中国ドラマ「女医明妃伝」のヒロイン・譚允賢/杭允賢は、実在した二人の女性をもとに作られた架空の人物です。
モデルになったのは、中国四大医女の一人に数えられる談允賢(だん いんけん)と、景泰帝の皇后になった杭皇后です。
談允賢からは女医としての経歴を、杭皇后からは景泰帝との関係や皇后という立場を取り入れています。ドラマで使われる「允賢」の名は談允賢と共通し、「杭允賢」という名には杭皇后の「杭」も使われています。
では、実在した談允賢と杭皇后はどのような女性だったのでしょうか。二人の生涯と「女医明妃伝」の譚允賢との関係を紹介します。
譚允賢(だんいんけん)のモデルになった二人の女性
「女医明妃伝」の譚允賢には、談允賢と杭皇后という二人の実在女性の経歴が取り入れられています。
談允賢が生きたのは明の時代です。医師の家系に生まれ、自らも女性の診療を行い、医学書「女醫雜言」を残しました。
杭皇后は景泰帝・朱祁鈺の妃です。景泰帝が皇帝になると妃となり、その後、息子の朱見済が皇太子になったことをきっかけに皇后になりました。
二人の生きた年代は重なっていません。杭皇后が亡くなった後に談允賢が生まれています。
ドラマの允賢はもともと医師の家系「譚家」の娘という設定です。祖父が政争に巻き込まれたので、一族は身分を隠して「杭」に改姓しました。
そのため劇中では本来の名前は「譚允賢」、改姓後の名前は「杭允賢」となっています。
この設定によって、実在の女医・談允賢と景泰帝の杭皇后という二人のモデルが一人のヒロインにつなげられているんですね。
まずは譚允賢/杭允賢の女医としてのモデルになった談允賢から紹介します。
談允賢とは
プロフィール
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名前:談允賢(だん・いんけん)
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生年:1464年
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没年:1554年または1556年
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享年:91または93
生年については1461年とする記載もあり、没年と享年にもいくつかの表記があります。
家族
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父:談綱
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母:錢氏
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夫:楊氏
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子:楊濂、娘3人
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祖父:談復
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祖母:茹氏
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兄弟:談麟、談鳳
談允賢が生きたのは明の時代。日本では室町時代になります。
談允賢の人生
医師の家系に生まれる
談允賢は医術に関わる一族に生まれました。父の談綱は医師でした。
祖父の談復と祖母の茹氏も医療の知識を持っていて、談允賢は幼いころから二人の影響を受けて育ちました。兄弟には談麟、談鳳がいました。
談允賢は10代になると、さまざまな医学書を読むようになります。とくに祖母は薬について豊富な知識を持っていました。談允賢は祖母から薬の知識だけでなく、実際の治療に必要な医療技術も学びました。
もともと家族の中に医療を学べる環境があったことが、後の談允賢の活動につながったのでしょう。
明の時代の女性と医療
明では儒教、とくに朱子学の考えが広まっていました。当時は女性の医師がほとんどおらず、女性も病気になれば男性の医師の診察を受けることになります。
ところが、男性医師に体の悩みを相談することに抵抗を感じる女性もいました。診察を受けるのが遅れ、病気が悪化してしまう女性もいたようです。
そのような時代に女性を診察したのが談允賢でした。
談允賢のもとには診察を求める女性が多く訪れるようになりました。治療を続けるうちに評判も広まり、皇室の女性が談允賢に相談して治療を受けることもあったといいます。
女性の患者にとって、同じ女性である談允賢には男性医師には話しにくい症状も相談しやすかったのかもしれません。
楊氏と結婚
談允賢は楊氏と結婚しました。
ところが結婚して間もないころ、談允賢自身が病気になって苦しみます。談允賢は自分の症状を診断し、自ら薬を試しました。
医師として他人を診察するだけでなく、自分の体についても医学の知識を使って対処していたようです。
夫との間には楊濂と3人の娘が生まれました。
医学書「女醫雜言」を残す
1551年。談允賢は祖父母から学んだ医学知識に、自分自身の診療経験を加えて「女醫雜言」を書きました。
「女醫雜言」には、談允賢が実際に診療した31人の治療例が収められています。
出産や産後の病気、性病、腹部を切開した治療例など、女性の病気や婦人科に関わる内容が書かれた医学書でした。
談允賢は90歳を超えるまで長生きしました。自分自身の健康にも気を配っていたのでしょうか。
没年は1554年または1556年とされ、享年についても91歳、93歳、92歳、94歳などの表記があります。
談允賢の活動によって、女性が医術を行うことへの理解も進んだとされます。後世には中国四大医女の一人に数えられるようになりました。
中国四大医女とは
中国四大医女とは、談允賢を含む4人の女性医師です。
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義姁:前漢時代の女性。漢の武帝の母・王太后の病気を治した人物。
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鮑姑:西普時代の女性。灸を得意とし、庶民の治療を行いました。
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張小娘子:北宋時代の民間の外科医。彼女の治療を受けた後宮の側室は美しさを保ったといわれます。
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談允賢:明代の女性医師。「女醫雜言」を残しました。
「女医明妃伝」で使われている女医としての設定は、この談允賢の経歴をもとにしています。
杭皇后とは
プロフィール
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称号:粛孝皇后
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生年:1427年
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没年:1456年
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享年:30
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父:杭昱
家族
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父:杭昱
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夫:景泰帝(朱祁鈺)
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子:朱見済(懐献太子)
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弟:杭敏
杭皇后は景泰帝・朱祁鈺の妃になった女性です。
父の杭昱は庶民だったとされますが、詳しいことはよくわかっていません。
正統年間(1436~1449年)、杭氏は朱祁鈺の屋敷に入り、側室になりました。その後、朱祁鈺との間に朱見済を産みます。
杭皇后の人生
景泰帝の妃になる
正統帝・英宗がオイラトとの戦いで捕らえられる事件が起こりました。これが土木の乱といわれる戦いです。
皇帝が敵に捕らえられるという事態になり、弟の朱祁鈺が皇帝に即位しました。景泰帝の誕生です。
夫が皇帝になったことで、杭氏も妃になりました。
当初、皇后だったのは汪氏です。最初は皇太子には英宗の息子・朱見深でした。ところが景泰帝は自分の息子を皇太子にしようと考えるようになります。
息子の朱見済が皇太子になる
1452年(景泰3年)。景泰帝は甥の朱見深を皇太子から廃して、自分と杭氏の間に生まれた朱見済を新しい皇太子にしました。
汪皇后はこの決定に反対しました。
すると景泰帝は汪皇后を廃して、朱見済の母である杭氏を新しい皇后にしたのです。こうして杭氏は景泰帝の側室から皇后になりました。
ところが翌年、皇太子になった朱見済が亡くなりました。
杭皇后も1456年(景泰7年)に亡くなります。30歳でした。死後、杭氏には「粛孝皇后」の諡が贈られました。
奪門の変と英宗の復位
1457年(景泰8年)。景泰帝が病気になると、奪門の変が起こりました。
幽閉されていた英宗が復位し、景泰帝は皇帝の地位を失って幽閉されます。
景泰帝はその後まもなく病気が悪化して亡くなりました。暗殺されたともいわれますが、よく分かっていません。
杭皇后はこの政変が起きる前年に亡くなっていたため、奪門の変を経験していません。
英宗の復位後に称号と墓が失われる
英宗にとって杭皇后の息子・朱見済は、自分の息子である朱見深に代わって皇太子になった人物でした。
英宗が復位すると、杭皇后に贈られていた「粛孝皇后」の称号は廃止されました。杭皇后の墓も破壊されます。
さらに役職についていた杭皇后の弟・杭敏も解任され、故郷に戻されました。その後の杭皇后の一族については詳しい記録や功績は残っていません。
譚允賢(だんいんけん)は実在した?
明朝の時代に談允賢という女医が実在したのは確かです。でも「女医明妃伝」で描かれるヒロイン・譚允賢はほぼ作られた人物といえます。
モデルになったのは明代に女医として活動した談允賢と、景泰帝の皇后になった杭皇后。
談允賢は1464年ごろに生まれて1554年または1556年まで生きたとされます。杭皇后は1427年に生まれて1456年に亡くなりました。杭皇后が亡くなった後に談允賢が生まれているので、二人に面識はありません。
ドラマでは談允賢の医術を学んで女性を治療した経歴と、杭皇后の景泰帝との関係や皇后という立場が一人の人物にまとめられています。
そのため、譚允賢という女性医師が景泰帝の時代に生きて景泰帝と関わったという内容はドラマの創作になります。
史実の談允賢は景泰帝の皇后にはなっていません。また、杭皇后が女医として活動したという話もありません。
ドラマ前半の医術に関わる部分は談允賢、景泰帝との関係や宮廷での立場は杭皇后の経歴をもとにした部分と考えると分かりやすいですね。
私は、時代の違う二人の女性を一人のヒロインにまとめたところが「女医明妃伝」の面白いところだと思います。談允賢と杭皇后の人生を知ってからドラマを見ると、ドラマのどの部分が談允賢をもとにし、どの部分が杭皇后をもとにしているのか分かりやすいですね。
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