宇文護とは?皇帝を廃し権力独占!北周建国の功労者・独裁者の波乱と真実

宇文護 6 南北朝
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中国の南北朝時代、西暦557年に成立した北周(ほくしゅう)。この王朝の実権を長年にわたって握り、「皇帝を意のままに操った独裁者」として歴史に名を刻む人物がいました。それが、宇文護(うぶん ご)です。

彼は時の皇帝を次々と廃し、権力の絶頂に君臨しましたが、同時に不安定だった北周の基礎を固め、国力を増強させた「建国の功労者」という側面も持ち合わせていました。

なぜ彼はそこまで強大な権力を持てたのか?そして、その波乱に満ちた生涯はどのように幕を閉じたのでしょうか?

この記事では、宇文護の生涯を追いながら、彼の人物像、権力闘争の過程、そして北周にもたらした功罪について詳しく解説します。

 

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  1. 1. 宇文護の出自と若き日々
    1. 鮮卑族・宇文一族の背景
    2. 父は北魏の武将 宇文顥
    3. 幼少期と父の死
    4. 叔父 宇文泰の軍へ:乱世を生きる
  2. 2. 西魏での台頭:武将としての功績
    1. 孝武帝の長安入りと初陣
    2. 東魏との対立と宇文泰の権力確立
    3. 水池県伯から中山公へ:昇進の道のり
    4. 江陵攻略での活躍:南朝梁を破る
  3. 3. 北周建国:宇文泰の遺命と権力掌握
    1. 宇文泰の病死と宇文護への託宣
    2. 宇文泰の死を隠して長安へ
    3. 西魏恭帝からの禅譲:北周の成立
    4. 初代天王・孝閔帝(宇文覚)の擁立
    5. 大塚宰として実権を掌握
  4. 4. 三代の皇帝を廃立:独裁の時代
    1. 孝閔帝との対立と廃立・殺害
    2. 二代・明帝(宇文毓)の擁立と毒殺
    3. 三代・武帝(宇文邕)の擁立と油断
  5. 5. 宇文護の功績と人物評価:独裁者か、功労者か?
    1. 北周の基礎固めと国力増強への貢献
    2. 北斉との力関係の逆転
    3. 専横と誅殺された負の側面
    4. 宇文護は歴史的にどう評価されているか
  6. 6. 宇文護の最期:武帝による暗殺
    1. 暗殺計画の背景と準備
    2. 572年:宇文護 最後の日
    3. 暗殺の詳細(叱奴太后利用の計略など)
    4. 宇文護派の粛清
  7. 7. ドラマの宇文護の描かれ方
    1. 『独孤伽羅~皇后の願い~』での描かれ方と俳優
    2. 『独孤皇后 ~乱世を駆ける愛~』での描かれ方
    3. 『蘭陵王』での描かれ方
    4. 『蘭陵王妃』での描かれ方
  8. 8. まとめ:宇文護が後世に与えた影響
  9. 参考情報
    1. 宇文護の家族構成
    2. 宇文護と主要人物の簡単な相関関係
    3. 宇文護の生涯年表(主要な出来事)
    4. 参考文献/情報源

1. 宇文護の出自と若き日々

鮮卑族・宇文一族の背景

彼の属する宇文一族は、古代中国の北方で活動した鮮卑(せんぴ)系の遊牧騎馬民族です。勇敢で武術に優れ北魏において重要な地位を占めていました。

父は北魏の武将 宇文顥

宇文護の父・宇文顥(うぶん こう)も北魏に仕える武人でした。幼い頃から賢く、父や叔父の宇文泰(うぶん たい)からも将来を期待されていました。

幼少期と父の死

宇文護は513年に北魏(ほくぎ)の武川(現在の内モンゴル自治区フフホト市周辺)で生まれました。

宇文護が12歳の時、中国北部を揺るがす大規模な反乱「六鎮の乱(りくちんのらん)」が発生します。

父の宇文顥はこの戦乱の中で命を落としました。父を亡くした宇文護は、叔父の宇文泰を頼り、その軍に入ることになります。

叔父 宇文泰の軍へ:乱世を生きる

叔父の宇文泰は宇文護の人生においても非常に重要な人物です。宇文泰は優れた軍事的・政治的才能を持ち、後の西魏や北周の実質的な創始者になる人物。

宇文泰は六鎮の乱を鎮圧する過程で頭角を現し、優れた指導力で武将たちのリーダーになっていきます。

宇文護は叔父の片腕として各地を転戦、武功を重ねていきました。彼は戦場で勇敢に戦うだけでなく、優れた頭脳で叔父を補佐しました。

 

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2. 西魏での台頭:武将としての功績

534年。北魏は有力者の高歓(こう かん)と宇文泰の対立によって東西に分裂します。高歓が擁立した東魏に対し、宇文泰は孝武帝(こうぶんてい)を迎えて長安を都とする西魏(せいぎ)を樹立しました。この西魏こそが、後に北周へと繋がる王朝です。

孝武帝の長安入りと初陣

孝武帝が洛陽から長安への逃れてきた時、宇文泰は皇帝を迎えるために軍を派遣しました。この中に宇文護もいました。彼は皇帝の護衛で手柄を立て、水池県伯(すいちけんぱく)に封じられました。これが宇文護の最初の具体的な功績として記録されています。

東魏との対立と宇文泰の権力確立

西魏と東魏はその後も激しく対立。宇文泰は軍事・政治両面での手腕を発揮し、西魏の最高権力者としての地位を確立していきました。皇帝は形式的な存在になり、政治の実権は宇文泰が握る状況が続きます。

水池県伯から中山公へ:昇進の道のり

宇文護は叔父のもとで多くの戦功を立て、順調に昇進していきました。

543年には戦いで重傷を負う危機もありましたが、部下に助けられ九死に一生を得ました。敗戦の責任をとって一時的に役職を解かれますが、すぐに復帰。

546年には中山公(ちゅうざんこう)に出世するなど、宇文泰配下で欠かせない存在になっていきました。

江陵攻略での活躍:南朝梁を破る

宇文護の大きな功績の一つに、549年の南朝梁(なんちょうりょう)の都・江陵(こうりょう)攻略があります。

宇文泰の命を受けた于謹(う きん)を総大将とする西魏軍に、宇文護は副官として従軍しました。

彼は迅速かつ的確な指揮を執り、水路を遮断するなど巧みな戦略で江陵攻めを成功に導きました。この戦いで梁の元帝(げんてい)を死に追い込み親西魏的な宣帝(せんてい)を即位させることに貢献。この功績により宇文護は司空(しくう)という高位の官職を与えられました。

 

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3. 北周建国:宇文泰の遺命と権力掌握

西魏を実質的に支配していた宇文泰も老いと死からは逃れられません。そして彼の死が宇文護に絶大な権力をもたらすことになります。

宇文泰の病死と宇文護への託宣

556年。巡察に出ていた宇文泰は病に倒れました。死期を悟った宇文泰は甥の宇文護を呼び寄せ、幼い息子たちと西魏の将来を彼に託しました。

この時、宇文泰の嫡子 宇文覚(うぶん かく)はまだ15歳。経験豊富な宇文護に後を託すのが最善だと判断したのでしょう。

宇文泰の死を隠して長安へ

宇文泰が死去すると宇文護はその死をしばらく秘密にしました。

これは権力が移り変わるときの混乱を避けるため、そして幼い宇文覚への政権移譲を問題なく行うためでした。長安に戻った後、盛大な葬儀を執り行い宇文泰の死を公表しました。

西魏恭帝からの禅譲:北周の成立

宇文泰という強力な指導者を失った西魏国内には不安が広がります。宇文護は宇文一族の長老である于謹らの協力を得て、武官や官僚、民衆をまとめ上げました。

そして557年1月、彼は西魏の恭帝(きょうてい)に迫り、宇文泰の息子 宇文覚への譲位を実現させます。

西魏の皇帝はすでに実権を持っていなかったので、この要求を断ることはできませんでした。これにより西魏は滅亡。新たな王朝・北周が建国されたのです。

初代天王・孝閔帝(宇文覚)の擁立

宇文覚北周初代君主となりました。宇文護は古代周王朝を理想とした宇文泰の意向を受け、「皇帝」の称号ではなく「天王(てんのう)」という称号を宇文覚に名乗らせました(後に「皇帝」に戻されます)。これが孝閔帝(こうびんてい)です。

大塚宰として実権を掌握

北周が成立すると、宇文護は「大司馬(だいしば)」という軍事のトップに就き、さらに「普国公(ふこくこう)」の爵位が与えられ。そして「大冢宰(だいちょうさい)」という最高宰相の地位に就きました。

これにより、軍事、政治の両面で絶大な権力を手中に収め、名実ともに北周の最高実力者となったのです。于謹や李弼(り ひつ)といった宇文泰時代の重臣たちが彼を補佐する形となりました。

 

大冢宰(だいちょうさい)
宰相の北周での呼び方

 

4. 三代の皇帝を廃立:独裁の時代

権力の座に就いた宇文護でしたが、その地位は盤石ではありませんでした。彼の独裁的なやり方に宇文泰時代の古い世代の重臣や彼が擁立したはずの皇帝自身から反発を受けることになります。

孝閔帝との対立と廃立・殺害

権力を宇文護に独占されることに反発したのは宇文泰と共に戦った柱国大将軍たちでした。

中でも趙貴(ちょう き)と独孤信(どっこ しん)は宇文護排除の動きを見せます。趙貴は宇文護の暗殺を計画、独孤信にも協力を求めましたが、独孤信は反対しました。

しかし、宇文盛(うぶん せい)の密告があったので宇文護はその計画を知り直ちに趙貴を処刑。計画を知りながら黙っていた独孤信も罷免して自害に追い込みました。

さらに宇文護に権力を握られるのを快く思わない孝閔帝自身も側近の李植(り しょく)らと共に宇文護の暗殺を企てます。

これも宇文護は事前に察知して阻止しました。宇文護は若い孝閔帝を容赦なく廃位して幽閉。後に殺害しました。

この暗殺計画に関わった李植やその父・李遠(り えん)らも処刑しました。宇文護は邪魔者を次々と排除し権力をさらに強化していきます。

 

二代・明帝(宇文毓)の擁立と毒殺

孝閔帝を殺害した後、宇文護宇文泰庶長子 宇文毓(うぶん いく)を次の皇帝として擁立しました。これが明帝(めいてい)です。明帝は25歳で即位し、賢明で政治能力のある人物でした。

当初、宇文護明帝に内政の権限を渡しますが、軍事の権限は手放しませんでした。

しかし次第に明帝の聡明さが宇文護にとって脅威となっていきます。自身の権力が揺らぐことを恐れた宇文護は即位からわずか3年後の560年、明帝の食事に毒を盛り暗殺しました。

自らが擁立した皇帝を邪魔になったという理由で手にかけたのです。

 

三代・武帝(宇文邕)の擁立と油断

明帝を殺害した宇文護は次に明帝の弟 武帝 宇文邕(うぶん よう)を皇帝として擁立します。武帝は即位した当初は宇文護の言うことをよく聞き、無能であるかのように振る舞いました。二代続けて意欲のある皇帝に権力を脅かされた宇文護武帝を見て「この皇帝なら操りやすいだろう」と油断してしまいます。

この宇文護の油断こそが彼の最期を招くことになります。武帝は密かに力を蓄え宇文護を倒す機会を狙っていました。

 

5. 宇文護の功績と人物評価:独裁者か、功労者か?

宇文護は皇帝を廃立・殺害、政敵を容赦なく粛清。その権力欲と専横ぶりから「独裁者」として批判されることが多い人物です。しかし彼の治世は北周にとって重要な発展期でした。

北周の基礎固めと国力増強への貢献

宇文護は叔父・宇文泰が進めていた諸制度の整備を引き継ぎ、北周の政治体制の基礎を固めました。

特に伝統的な周の官制を取り入れた「六官制(りくかんせい)」の施行など、統治機構の安定化に努めました。また胡族と漢族の融和政策を進めるなど、国内の安定にも尽力しました。これらの政策は後の北周の発展に大きく貢献します。

北斉との力関係の逆転

北周の建国当初、兵力や国力では東魏から禅譲を受けた北斉(ほくせい)の方が優位にありました。しかし、宇文護は有能な人材を登用し、内政を安定させ、軍事力を強化させて、徐々に北斉との差を縮めていきます。彼の在任中に北周は北斉と並ぶか超えるほどの力を持つことができました。この国力強化は、後に武帝が華北を統一するための重要な基盤となります。

専横と誅殺された負の側面

一方で三代の皇帝を殺害、逆らう者を排除した宇文護の専横は多くの人々の反感を買いました。特に宇文泰と共に王朝を築いた古参の武将たちを粛清したのは宇文一族内にも不満の種を残しました。彼の権力への執着は、最終的に自らの命を縮めることになります。

宇文護は歴史的にどう評価されているか

宇文護の評価は「功績」と「」の間で揺れ動きます。非情な手段で権力を維持しましたが、強力なリーダーシップで乱世の北周を安定・発展させ、国力を高め、華北統一の礎を築いた功労者でもあります。

歴史的には「有能ではあったが、権力欲に溺れた独裁者」として語られることが多い人物です。

 

6. 宇文護の最期:武帝による暗殺

宇文護の独裁は彼が軽視していた武帝によって終わりを告げられます。武帝は長い間、宇文護に従うふりをしながら、密かに彼の排除を計画していました。

暗殺計画の背景と準備

武帝は兄の明帝が宇文護に毒殺されたことを知っていて、内心では宇文護への復讐心と自ら親政を行いたいという強い意志を持っていました。

彼は宇文護に知られないよう愚かなふりを続けながら、信頼できる側近たちと共に極秘裏に暗殺計画を進めました。

572年:宇文護 最後の日

572年3月、宇文護は地方から都・長安に戻り武帝と謁見しました。武帝はこの機会に宇文護を排除する計画を実行に移しました。

暗殺の詳細(叱奴太后利用の計略など)

武帝はまず高齢ながら酒好きな皇太后(叱奴太后:しつどたいごう)を諫めるよう宇文護に依頼します。宇文護が皇太后の宮殿に行き、酒に関する書物『酒誥(しゅこう)』を読み聞かせている隙を狙うという巧妙な計画でした。

皇太后に『酒誥』を読み聞かせている宇文護は無防備になっていました。そこへ奥に隠れていた武帝が突然飛び出し、持っていた笏(しゃく:儀礼用の板)で宇文護の背中を強く突き倒しました。

予想してなかった攻撃に倒れ込んだ宇文護に、さらに武帝の同母弟 衛公 宇文直(うぶん ちょく)がとどめを刺しました。

宇文護派の粛清

こうして皇帝以上の権力を誇った宇文護は一瞬のうちに命を落としました。享年60。

武帝はすぐに宇文護の息子たちや、彼に近かった重臣たちを捕らえて粛清しました。こうして宮廷から宇文護派が一掃され、武帝による親政が開始されたのです。

 

7. ドラマの宇文護の描かれ方

ドラマに登場する宇文護は史実をベースにしつつも、物語を盛り上げるために脚色されていることが多いです。ここでは代表的な作品での宇文護の描かれ方を見てみましょう。

『独孤伽羅~皇后の願い~』での描かれ方と俳優

演:徐正溪(シュー・ジェンシー)

独孤伽羅~皇后の願い~』は、後の隋の初代皇后となる独孤伽羅(どっこ から)を中心に、北朝から隋にかけての動乱期を描いた大ヒットドラマです。この作品に登場する宇文護は特に注目を集めました。

ドラマ『独孤伽羅』では宇文護は単なる冷酷な権力者としてだけでなく、ある女性への一途な愛という人間的な側面も描かれ、視聴者に強い印象を残しました。

彼の悪役としての魅力や、時折見せる切ない表情などが話題となり「史上一番胸が痛くなる悪役」と評する視聴者もいました。

このドラマで宇文護を演じたのは、俳優のシュー・ジェンシー(徐正曦)さんです。彼はその耽美的なルックスと高い演技力で、複雑な内面を持つ宇文護を見事に演じきり、大きな人気を獲得しました。

彼によって演じられた宇文護はこの作品を語る上で欠かせないキャラクターの一人になっています。

独孤伽羅

独孤伽羅(出典:amazon)

 

『独孤皇后 ~乱世を駆ける愛~』での描かれ方

演:蔣愷(ジャン・カイ)

『独孤皇后』は『独孤伽羅』と同じく隋の文帝・楊堅とその皇后・独孤伽羅の生涯を描いた中国時代劇です。

このドラマの宇文護は『独孤伽羅』とは違って、より悪役らしい「敵側のボスキャラクター」として描かれています。

宇文護は私的に軍隊を養い、国の権力を奪い、民を苦しめる存在として強調されています。

物語の早い段階で彼の専横が国の安定を脅かす主要因として描かれ、最終的にはその悪行に対する報いとして武帝によって斬首刑を言い渡される形で退場します。

このドラマでは彼の権力欲や冷酷さがより前面に出されていてドラマの中の悪の象徴として印象的に描かれています。

この作品では様々な時代劇で重臣や君主を演じることが多いジャン・カイが演じています。

独孤皇后

独孤皇后(出典:amazon)

 

『蘭陵王』での描かれ方

演:鄭曉寧(ジョン・シャオニン)

2013年に放送された中国・台湾共同制作のドラマ『蘭陵王』は、北斉の美しき皇子・蘭陵王の生涯を描いた作品です。

このドラマにも北周の宰相として宇文護が登場します。北斉と対立する北周の最高権力者として、主人公たちの前に立ちはだかる敵として描かれます。

この作品ではベテラン俳優のジョン・シャオニンが宇文護を演じました。

 

『蘭陵王妃』での描かれ方

演:林韋辰(リン・ウェイチェン)

『蘭陵王妃』は『蘭陵王』と同じ時代を舞台にした別のドラマシリーズです。『蘭陵王』とはまた異なる視点や人間関係の中で、宇文護という人物が描かれています。この作品でも宇文護は北周の権力者として物語に関わってきます。

このドラマでは宇文邕が重要な役として登場、最終的にはその宇文邕に殺害されました。

 

8. まとめ:宇文護が後世に与えた影響

宇文護は皇帝を意のままに操った独裁者の一方、不安定な乱世の北周を支え発展させた功労者という二つの顔を持ちます。

叔父・宇文泰の遺志を継ぎ北周を建国、三代の皇帝廃立など非情な手段で権力を維持しましたが、その強力なリーダーシップで内政を安定させ国力を大きく高めました。

彼が築いた強固な基盤は後の武帝による北斉打倒と華北統一、さらには隋唐の繁栄へと繋がる礎となります。

その専横ぶりから悪役視されがちですが、良くも悪くも中国史に重要な、無視できない足跡を残した人物と言えるますね。

 

参考情報

宇文護の生涯や彼を取り巻く人々について、より理解を深めるための参考情報を以下に示します。

宇文護の家族構成

父: 宇文顥(うぶん こう) – 北魏の武人。
母: 閻姫(えんき)
叔父: 宇文泰(うぶん たい) – 北周の実質的な創始者。
妻: 河南元氏(かなん げんし) – 西魏の安昌王・元均(げん きん)の娘。

子供: 宇文訓(うぶん くん)、宇文会(うぶん かい)、宇文至(うぶん し)など、記録に残るだけでも10人以上の息子がいました。

宇文護と主要人物の簡単な相関関係

  • 宇文泰: 宇文護の叔父であり、師、そして権力継承を託した人物。
  • 孝閔帝(宇文覚): 宇文泰の嫡子。宇文護が擁立した北周初代天王。後に宇文護に廃され殺害される。
  • 明帝(宇文毓): 宇文泰の庶長子。宇文護が擁立した二代皇帝。後に宇文護に毒殺される。
  • 武帝(宇文邕): 宇文泰の子。宇文護が擁立した三代皇帝。後に宇文護を暗殺し親政を開始。
  • 独孤信(どっこ しん)、趙貴(ちょう き): 宇文泰時代の重臣。宇文護の専横に反発し、粛清された。
  • 于謹(う きん)、李弼(り ひつ): 宇文泰時代の重臣。宇文護の権力掌握に協力した。

宇文護の生涯年表(主要な出来事)

513年: 誕生
524年頃: 六鎮の乱で父・宇文顥が戦死
526年頃: 叔父・宇文泰の軍に入る
534年: 孝武帝の長安入りに関与、水池県伯となる(西魏の成立)
549年: 江陵攻略で活躍、司空となる
556年: 宇文泰が死去、その遺命により権力を託される
557年: 西魏恭帝から宇文覚への禅譲を実現、北周を建国。初代天王・孝閔帝を擁立、大塚宰として実権を握る。趙貴、独孤信らを粛清。孝閔帝を廃位・殺害。
557年末: 二代皇帝・明帝(宇文毓)を擁立
560年: 明帝を毒殺。三代皇帝・武帝(宇文邕)を擁立。
572年: 武帝によって暗殺される(享年60)

 

参考文献/情報源

宇文護についての歴史情報は主に以下の史書をもとにしました。

『周書』: 北周の正史。宇文護の伝が収められています。
『北史』: 北朝全体の歴史を記した史書。
『資治通鑑』: 編年体の歴史書。宇文護の時代の出来事が詳細に記されています。

 

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