明英宗 朱祁鎮(しゅ・きちん)は、明の第6代・第8代皇帝です。
1449年、朱祁鎮は自ら大軍を率いてオイラトとの戦いに向かいました。ところが土木堡で明軍は大敗。皇帝本人が敵軍に捕らえられてしまいます。
北京では異母弟の朱祁鈺が皇帝に即位しました。翌年、朱祁鎮は釈放されて明に帰りますが、すでに弟の景泰帝が皇帝です。朱祁鎮は太上皇として南宮に入り、その後約7年間を過ごしました。
1457年、病気になった景泰帝のもとで後継者問題が起こります。石亨・徐有貞・曹吉祥たちは南宮から朱祁鎮を迎え出し、朱祁鎮は再び皇帝になりました。
一度皇帝の座を失い、異国で捕虜となり、帰国後は太上皇となり、最後には皇帝へ復位する。朱祁鎮は明の皇帝の中でもかなり珍しい経歴をもっています。
史実の明英宗 朱祁鎮は、どのような人生を送ったのでしょうか。
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明英宗 朱祁鎮(しゅ・きちん)とは
プロフィール
- 名 前:朱祁鎮(しゅ・きちん)
- 生 年:宣徳2年11月11日(1427年11月29日)
- 没 年:天順8年正月17日(1464年2月23日)
- 第1次在位:1435~1449年
- 第2次在位:1457~1464年
- 元 号:正統・天順
- 廟 号:英宗・
家族
- 父:宣宗 宣徳帝 朱瞻基
- 母:孝恭章皇后孫氏
- 異母弟:朱祁鈺(景泰帝・代宗)
- 皇后:孝荘睿皇后銭氏
- 側室:周貴妃など
- 長男:朱見深(後の成化帝)
- 皇子:徳荘王 朱見潾など
『明史』は朱祁鎮を宣宗の長男、母を当時貴妃だった孫氏としています。『明会要』では宣徳2年11月に誕生し、宣徳3年2月に皇太子になったことが確認できます。
日本では室町時代にあたります。
正統帝・天順帝・英宗の違い
朱祁鎮には「正統帝」「天順帝」「英宗」という呼び名があります。
「正統」と「天順」は元号です。
朱祁鎮は最初の在位中に「正統」の元号を使いました。そのため日本の中国史では正統帝と呼ばれます。
ところが朱祁鎮は1449年に皇帝の座を失い、1457年に復位しました。二度目の即位では元号を「天順」に改めたため、こちらの時代の朱祁鎮は天順帝とも呼ばれます。
「英宗」は死後に贈られた廟号です。
廟号は皇帝を宗廟で祖先として祀るときに使う名前です。宗廟は皇帝一族の祖先を祀る施設なので、生きている朱祁鎮本人が「英宗」と名乗っていたわけではありません。
朱祁鎮の場合、二つの元号があるため、生涯全体を指すときには廟号の「英宗」を使うと分かりやすいですね。
朱祁鎮(しゅ・きちん)のおいたち
父は宣徳帝、母は孝恭章皇后孫氏
朱祁鎮は1427年、宣宗・宣徳帝 朱瞻基の長男として生まれました。
母は孝恭章皇后孫氏です。
朱祁鎮が生まれた当時、孫氏は貴妃でした。『明史・英宗本紀』には「母は貴妃孫氏」とあり、朱祁鎮が生まれて数か月後に皇太子となり、その後に孫氏が皇后になったことが書かれています。
1428年、まだ乳児だった朱祁鎮は皇太子になりました。
もともとの原稿では2歳で皇太子となっていましたが、『明会要』では宣徳3年2月の立太子です。1427年11月生まれなので、生後数か月で後継者に決まったことになります。
9歳で正統帝になる
1435年、父の宣宗が亡くなりました。
朱祁鎮は数え年9歳で皇帝になります。翌年から「正統」の元号を使用しました。
まだ子供だったため、祖母の太皇太后張氏と、宣宗以前から朝廷に仕えていた重臣たちが政治を支えました。
楊士奇・楊栄・楊溥は「三楊」と呼ばれた重臣です。
太皇太后張氏は若い朱祁鎮に対して、張輔・楊士奇・楊栄・楊溥・胡濙ら先帝以来の重臣と相談して政務を行うよう求めていました。宦官の王振についても、政治への介入を警戒していたことが『明史紀事本末』に書かれています。
ところが太皇太后張氏は1442年に亡くなります。楊栄は1440年、楊士奇は1444年、楊溥も1446年に亡くなりました。
朱祁鎮の即位当初を支えた人々が次々にいなくなる中で、朱祁鎮の側近だった王振の発言力が強くなっていきます。
宦官 王振を信頼する
王振は朱祁鎮が皇太子だったころから側にいた宦官です。
朱祁鎮は王振を信頼し、即位後には司礼監を任せました。『明史紀事本末』には、朱祁鎮が王振を名前では呼ばず「先生」と呼ぶほど信頼していたという話もあります。
王振は人事や政務に深く関わるようになりました。
正統年間の後半には福建で鄧茂七の反乱、浙江方面でも葉宗留らの反乱が起きています。ただし各地の反乱には土地や税、地域社会の事情があります。王振一人を原因にするより、朱祁鎮の治世後半には国内の反乱と北方情勢への対応が同時に続いていた、とした方が経過を追いやすいでしょう。
その北方で勢力を広げていたのがオイラトでした。
土木堡の変でオイラトの捕虜になる
オイラトのエセンが勢力を広げる
15世紀のモンゴル高原では、いくつもの勢力が争っていました。
オイラトはモンゴル高原西部を基盤にしたモンゴル系諸部族の集団です。当時は東側のモンゴル勢力とは別の政治勢力として活動していました。
そのオイラトで大きな権力を持ったのがエセンです。
1449年、エセンは大軍を率いて明の北辺へ侵攻しました。
朱祁鎮はオイラト軍を迎え撃つため、自ら出陣することを決めます。
王振とともにオイラト討伐へ
1449年、数え23歳の朱祁鎮は親征を決めました。
王振が親征を強く勧め、朝廷では王直らが出兵に反対しました。それでも朱祁鎮は北京を出発します。
異母弟の郕王朱祁鈺が北京に残り、留守を預かりました。
明軍の兵力は古くから50万と書かれることがあります。実際の人数については見方が分かれていますが、多くの軍人だけでなく文官まで皇帝に同行した大規模な遠征だったことは確かです。
進軍を始めた明軍には、準備不足や補給の問題がありました。
前線で明軍の敗北が続くと、朱祁鎮たちは北京へ戻ることになります。
土木堡でオイラト軍に包囲される
撤退中の明軍は土木堡に入りました。
土木堡は現在の河北省張家口市懐来県付近です。
明軍は懐来城まであとわずかという場所にいましたが、土木堡周辺にとどまりました。その間にエセンのオイラト軍が追いつきます。水の確保にも苦しみ、明軍は厳しい状態に追い込まれました。
1449年8月、オイラト軍の攻撃を受けて明軍は壊滅します。
多数の兵士だけでなく、張輔・鄺埜・王佐・曹鼐など皇帝に同行していた高官も死亡しました。
王振もこの混乱の中で死亡します。後世の史書では、護衛の将軍・樊忠が王振を殴り殺したとされています。
そして皇帝の朱祁鎮がオイラト軍に捕まりました。
これが「土木の変」「土木堡の変」です。
皇帝が捕虜になり、弟の朱祁鈺が即位
朱祁鎮が捕虜になった知らせは北京にも届きました。
首都を南京へ移す案も出ましたが、兵部の于謙たちは北京を守る方針を主張します。
北京に残っていた郕王朱祁鈺は、まず監国として政務を行い、その後に皇帝へ即位しました。
朱祁鈺が景泰帝です。
捕虜になった朱祁鎮には「太上皇帝」の称号が与えられました。これで明には北京で政務を行う新しい皇帝がいることになります。
エセンは朱祁鎮を伴って明との交渉を進め、北京にも迫りました。
しかし于謙らが北京の防衛を行い、オイラト軍は北京を攻略できませんでした。
オイラトで捕虜生活を送る
朱祁鎮はそのままオイラト側で生活しました。
エセンにとって明の皇帝を捕らえたことは、明との交渉に使える材料でした。
ところが明では景泰帝がすでに即位しています。北京攻略も成功しませんでした。
捕虜になった朱祁鎮を持ち続けても、明の朝廷そのものを従わせることはできません。
その後、明とオイラトの間で交渉が行われ、1450年に朱祁鎮の帰国が決まりました。エセンとの交渉にあたった楊善が朱祁鎮を連れて明へ戻ります。
朱祁鎮は約1年ぶりに北京へ帰りました。
明に帰国して南宮で暮らす
1450年、朱祁鎮は北京に帰りました。
『明史紀事本末』では景泰元年8月、太上皇が北方から戻り、南宮に入ったと書かれています。さらに同年10月には南宮の警備を命じる記述もあります。
皇帝は景泰帝のままでした。
朱祁鎮は太上皇として南宮で生活し、外部との接触を厳しく制限されます。
景泰帝にとって、兄はかつての皇帝です。朱祁鎮を支持して皇帝へ戻そうとする人物が現れれば、自分の皇位に関わります。
そのため朱祁鎮は約7年間、南宮から出ることができませんでした。
この時期、皇后の銭氏も朱祁鎮とともに苦しい時期を過ごしました。
息子の朱見深が皇太子から外される
朱祁鎮には長男の朱見深がいました。
後の成化帝です。
土木の変が起きた1449年、孫皇太后の命令で幼い朱見深が皇太子になりました。
当初、景泰帝が皇帝になっても皇太子は朱見深のままでした。
ところが景泰3年(1452年)、景泰帝は朱見深を皇太子から外して沂王とし、自分の息子・朱見済を新しい皇太子にしました。
朱見済は景泰帝の息子です。
もともとの原稿では「景泰帝の息子・朱見深」となっていましたが、朱見深は朱祁鎮の長男になります。
ところが朱見済は翌1453年に亡くなりました。
景泰帝には後継者となる男子がいなくなります。それでも朱見深はすぐには皇太子へ戻されませんでした。
そして1457年、景泰帝自身が病気になります。
朱祁鎮が再び即位、天順帝となる
奪門の変で南宮から出る
1457年正月、景泰帝は病床にありました。
石亨・徐有貞・曹吉祥・張輗・張軏・楊善らは、南宮にいる朱祁鎮を皇帝へ戻す計画を立てます。
石亨たちは兵を率いて南宮へ向かい、朱祁鎮を迎え出しました。
朱祁鎮はそのまま宮中に入り、奉天門で百官を迎えます。
『明史・英宗後紀』には、夜明け前に石亨・徐有貞・曹吉祥たちが兵を率いて南宮から朱祁鎮を迎え、その日のうちに奉天殿で復位したことが書かれています。
この政変が「奪門の変」です。
朱祁鎮は景泰8年を天順元年に改めました。
こうして朱祁鎮は二度目の皇帝生活を始めます。
朱祁鎮が復位
朱祁鎮が復位したとき、景泰帝はまだ生きていました。
朱祁鎮の復位後、景泰帝は皇帝から郕王へ戻されます。
その後、景泰帝は1457年2月に亡くなりました。
そのため、
景泰帝が死亡
↓
朱祁鎮が皇帝に復位
という順番ではなく、
景泰帝が病気になる
↓
奪門の変
↓
朱祁鎮が復位
↓
景泰帝が郕王に戻される
↓
景泰帝が死亡
という順番になります。
復位直後に于謙を処刑
朱祁鎮が復位すると、景泰帝の政権にいた人々への処分が始まりました。
その中に于謙がいました。
于謙は土木の変のあと、北京防衛を進めた兵部尚書です。景泰帝のもとでも軍事を担当していました。
朱祁鎮は復位直後、于謙と大学士の王文を捕らえさせました。その後、二人は処刑され、家の財産も没収されます。
于謙には景泰帝の後継者を別に立てようとした疑いがかけられました。
奪門の変を起こした石亨や徐有貞たちは復位の功績によって昇進しており、景泰政権を支えた于謙と王文はその直後に命を失いました。
于謙は後の成化年間に名誉を回復しています。
奪門の変の功臣 石亨・曹吉祥
石亨と曹吉祥は、朱祁鎮を復位させた中心人物でした。
朱祁鎮は石亨を忠国公にし、曹吉祥の一族にも官位を与えます。奪門の変に参加した人々には大量の恩賞や昇進が行われました。
石亨と曹吉祥は朝廷で強い権力を持つようになり、二人を合わせて「曹石」と呼ぶこともあります。
ところが石亨は親族や自分に近い人物を多数昇進させ、朝廷の人事にも関与しました。
朱祁鎮は次第に石亨の権力を抑えるようになります。
天順3年(1459年)には石亨の甥・石彪が罪を問われ、石亨の立場も悪化しました。石亨はその後獄に入り、天順4年(1460年)に死亡します。
曹欽が北京で反乱を起こす
石亨が失脚すると、曹吉祥とその一族も処分を警戒するようになりました。
1461年、曹吉祥の甥で養子でもあった曹欽が兵を集めて反乱を起こします。
曹欽たちは北京城内で兵を挙げ、恭順侯呉瑾や都御史寇深らを殺害しました。
しかし反乱計画は事前に宮中へ伝わり、皇城の門が閉じられます。
曹欽の軍は朝廷側の軍と戦いましたが敗れました。曹欽は最後に井戸へ身を投げて死亡したとされます。曹吉祥も捕らえられ、処刑されました。
奪門の変で朱祁鎮を皇帝へ戻した石亨と曹吉祥は、復位から数年後にはどちらも政権から姿を消しました。
胡善祥の皇后号を回復
朱祁鎮の晩年には、父の宣宗によって皇后を廃された胡善祥についても出来事がありました。
胡善祥は宣宗の最初の皇后です。
宣宗は胡善祥を皇后から退かせ、朱祁鎮の母である孫氏を皇后にしました。
『明史・后妃伝』には、胡善祥には罪がなかったとして当時の人々が彼女を憐れみ、宣宗も後に廃后を悔やんだとあります。
孫太后が亡くなった後、銭皇后は朱祁鎮に胡善祥の待遇を改めるよう勧めました。
朱祁鎮は天順7年(1463年)、胡善祥に「恭譲誠順康穆静慈章皇后」の諡号を贈り、皇后としての名誉を回復しました。
皇帝の死後に妃を殉葬させる習慣をやめる
1464年、朱祁鎮は病気になりました。
明の初期には、皇帝が亡くなった際に一部の妃や宮女を殉死させる習慣がありました。
朱祁鎮は死を前にして、皇帝の死に妃嬪を殉葬させることをやめるよう遺命を出します。
『明史・英宗後紀』も、朱祁鎮が宮妃の殉葬を廃止したことを晩年の出来事として記しています。以後、明の皇帝の死に伴う後宮女性の殉葬は行われなくなりました。
朱祁鎮の最期
1464年2月23日、朱祁鎮は亡くなりました。
『明史』では38歳としています。当時の数え年による年齢で、現在の満年齢では36歳でした。
廟号は英宗。
皇帝の位は長男の朱見深が継ぎました。
俗説:朱祁鎮は孫氏の実子ではない?
朱祁鎮の母は孝恭章皇后孫氏です。
『明英宗実録』は孫氏を朱祁鎮の母とし、『明史・英宗本紀』も「母は貴妃孫氏」としています。朱祁鎮の出生と立太子を記した帝紀でも、孫氏の子として系譜が続いています。
ところが後世には、「孫氏には男子が生まれず、宮人が産んだ朱祁鎮を自分の子にした」という話が広まりました。
清代にまとめられた『明史』でも、英宗本紀では孫氏を母とする一方、后妃伝には宮人の子だったという別の話が収められています。
この俗説が受け入れられた背景には、胡善祥の廃后をめぐる後世の見方もあったのでしょう。
胡善祥は男子を産まなかったことなどを理由に皇后を退き、その後に孫氏が皇后になりました。しかも『明史』自身が、胡善祥は罪なく廃され、人々が彼女を憐れんだと書いています。宣宗も後に廃后を悔やんだとされました。
胡善祥への同情が強くなる一方で、後から皇后となった孫氏には「男子を得るために宮人の子を自分の子にした」という話が付け加えられていったと考える人もいます。
ただし朱祁鎮の出生を記す『明英宗実録』や『明史・英宗本紀』では孫氏が母です。人物の基本プロフィールでは孝恭章皇后孫氏を生母として見るのがよいでしょう。


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