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瓔珞 最終回(70話)継皇后の失脚と弘昼の最後

中国ドラマ『瓔珞~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~』は、姉の死の真相を調べるために後宮に入った魏瓔珞が、乾隆帝の寵愛を受けて皇貴妃となるまでを描いた宮廷ドラマです。

最終回の第70話では、魏瓔珞が24年間忘れなかった弘昼への復讐を果たします。継皇后は失脚し、弘昼は乾隆帝から死を命じられました。そして皇貴妃となった瓔珞は、乾隆帝に生涯をかけて愛情に応えると約束します。

この記事では『瓔珞』最終回のあらすじをネタバレありで紹介し、主要人物の結末や史実との違いも解説します。

他のエピソードを見たい方は
瓔珞 あらすじ ネタバレ一覧をご覧ください。

ネタバレ要素もあるのでご注意下さい

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最終回直前までの出来事

南巡に向かう船上で乾隆帝は地方の役人から献上された美女たちの歌や踊りを楽しんでいました。

皇后は皇帝としての名声を損なうと諫めますが乾隆帝は聞き入れません。さらに魏瓔珞は美女たちを後宮に迎えるよう勧め、乾隆帝を慌てさせました。二人の親しげな様子を見た継皇后は瓔珞への嫉妬を募らせます。

そのころ弘昼は継皇后に十二阿哥の将来を守るため行動を起こすよう説得していました。継皇后は協力を約束しますが、弘昼には知らせず、伝書鳩を使って外部と連絡を取っていました。

袁春望はその動きを知りって弘昼に計画を早めるよう働きかけます。

一方、魏瓔珞は負傷した五阿哥を治療するため葉天士を呼びました。しかし治療用の虫が毒虫にすり替えられており、五阿哥の傷は悪化します。瓔珞自身も被害を受け、さらに皇太后の船室から火が出る事件まで起きてしまいます。

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『瓔珞』最終回70話のあらすじ

継皇后が魏瓔珞の復讐計画に気づく

皇后は瓔珞が以前から袁春望の陰謀を見抜いていたことに気づきます。瓔珞は袁春望を利用して弘昼に謀反を起こさせ、乾隆帝が弟を処罰せざるを得ない状況にしたのでした。

弘昼は乾隆帝の実の弟です。乾隆帝は弟を大切にしていたため、普通の罪であれば命までは奪わなかったでしょう。しかし皇帝に対する謀反となれば話は別です。

瓔珞は24年前に姉の瓔寧を失って以来、弘昼への復讐を諦めていませんでした。乾隆帝が弘昼を守っている以上、弘昼自身に皇帝を裏切らせる必要があったのです。

皇后が瓔珞に愛される理由を尋ねる

皇后は最後に魏瓔珞へ質問します。自分は乾隆帝のために長年努力してきたのに、なぜ乾隆帝は瓔珞ばかり愛するのかという疑問でした。

瓔珞は愛しているならなぜそれを口に出すのかと答えます。そして先に愛を告白したほうが負けなのだと話しました。

継皇后は乾隆帝に愛されようと努力を続けてきましたが、瓔珞は乾隆帝に自分を愛するよう求めませんでした。二人の違いを聞いた皇后は、ようやく自分が乾隆帝の愛を得られなかった理由を知るのでした。

弘昼が毒酒を飲んで死亡

乾隆帝は弘昼に死を命じました。弘昼は海蘭察が運んできた毒酒を見て、乾隆帝の考えを理解しました。皇帝の弟が謀反の罪で処刑されたと公表すれば、皇室の名誉が傷つきます。そこで乾隆帝は弘昼が自宅で亡くなったことにしようとしたのです。

弘昼は兄の処置に容赦がないとため息をつき、毒酒を飲み干しました。こうして弘昼は死亡し魏瓔珞が24年間忘れなかった姉の仇を討つことができました。

袁春望が正気を失い皇太后に許される

袁春望は計画が失敗した末に正気を失ってしまいます。しかし皇太后は乾隆帝に袁春望を釈放するよう求めました。

魏瓔珞は袁春望を見つめます。かつて二人は兄妹のように親しくしていましたが、袁春望は瓔珞を裏切り、数々の陰謀に関わりました。瓔珞は変わり果てた袁春望を前に悲しげにため息をつくだけでした。

侍女の珍珠は皇太后がなぜ袁春望を許したのか納得できません。ところが瓔珞はそれ以上この件について話さないように言います。

魏瓔珞が皇貴妃に昇格

事件が決着した後、魏瓔珞は皇貴妃の位を授けられました。
瓔珞は礼服を身にまとい、後宮の妃嬪たちから礼を受けました。かつて宮女として後宮に入った瓔珞が、ついに皇后に次ぐ地位を与えられたのです。
乾隆帝は瓔珞に今の気分を尋ね、自分に何か伝えたいことはないかと聞きます。皇帝は瓔珞の口から、自分への愛情を聞きたかったのでしょう。

乾隆帝と魏瓔珞が生涯を共にする約束

乾隆帝は瓔珞が病気で苦しんでいたときでさえ政務を優先したことを話します。皇帝である以上、何よりも国政を大切にしなければならないというのです。

でも魏瓔珞は乾隆帝が自分に多くの時間を費やしたからこそ、何も得られないことを恐れて自分への思いが深くなったのだと話しました。

瓔珞は最後まで乾隆帝が期待するような愛の告白をしません。しかし乾隆帝が自分にとってどれほど大切なのかを今すぐ言葉にすることはできなくても、生涯をかけてその思いに応えていくと約束します。

姉の復讐を果たした瓔珞は皇貴妃として乾隆帝と共に生きていくことになったのでした。

 

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主要人物の結末

人物

最終回の結末

魏瓔珞

弘昼への復讐を果たし、皇貴妃となる。乾隆帝に生涯をかけて思いに応えると約束する。

乾隆帝

謀反を起こした弟の弘昼に死を命じ、魏瓔珞を皇貴妃にする。

継皇后

弘昼の計画に協力した末に失脚し、冷宮へ送られる。

弘昼

謀反の罪で賜死となり、自宅で毒酒を飲んで死亡する。

袁春望

正気を失うが、皇太后の求めによって釈放される。

皇太后

袁春望の処罰を望まず、乾隆帝に釈放を求める。

海蘭察

乾隆帝の命令を受け、弘昼に毒酒を届ける。

 

最終回の注目点

魏瓔珞は最初から弘昼を処刑させるつもりだった?

魏瓔珞は24年間、姉の瓔寧の死を忘れていませんでした。でも弘昼は乾隆帝の弟なので、皇帝が守っている限り処刑させることは困難でした。
そこで瓔珞は、袁春望の陰謀を利用して弘昼が謀反を起こす状況にしました。弘昼自身が皇帝を裏切れば、乾隆帝も弟を処罰せざるを得ません。
継皇后が最終回で気づいたのは、瓔珞が袁春望の計画に利用されていたのではなく、逆にその計画を弘昼への復讐に利用していたということでした。

 

『瓔珞』はハッピーエンド?

『瓔珞』は魏瓔珞にとってハッピーエンドです。
瓔珞は姉の死に関わった弘昼への復讐を果たし、皇貴妃の位を授けられました。乾隆帝との関係も続き、最後には生涯をかけて皇帝の思いに応えると約束しています。
一方、継皇后は乾隆帝の愛情を得られないまま冷宮へ送られ、弘昼は処刑されました。袁春望は生き延びたものの、正気を失い、瓔珞との兄妹のような関係も失っています。

瓔珞は宮女として後宮に入ったころから多くの敵と争ってきましたが、最終回では姉の仇を討ち、乾隆帝と共に暮らす将来を手に入れたのでした。

 

史実の魏瓔珞とは?乾隆帝に愛された令妃

魏瓔珞(ぎえいらく)はドラマの主人公ですが、モデルになったのは乾隆帝の側室・孝儀純皇后(こうぎじゅんこうごう)です。史実でわかっているのは魏氏という姓だけで「瓔珞」という名前はドラマの創作です。

魏氏は1727年に生まれ、清朝の宮廷に入りました。入宮した経緯は不明で若いころの動向はよくわかっていませんが、富察皇后のもとで教育を受けていたようです。1745年には魏貴人から令嬪になり、1749年には令妃、1759年には令貴妃に昇進しました。継皇后の事件があった1765年には皇貴妃になり事実上の後宮のトップになりました。

魏氏は乾隆帝との間に四男二女をもうけました。そのうちの一人が第十五皇子・永琰(えいえん)です。永琰は後に嘉慶帝として即位することになります。

魏氏は1775年に亡くなりました。生前に皇后になったことはありませんが、1795年に息子の永琰が皇太子に決まると乾隆帝から孝儀皇后の称号を贈られました。

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継皇后はなぜ乾隆帝の怒りを買った?

史実の継皇后・輝発那拉氏(ホイファナラ氏)は1765年の第四次南巡中に江南を訪れていましたが、杭州で突然、北京へ送り返されました。それまで皇帝と一緒に食事をしていたにもかかわらず、乾隆帝は皇后の帰京を命じたのです。
問題になったのは、継皇后が自分の髪を切ったことでした。満州人の習慣では髪を切ることは皇帝や皇太后が亡くなったときなどに行う特別な行為でした。皇帝も皇太后も健在なのに皇后が髪を切ったため、乾隆帝は重大な不敬行為と受け取りました。

継皇后が髪を切った理由はよくわかっていません。

乾隆帝が江南の美女を寵愛しようとしたため、継皇后が抗議したという説がありますし。乾隆帝は後に皇后が皇太后に孝行を尽くさず、杭州では常識に反する行為をしたと非難しています。

いずれにしても詳しい理由は不明です。

北京に戻された継皇后は皇后の権限を取り上げられ、身の回りの世話をする宮女もわずか2人に減らされました。廃后の勅命は出てませんが、事実上は皇后の地位を失いました。1766年に亡くなったときも乾隆帝は皇后としての葬儀を認めず、皇貴妃の待遇で葬るよう命じています。

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史実の弘昼はどうなった?最期は処刑されたの?

弘昼(こうちゅう)は実在の人物です。雍正帝の第五皇子、乾隆帝の弟です。雍正帝の時代に和親王の爵位を授けられ、乾隆帝の即位後も親王として暮らしました。

「瓔珞」では継皇后と協力して謀反を企てますが、史実の弘昼が乾隆帝に反乱を起こしたという記録はありません。

弘昼は奇行の多い人物で生きているうちに自分の葬儀を行い、家族に弔わせたという逸話も残っています。また、朝廷で軍機大臣の訥親に暴力を振るったこともありました。それでも乾隆帝は弟を厳しく処罰しませんでした。

史実の弘昼は1770年(乾隆35年)に58歳で病死しました。継皇后の髪切り事件があった1765年の南巡から5年後のことです。ドラマのように継皇后と共謀して乾隆帝を殺そうとしたり、その罪で処刑されたりした事実はありません。

亡くなる数日前には乾隆帝が屋敷を訪れて見舞い、死後には葬儀の費用として銀1万両を与えています。 ドラマと違って最後まで兄には逆らわず、皇帝も弟を処分するような事はありませんでした。

和親王 弘昼:乾隆帝の弟の史実
和親王・弘昼は、清朝 乾隆帝の異母弟。奇行が目立ち「荒唐王爺」と呼ばれました。ドラマでは悪役として描かれることも。史実では病死の可能性が高いですが、謎多き人物。

 

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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