ドラマ「瓔珞(エイラク)」で日本でも知られるようになった孝儀純皇后 魏氏の息子です。

清は康煕帝~乾隆帝の時代に全盛期を迎え。嘉慶帝は衰退が始まった時期の皇帝です。

康煕帝・雍正帝・乾隆帝に比べると平凡で能力の劣る皇帝といわれます。確かに有能とは言えなかったかもしれません。乾隆帝は60年(実際には64年)も在位していましたが。後半には老害も目立ち始め、政治は腐敗。様々な問題が起きていました。

その問題が一気に吹き出したのが嘉慶帝の時代です。結局、嘉慶帝は国内外の様々な問題を解決できずに清は衰退していくことになります。

史実の嘉慶帝はどんな人物だったのか紹介します。

 

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嘉慶帝の史実

プロフィール

姓 :愛新覚羅(アイシンギョロ、あいしんかくら)
名称:永琰(ヨンヤン、えいえん) → 顒琰(ヨンヤン、ぎょうえん)

国:大清帝国
地位:皇太子→皇帝
通称:嘉慶帝
諡号:睿皇帝
廟号:仁宗

生年月日:1760年11月13日
没年月日:1820年9月2日

彼は清朝の第7代皇帝です

日本では江戸時代になります。

家族

父:乾隆帝
母:孝儀純皇后
妻:孝淑皇后
孝和睿皇后子供:道光帝ほか。

 

おいたち

乾隆25年10月6日(1760年11月13日)。顒琰が誕生。最初の名前は「永琰」でした。

永琰は乾隆帝の第十五皇子。
母は 令貴妃 魏氏(孝儀純皇后)。

乾隆38年。冬至、乾隆帝は秘密建儲制によって永琰を大清皇太子にしました。

乾隆39年(1774年)。乾隆帝は喜塔臘氏を永琰の嫡福普(正妻)にしました。

乾隆54年(1789年)。乾隆帝は永琰を「嘉親王」にしました。

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乾隆上皇とヘシェンの横暴

乾隆60年9(1795年10月15日)。乾隆帝は大臣・皇子達を集め永琰を皇太子にすると発表。皇太子の名を「顒琰」に変え、元号を「嘉慶」に改元されました。

乾隆帝は譲位して太上皇帝、顒琰は皇帝になりました。

乾隆上皇は政治の決定権は譲らず、乾隆上皇が信頼する重臣の和珅(ヘシェン)に政治を任せました。嘉慶帝が何かを決めたいと思っても和珅を通して乾隆上皇の許可が必要でした。

嘉慶帝は皇帝になっても何もすることがなく。ただ演劇を見る日々が続いたといいます。

民乱の多発

乾隆帝は60年の長い間、皇帝の座にあって様々な功績を残してきました。でも豊かになった皇帝や官僚達は贅沢な暮らしに慣れ。乾隆時代の後半ごろから政治の腐敗も進みます。ヘシェンのような国家予算レベルん巨大な汚職事件もおき、地方でも役人たちは重税で民を苦しめていました。

生活に困った民衆は宗教に救いを求めました。

白蓮教の反乱

元・宋時代から「弥勒がこの世を救う」という救世主を信仰する宗教がありました。「白蓮教」といいます。白蓮教は何度も弾圧されましたが、乾隆時代には信者を増やしていました。

朝廷は白蓮教の取り締まりを強化。ヘシェンは弟・ヘリェン(和琳)を派遣。ヘリェンは過酷な取り調べを行い、役人たちも様々な理由で民から金銭を要求。教団とは関係ない民衆も犠牲になり人々の不満が高まります。

和珅はこの地位を利用して厳しい取り立てを行い賄賂を集めました。そのため白蓮教徒の反乱が起きています。

嘉慶元年(1796年)。四川で大規模な白蓮教の反乱が起こりました。

嘉慶4年(1799年)正月。乾隆上皇が死去。顒琰が政治を行うようになりました。このとき嘉慶帝は40歳でした。

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7代皇帝 嘉慶帝の時代

嘉慶帝が即位してまず最初に行ったのは重臣の和珅(ヘシェン)を逮捕して処刑することでした。和珅の仲間も逮捕しました。和珅から没収した財産は銀子7千万両の大金になりました。和珅は20年の間に国家予算の半分に匹敵するお金を集めていました。

嘉慶帝は汚職の酷さに驚いて改善しようとしましたが、有効な方法を見つけることができずあまり改善しませんでした。

続く反乱

乾隆帝が亡くなっても各地の反乱は続いていました。軍の改革ができないまま反乱鎮圧も同時に行わないといけません。

一口に白蓮教と言っても巨大な組織になっているのではなく。弥勒を信じる人々が各地に宗教結社を作っていました。それぞれの団体が別々に行動していました。嘉慶帝は宗教結社の拠点を潰す作戦にでましたが。拠点を失った白蓮教徒はゲリラになって街や村を襲撃しました。

堕落する八旗軍と力をつける私兵組織

各地で怒る反乱に対して清朝の正規軍は満足な鎮圧ができません。かつて人々に恐れられた八旗軍は平和な時代に慣れてしまい。すっかり堕落。漢人で編成された緑営軍も同じ。清朝の正規軍は反乱を鎮圧することができません。

この時代に反乱の鎮圧に活躍したのが郷勇でした。郷勇は地域の有力者が組織した私兵組織です。朝廷は郷勇を頼って反乱鎮圧を行いました。後に郷勇は力をつけて軍閥になり清朝を滅ぼす原因の一つになります。

八旗軍やその他の正規軍の堕落も改善されませんでした。

反乱鎮圧に膨大な費用がかかり。朝廷の財政を圧迫します。

嘉慶18年(1813年)。嘉慶帝が熱河避暑山荘に滞在していたとき。紫禁城の宦官が天理教という白蓮教の一派と手を組み200人の反乱軍を場内に引き入れました。

このときは皇子の旻寧(めんねい、後の道光帝)が軍を指揮して反乱を鎮圧しました。

艇盗の乱とベトナム問題

嘉慶時代には地上だけでなく海賊も暴れていました。

この時期の海賊の後ろだてになっていたのは大越(ベトナム)の西山朝です。西山朝に海賊の対策を要請しましたがはかどりません。李長庚に海賊対策を命じました。

西山朝に滅ぼされたの広南朝の生き残り・阮福暎が西山朝を打倒。
李長庚は後ろだてを失った海賊を討伐しました。

嘉慶9年(1804年)。嘉慶帝は阮福暎を「越南国王」に任命。「越南国」が正式な国号になりました。

イギリスとの問題

清は乾隆末期にアヘンが流行。嘉慶帝は即位するとアヘンを禁止しました。しかし密輸が増えていました。アヘンはイギリスがインドで栽培、清国内で密かに売っていました。

嘉慶12年(1807年)。イギリス軍が「ポルトガルをフランスから守るため」という理由でマカオに上陸。嘉慶帝は両広総督の呉熊光にイギリス軍を退去させるように命令。補給路を断ってイギリス軍を退却させました。

嘉慶帝はイギリス軍の動きを見張り、不法に侵入する者は武力で排除するよう命令しました。

嘉慶15年(1810年)。嘉慶帝はアヘンの取り締まりを強化。

嘉慶16年(1811年)。清国内での西洋人の居住とカトリックの布教を禁止。

ウィリアム・アマーストが三跪九叩頭を拒否

イギリスからこうした問題を話し合うため外交使節 ウィリアム・アマーストがやってきました。

清朝は外国の使節には「朝貢した」ものとみなし、三跪九叩頭の礼を強制していました。

三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
土下座して3回頭を地面に叩きつける。これを3セット行う動作。明朝では臣下や使節は皇帝の前で「五拝三叩頭の礼」を行うことになっていました。清朝ではこれを「三跪九叩頭の礼」に置き換えました。
朝鮮や琉球など冊封国の王や大臣も清の皇帝の代理である使節の前ではこれをしなければいけません(沖縄県の首里城祭りではこの様子が再現されていました)。

しかしウィリアム・アマーストはイギリス国王の使者として来ているため、屈辱でしかない三跪九叩頭の礼を拒否します。

イギリスは清朝の冊封国ではないのでウィリアム・アマーストの態度は当然と言えば当然ですが。清朝はウィリアム・アマーストを嘉慶帝に謁見させず、清朝とイギリスの交渉も実現しませんでした。

公式な貿易を禁止すれば密輸は増え続けます。

清国内から大量の銀が海外に出ていきました。国内で流通する銀子が不足。銀が高騰して民衆の生活を直撃。国の税の収入も減る悪循環になってしまいます。

嘉慶帝の最後

こうして様々な不安が続く中。嘉慶25年(1820年)。嘉慶帝は死去。享年59。

死因は不明。肥満だったので心疾患だったのではないかとも言われます。

嘉慶帝の第二皇子・綿寧(道光帝)が即位しました。

道光帝はさらに強力にアヘン対策を実施、そしてアヘン戦争が起こります。

 

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まとめ

嘉慶帝の時代は乾隆帝の治世の陰りが見え始めた時代でした。

白蓮教の乱をはじめとする内乱の頻発、西洋列強との接触による新たな問題の発生など、清王朝は大きな転換期を迎えることになります。嘉慶帝は和珅を処刑するなど改革を試みました。でも根深い問題を解決することはできず、清朝は衰退に向かって歩み始めることになります。

嘉慶帝の死後、清朝はアヘン戦争という新たな危機に直面しその後の中国の歴史に大きな影響を与えることになるのでした。

 

テレビドラマ

乾隆王朝 2003年、中国、演:賈一平
紫禁城 華の嵐 2004年、中国、演:于洋

天命 2018年、中国 演:譚俊彥
ヘシェンと嘉慶帝の対立を描いたドラマ。

瓔珞 2018年、中国 演:唐嘉童  十五阿哥 永琰
主人公は嘉慶帝の生母・令貴妃 魏氏をモデルにした魏瓔珞(ぎ・えいらく)

如懿伝 2018年、中国 演:魏子涵 十五阿哥 永琰
劇中での生母は衛嬿婉(えい・えんえん)。令貴妃 魏氏がモデル。

嘉慶君遊台湾 2022年、台湾 演:陳亞蘭
嘉慶帝は皇子時代に生母を探して台湾を旅行したという伝説をもとに作られたドラマ。嘉慶帝は実際には台湾には行ったことはありません。

 

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