汪皇后は明朝の皇后。
第7第皇帝・ 景泰帝の正室です。
景泰帝が実の子の朱見済を皇太子にしようとしたのを汪皇后は反対しました。そこで怒った景泰帝によって廃妃にさせられます。
ドラマ「女医明妃伝」では、安和郡主(あんわぐんじゅ)汪美麟(おう・びりん)の名で登場します。劇中では悪役として登場します。しかし現実の汪皇后は気の強い女性でしたが悪女だったわけではありません。
史実の汪皇后はどんな人物だったのか紹介します。
汪皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:1427年
没年月日:1507年
姓:汪
称号:孝淵景皇后
地位:郕王妃→皇后→郕王妃
父:汪瑛
母:
夫:景泰帝
子供:2女
彼女が生きたのは15~16世紀。約280年の明朝の歴史で後半にさしかかったころ。最盛期から衰退期への途中の時代です。
日本では室町時代になります。
おいたち
1427年(宣徳2年)に生まれました。
父は汪瑛。
正統年間(1436~1449)に郕王・朱祁鈺(後の景泰帝)の正室になりました。汪氏には郕王妃の地位が与えられます。
朱祁鈺との間には2人の娘が誕生します。
朱祁鈺が即位して皇后になる
1449年。明とオイラトの戦争が始まります。土木の変で正統帝が捕虜になり、代わりに夫の朱祁鈺が皇帝(景泰帝)になりました。
汪氏は皇后になりました。
正統帝が釈放され明に戻ってきました。正統帝の息子・朱見深を皇太子にする約束で景泰帝は皇帝を続けました。
景泰3年(1452年)。景泰帝には側室・杭貴妃との間に男子(朱見済)がいました。景泰帝は臣下に賄賂を送りました。臣下が懐柔できると皇太子の朱見深を廃位させ、実子の朱見済を皇太子にすると発表しました。
しかし汪皇后はそれに反対します。
景泰帝は激怒しました、朱見済を皇太子にした同じ日に汪皇后を皇后から降格させました。朱見済の母・杭貴妃が皇后になりました。
汪廃后は宮殿の外で隔離されて暮らしました。
景泰4年(1453年)。皇太子になったばかりの朱見済が死亡します。
景泰7年(1456年)。杭皇后は死亡します。
臣下たちは汪廃后を皇后に戻すように訴えましたが景泰帝は許しませんでした。
景泰帝は病になり寝込んでしまいます。
奪門の変
景泰8年(1457年)1月。軟禁されていた朱祁鎮は家臣たちとともに反乱を起こします。
朱祁鎮(英宗・天順帝ともいいます)はふたたび即位しました。
景泰帝は郕王に降格され幽閉されました。
汪氏はふたたび郕王妃の地位を与えられました。郕王妃は郕王府(郕王の屋敷)で暮らしました。
景泰8年(1457年)3月。朱祁鈺は死亡しました。発表は病死ですが毒殺説もあります。
英宗は朱祁鈺の側室達を殉葬するように命令しました。郕王妃も殉葬になりそうでした。家臣の李賢は「汪氏は長い間廃后になっており2人の娘はまだ若く、殺してはいけません」と言い殉葬に反対しました。
英宗はそのとおりだと思い、郕王妃の命を助け郕王府で暮らすのを許可しました。
銭皇后の友人
英宗が幽閉されていたときのことです。銭皇后は夜になると泣いていました。当時の汪皇后は銭皇后を見つけると涙をふき慰めたといいます。それ以来2人は仲が良くなっていました。
銭皇后は皇后にもどりましたが、こんどは郕王妃が暮らしていけるのか心配しました。そこで銭皇后が管理している財産から一部を持ち出すことを許可しました。
孫皇太后と銭皇后は季節の節目ごとに宴を開き郕王妃を招待しました。
宝物
あるとき、英宗が財産の中にヒスイの宝物があるのを思い出し臣下に持ってくるように言いました。しかし郕王妃が持ち出していました。英宗は家臣に取り戻すように命令。役人が郕王妃が王宮から持ち出した宝物を返すように要求しました。しかし郕王妃は返しません。役人がヒスイを見つけ問いただすと、郕王妃は怒って井戸に捨ててしまいました。
英宗はその話を聞いて不快に思い王宮から持ち出した財産を取り返すように命じました。
郕王妃からすれば銭皇后の許可をもらって持ち出しのだから「どうして?」と思ったかもしれませんが。英宗は許さなかったようです。
成化帝の時代
天順8年(1464年)。英宗が死去。朱見深が即位しました(成化帝)。
成化帝は郕王妃が彼を守ろうとしたことを知っていました。そこで郕王妃の生活を援助しました。郕王妃は穏やかな余生をすごしました。
正徳元年12月(1507年1月)。死去。享年80。
貞恵安和景皇后の諡号が贈られました。葬儀は妃の格式で行われましたが、祭祀(儒教における死後の供養)は皇后の格式で行われました。
明が滅亡して残党が南明を造って清に抵抗していた時代(1645年)には孝淵粛懿貞恵安和輔天恭聖景皇后の諡号が贈られました。省略して「孝淵景皇后」とよばれます。
「女医明妃伝」の汪美麟
ドラマ「女医明妃伝」の汪美麟(おうびりん)は汪国公の娘で朱祁鈺の妃になる女性です。
朱祁鈺は杭允賢に思いを寄せています。そのため汪美麟は允賢を恋の相手として敵視するようになりました。
土木の変を経て朱祁鈺が皇帝になると、汪美麟も皇后になります。
皇后となった後も允賢との対立は続きました。
第31話では汪美麟が皇后になった後、彼女の侍女が太上皇后に坤寧宮から出るよう迫り朱祁鈺が汪美麟を怒っています。
その後、汪美麟の行動を知った朱祁鈺が廃后を考える場面もあります。でも太后が反対して廃后の詔書を焼いたため、このとき汪美麟は皇后の地位を保ちました。
ドラマの終盤では允賢が朱祁鈺の子を妊娠します。
朱祁鈺は允賢を皇貴妃にして皇后が允賢に行ったことを調べると約束しました。允賢の妊娠を知った汪美麟は、さらに允賢を追い詰めようとします。
ところが汪美麟が允賢に飲ませようとした毒を朱祁鈺自身が誤って口にしてしまいます。朱祁鈺は吐血するほどの症状に陥りました。
汪美麟は自分が允賢のために用意した毒を朱祁鈺が飲んだことに気付きます。事情を知った朱祁鈺は汪美麟を皇后から廃して允賢を皇后にしました。
最終回では朱祁鈺は吐血して亡くなりました。廃后になった汪美麟については、その後の人生や最期まではは詳しくは描かれていません。
汪美麟と史実の汪皇后はどこが違う?
ドラマの汪美麟と史実の汪皇后には、共通する経歴があります。
どちらも朱祁鈺の妃となり、朱祁鈺が皇帝になると皇后になりました。そして後に皇后の地位を失っています。
ところが、廃后に至る事情は違います。
ドラマでは、汪美麟は杭允賢を敵視し、允賢を害そうとしたことが朱祁鈺との関係を悪化させます。最後は允賢に使おうとした毒を朱祁鈺が誤って口にし、汪美麟は廃后となりました。
史実では、汪皇后が景泰帝の皇太子交代に反対したため廃后となっています。
景泰帝が皇太子にしようとした朱見済の母は杭氏です。
つまり史実では、汪皇后自身の息子を皇太子にする争いだったわけでもありません。
汪皇后と景泰帝の間には2人の娘がいました。
景泰帝が兄の子・朱見深を廃し、杭氏との間に生まれた朱見済を皇太子にしようとしたため、汪皇后が反対したのです。
ドラマでは汪美麟と杭允賢の恋愛上の対立が大きな軸になりますが、史実の皇太子交代では杭氏の息子を皇太子にすることに汪皇后が反対しています。
この違いを知っていると、「女医明妃伝」の汪美麟が史実の汪皇后の経歴を一部取り入れながら、物語用にかなり違う人生を与えられた人物だと分かります。
史実の汪氏は皇后を廃された後も長く生きました。夫の死後には殉葬されかけましたが命を助けられ、のちに成化帝から生活の援助を受け、80歳で亡くなっています。
関連記事
明英宗 朱祁鎮:オイラトの捕虜になり二度皇帝になった明の皇帝の生涯
朱祁鈺(景泰帝・代宗)の史実:兄 英宗の捕虜で即位した明の第7代皇帝
譚允賢は実在した?『女医明妃伝』のモデル談允賢(だんいんけん)と杭皇后とは


コメント