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敬懿太妃は実在する?ドラマ「溥儀の料理番」のモデル 敬懿皇貴妃とは

中国ドラマ「溥儀の料理番~紫禁城 最後の日々」には、紫禁城で暮らす太妃の一人として「敬懿太妃」が登場します。

清朝が滅亡したあとも紫禁城に残り、幼い溥儀の身近にいる女性ですが、この敬懿太妃には史実上の人物がいます。同治帝の妃だったヘシェリ氏で、清朝時代には瑜嬪、瑜妃、瑜貴妃などと呼ばれ、溥儀の時代には「敬懿皇貴妃」、さらに「敬懿皇貴太妃」の称号を受けました。

同治帝の死後も長く宮廷で暮らし、八国連合軍が北京へ入った1900年には紫禁城に残って宮中の事務を取り仕切っています。隆裕太后の死後には溥儀を養育し、皇太后の名位を求めたこともありました。

ドラマの敬懿太妃と、史実の敬懿皇貴妃の生涯を紹介します。

 

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敬懿太妃は実在する?

ドラマ「溥儀の料理番」に登場する敬懿太妃は実在の人物。同治帝の妃だった敬懿皇貴妃 赫舎里(ヘシェリ)氏です。

同治帝の後宮に入ったときは「瑜嬪」で、その後「瑜妃」「瑜貴妃」と昇進しました。

溥儀が即位すると「瑜皇貴妃」となり、清朝滅亡後の1913年には「敬懿皇貴妃」の尊号を受けています。1922年の溥儀の結婚後には「敬懿皇貴太妃」と呼ばれました。

ドラマで使われる「敬懿太妃」という呼び方はこの敬懿皇貴妃・敬懿皇貴太妃に由来するものです。

亡くなったあとには「献哲皇貴妃」という諡号が贈られました。

そのため、時期によっていくつもの呼び方が有ります。

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ドラマ「溥儀の料理番」の敬懿太妃

ドラマでは、清朝が滅亡したあとも紫禁城で暮らしている太妃の一人として敬懿太妃が描かれます。

ドラマの舞台となる時代には、溥儀はすでに皇帝を退位しています。それでも清室優待条件によって皇族たちは紫禁城で生活していました。敬懿太妃も、そうした旧清朝宮廷の中で暮らす女性として登場します。

宮中の規則や身分の秩序に厳しく、物語の前半では主人公の容児に何度も厳しい処分を下します。

孫義仁の言葉を信じて容児を雨の中で跪かせたり、家宴の料理に細工があったときには容児を問い詰めたりしました。太極殿の供膳権を得るために溥儀へ訴え、荣惠太妃と対立する場面もありました。料理をめぐる争いでも敬懿太妃は自分が暮らす太極殿の立場を強く主張しています。

端康太妃が亡くなったときには、容児が作った薬膏を疑って処分を求めました。後に薬方が書き換えられていたことがわかり、容児への疑いは晴れます。

容児にとって敬懿太妃は厳しい相手なのですが、1924年になりって溥儀が紫禁城から退去させられると、敬懿太妃自身の立場も変わっていきます。

敬懿太妃は宮殿を離れることを拒んで白綾を首に掛けて殉国を口にするほど抵抗しました。

溥儀が宮殿を去ったあと紫禁城に残った敬懿太妃たちは食料や水にも困るようになります。そのとき助けたのが、それまで敬懿太妃が何度も処罰しようとした容児でした。容児は水を用意して粥を作り、発疹が出た敬懿太妃の治療にも力を尽くします。

敬懿太妃も次第に容児への態度を変えて自分たちにも寿喜の死について責任があったと振り返るようになり、容児とは和解するのでした。

 

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敬懿皇貴妃とは

プロフィール

  • 姓:ヘシェリ氏(赫舎里氏)

  • 旗籍:満洲正藍旗

  • 民族:満洲族

  • 号:懶夢山人

  • 称号:瑜嬪→瑜妃→瑜貴妃→瑜皇貴妃→敬懿皇貴妃→敬懿皇貴太妃

  • 諡号:献哲皇貴妃

  • 生年月日:咸豊6年6月1日(1856年7月2日)

  • 没年月日:1932年2月5日とする記述がある一方、2月3日とする記載もあります

  • 墓所:河北省遵化・清東陵恵陵妃園寝

  • 夫:同治帝・載淳

  • 養子:宣統帝・溥儀

家族

  • 父:崇齢。広東雷州府知府

  • 祖父:舒興阿。道光壬辰科の進士、陝甘総督、伊犁将軍などを歴任

  • 曾祖父:成明。杭州将軍

  • 妹:恭忠親王奕訢の庶出第二子・載瀅の継室

  • 夫:同治帝・載淳

  • 夫の父:咸豊帝・奕詝

  • 夫の嫡母:孝徳顕皇后サクダ氏、孝貞顕皇后ニオフル氏

  • 夫の母:孝欽顕皇后イェヘナラ氏(慈禧太后)

  • 同治帝の皇后:孝哲毅皇后アルト氏

  • 同治帝の妃:淑慎皇貴妃フチャ氏、恭粛皇貴妃アルト氏、敦恵皇貴妃シリンギョロ氏など

 

敬懿皇貴妃の出身

ヘシェリ氏は咸豊6年6月1日、1856年7月2日に生まれました。本家は北京の安定門板廠胡同にありました。

一族は清朝初期に西安へ派遣された駐防八旗の家でした。祖父の舒興阿が道光年間に進士となり北京へ移って京旗となります。

舒興阿は伊犁将軍や陝甘総督などを務めました。父の崇齢も広東の雷州府知府となっています。曾祖父の成明は杭州将軍でした。

祖父の世代から高位の官職に進むようになった家で皇族との婚姻関係もありました。ヘシェリ氏の妹は、恭忠親王奕訢の庶出第二子・載瀅の継室になっています。

ヘシェリ氏本人は聡明で機転が利き書画にも通じていたとされます。「懶夢山人」という号も使っていました。

 

同治帝の瑜嬪になる

ヘシェリ氏は十代後半で同治帝の後宮に入りました。

同治12年(1873)2月3日に外八旗の選秀で選ばれ瑜嬪になりました。

内務府档案によると、「瑜」という字には満洲語で「鮮やかな」「光彩がある」といった意味がありました。才幹があったため、慈禧太后から気に入られていたともいわれます。

同治12年9月13日の卯刻、瑜嬪は神武門から宮中へ入りました。瑜嬪は珣嬪とともに景仁宮で暮らすことになります。

 

同治帝の病気で瑜妃に昇進

同治13年(1874)、同治帝は病気になりました。

11月15日、同治帝の回復を祈るため瑜嬪は瑜妃へ昇進しました。しかし同治帝はその後亡くなります。

若くして皇帝の未亡人となった瑜妃は、その後も宮中で生活を続けました。同治帝には子がいなかったため皇統は別の系統へ移り、光緒帝の時代になります。

光緒13年(1887)7月17日には瑜妃に仕えていた官女子の大妞が病気を理由に自尽する出来事もありました。敬事房では、その日から大妞に支給されていた食事の分例を停止する手続きが行われています。

大妞は鑲黄旗の元蘇拉・錫泰の娘でした。錫泰は鑲黄旗満洲の閑散で、栄禄の門生だった貽谷の叔父にあたる人物とされています。

 

慈禧太后の六十歳で瑜貴妃になる

光緒20年(1894)正月1日、慈禧太后は六十歳を迎える年にあたり、お祝いごとのため妃たちも昇進をしました。瑜妃も瑜貴妃となりました。

 

八国連合軍が北京に入ったとき宮中を取り仕切る

光緒26年(1900)7月20日、八国連合軍が北京へ入りました。

翌21日、慈禧太后は光緒帝、皇后、瑾妃などを連れて北京を離れます。ところが寿康宮周辺で暮らしていた先帝の妃たちは北京に残されてしまいます。

宮中には咸豊帝の祺貴妃トゥンギャ氏、吉妃王氏のほか、同治帝の敦宜栄慶皇貴妃フチャ氏、瑜貴妃ヘシェリ氏、珣貴妃アルト氏、瑨妃シリンギョロ氏などがいました。

このとき瑜貴妃は宮中の事務を取り仕切り、北京に残った大臣たちと相談しながら対応しました。敦宜栄慶皇貴妃が控えめな性格だったため、瑜貴妃が代わって実務を担ったとされています。

連合軍の統帥が瑜貴妃と対面して敬礼したという話もあります。

内務府大臣の世続や平文廉も宮中へ入り、宮廷内の仕事にあたりました。当時、寿康宮周辺で暮らす妃たちは自分たちに支給された銀を使って太監を宮外へ行かせ、食料などを購入していたこともわかっています。

その後、光緒帝は敦宜栄慶皇貴妃らの年例銀を半額にするよう命じました。宮女の例銀については、それまでどおり支給されています。

ただし、八国連合軍の北京侵入時に宮中の仕事を担った瑜貴妃には特別な褒賞はなかったとされます。

 

溥儀の即位で瑜皇貴妃になる

光緒34年(1908)10月25日、宣統帝・溥儀が即位すると、瑜貴妃は瑜皇貴妃になりました。同治帝が亡くなってから三十年以上が過ぎていました。

溥儀は幼く、光緒帝の皇后だった隆裕太后が皇太后として宮廷の中心にいました。その後、1912年に溥儀は皇帝を退位。清朝は終りを迎えます。

でも清室優待条件によって溥儀や后妃たちは引き続き紫禁城で暮らしました。

1913年3月12日。瑜皇貴妃は「敬懿皇貴妃」となりました。

 

隆裕太后の死後に溥儀を育てる

隆裕太后が亡くなると、敬懿皇貴妃は幼い溥儀の養育に関わりました。

同治帝の四人の遺妃のうち、慈禧太后から好かれていた淑慎皇貴妃は光緒30年(1904)に亡くなっていました。

残った瑜妃、珣妃、瑨妃の中では瑜妃が最年長でした。性格も強かったとされ、同治帝の遺妃たちの中では瑜皇貴妃が中心となっていたようです。

隆裕太后の死後には溥儀を養育する立場にもなりました。そこで敬懿皇貴妃は溥儀の養母という立場から皇太后の名位を求めました。しかし袁世凱の指示によって実現しませんでした。

一方、溥儀退位後の宮廷では光緒帝の側室だった端康皇貴妃も強い立場にあり、四太妃が紫禁城の奥向きを取り仕切っていました。

 

慈禧太后の陵墓で待遇を求める

『清稗類鈔』には、瑜貴妃が自らの宮廷内での待遇をめぐって強く訴えたという話があります。

後宮の女性たちが慈禧太后の陵墓へ参拝した際、儀礼を終えても瑜貴妃は帰ろうとしませんでした。瑜貴妃は慈禧太后について地下へ行くと言い、摂政王の載灃が自ら迎えに来たとされます。

そこで瑜貴妃は、溥儀が徳宗・光緒帝の皇統を継ぐと同時に穆宗・同治帝の系統も兼祧していることを持ち出しました。同治帝の妃の中で自分が年長者なのに、隆裕だけが「聖母」と呼ばれ、自分がその下に置かれる理由を問いただしたといいます。

珣妃と瑨妃も瑜貴妃に同調しました。

載灃は慶親王奕劻と相談し瑜貴妃を皇貴妃へ昇格させることにしました。さらに隆裕太后の前で「奴才」と自称する必要をなくし、瑜妃、珣妃、瑨妃の月例銀も増やしたとされます。

これは『清稗類鈔』に収められた話なので、会話の細部までそのまま史実だったかはわかりません。

溥傑など旧宮廷関係者の回想では敬懿皇貴妃は知識があり、規則や礼法に厳しい女性だったとされています。間違いや規則違反を見過ごさない性格で慈禧太后と似たところがあると感じた人もいたようです。

 

敬懿皇貴太妃になる

民国11年(1922)、溥儀の結婚が行われました。

これを機に敬懿皇貴妃は「敬懿皇貴太妃」と呼ばれるようになります。

清朝の滅亡から十年がたっていましたが、紫禁城の中では溥儀を中心とする旧清朝の宮廷生活が続いていました。

1924年に紫禁城を出る

1924年10月に北京政変が起こります。

馮玉祥と孫岳は清室優待条件を一方的に変更して、溥儀たちに紫禁城からの退去を求めました。

11月21日に溥儀が宮殿を離れると、敬懿皇貴妃と瑨妃も紫禁城を出ました。

瑜嬪として十代で宮中へ入り、同治帝、光緒帝、宣統帝の時代を過ごした敬懿皇貴妃にとって、半世紀近く続いた宮廷での生活がここで終わりました。

 

敬懿皇貴妃の最後

敬懿皇貴妃は1932年2月5日、旧暦の大晦日に亡くなったとされています。亡くなった場所は、北京の麒麟碑胡同にあった旧栄寿固倫公主府の邸宅とされます。享年77(数え歳)。

2月23日には棺を移す奉移礼が行われました。

葬礼には多くの人が集まり、北平の街路では車馬が道を埋め、沿道の露店も営業を止めたとされます。警察局、保安隊、憲兵、衛戍部隊も秩序維持にあたりました。北京の人々の前で行われた最後の大規模な皇室葬礼ともいわれます。

葬礼後は棺は柏林寺へ一時安置されました。満洲国の朝廷からは「献哲皇貴妃」の諡号が贈られていました。

1935年3月14日の寅刻、敬懿皇貴妃と敦恵皇貴妃の棺が運び出され、河北省遵化の双山峪にある恵陵妃園寝へ埋葬されました。

 

ドラマの敬懿太妃と史実の敬懿皇貴妃

ドラマ「溥儀の料理番」の敬懿太妃は実在の人物。同治帝の妃だったヘシェリ氏です。

ヘシェリ氏は瑜嬪として同治帝の後宮に入り、瑜妃、瑜貴妃、瑜皇貴妃へと位を上げました。清朝滅亡後には敬懿皇貴妃となり、溥儀の結婚後には敬懿皇貴太妃と呼ばれています。

八国連合軍が北京へ入ったときには宮中に残って事務を担い隆裕太后の死後には幼い溥儀を養育しました。1924年には溥儀と同じ時期に紫禁城を離れ、1932年まで生きています。

ドラマでは容児に厳しい態度を取ることも多いですが。規則や伝統を大切にするあまりの行動で、根っからの悪人ではないようです。清朝末期の混乱の時代を支えてきたというプライドがあるので紫禁城の昔からの礼法や序列にこだわるのかも知れませんね。

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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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