王翦(おうせん)は春秋戦国時代の秦の武将。秦王政に仕え、趙・燕・楚への遠征を任されました。ところが王翦の若いころの経歴はほとんどわかりません。秦王政十一年に大きな作戦を任されたと思えば、その約十年後には老将として扱われています。
また『キングダム』では王翦は仮面で顔を隠し、勝てる戦いだけを選ぶ将軍として描かれています。自分の国を持とうとしているような言動もあり、秦王政へ本当に従っているのか気になる人物です。
この記事では史実の王翦の姿と『キングダム』との違いも紹介します。
王翦とは
プロフィール
・名前:王翦(おうせん)
・姓:王
・名:翦
・生年:不明
・没年:不明
・時代:中国・戦国時代末期
・出身:頻陽県東郷
・主君:秦王政
・身分:秦の将軍
・爵位:武成侯
・主な戦歴:趙・燕・楚の攻略、百越への遠征
家族
・父:不明
・母:不明
・子:王賁
・孫:王離
・曾孫:王元、王威
王翦は、秦王政に仕えた将軍です。『史記』と『キングダム』のどちらでも王翦と呼ばれており、別の通称や官名は伝わっていません。
王賁が子、王離が孫という関係は『史記』に記載されています。一方、王騎の参考人物とされる王齮との親族関係は確認できません。
王翦の出身と家柄
『史記』には王翦が頻陽県東郷の出身で若いころから軍事を好んだとあります。
ただ、この「少而好兵(若いころから兵法・軍事を好んだ)」という記述だけで彼がどのような家庭に生まれたのかどんな経歴の持ち主なのかはまではわかりません。
王翦が兵法書を読んだとか、裕福な家に生まれ教師から軍学を学んだという明確な記録は残っていないからです。
軍事に関心を持ち続けられる環境にいた可能性はあります。でも頻陽周辺の有力者の家に生まれたのか、軍に入ってから兵法を学んだのかは不明となっています。
父母の名前や一族の身分も伝わっていません。
『キングダム』では「王一族の本家当主」となっていますが、史実ではわからないのです。
王翦は秦王政11年まで何をしていたのか
『史記』は王翦が若いころから軍事を好み秦王政に仕えたと書いた後、すぐに秦王政11年の趙攻めへと話がとんでしまいます。
それ以前の初陣、所属部隊、官職、戦功については記述がありません。
秦王政11年の王翦は桓齮や楊端和とともに趙への遠征に参加して、その後も兵を率いて閼与や橑楊を攻めています。この段階はですでに大きな軍事行動を任されるほどの地位にいました。
それまで無名の王翦が秦王政11年に突然将軍になったとは考えにくいですよね。なので、それ以前から秦軍で経験を積み指揮官を経験していたとしか思えません。
どの戦いに参加したのかは不明ですが蒙驁、王齮、麃公など他の武将の配下にいたのかもしれませんが。記録はありません。
さらに秦王政11年から約10年後には王翦は老将と呼ばれています。ということは趙遠征の時点ではすでにベテラン武将だったということでしょう。
王翦の生涯
ここからは王翦の活躍を年代順に見ていきましょう。
秦王政11年 趙の城を攻める
紀元前236年(秦王政11年)。王翦は趙への遠征に参加しました。
このとき王翦は桓齮や楊端和らとともに趙の鄴周辺を攻めて9つの城を奪ったとされます。王翦自身は閼与や橑楊を攻略しました。
王翦が軍を率いて18日ほどたったころ兵の選抜を行いました。王翦は軍中から一定の条件に満たない下級の将校や兵を帰還させ、残った兵の中から十人に二人ほどを選びました。こうして選ばれた兵を中心に精鋭軍を編成して閼与や鄴、安陽などを攻めたといわれます。
李牧が守る趙へ侵攻
紀元前229年(秦王政18年)。王翦は大軍の指揮を任され羌瘣や楊端和とともに趙を攻めました。
王翦は上地から出兵し太行山脈の要地である井陘を通って趙へ入りました。楊端和は河内方面の軍を率いて趙の都・邯鄲を包囲しました。羌瘣も別の方向から趙を攻めています。
趙軍を率いていたのは李牧と司馬尚でした。李牧はそれまでにも秦軍を破ってきた趙の将軍です。王翦の軍は李牧の守りを崩せず、両軍は一年以上にわたって対峙したとされます。
そこで秦側は趙王の側近だった郭開に働きかけました。李牧と司馬尚が反乱を企て、秦と通じているという疑いを趙王に抱かせたのです。
趙王は李牧を処刑、司馬尚を罷免しました。趙軍の指揮は趙葱と顔聚に代わります。王翦が郭開へ賄賂を贈り反間の策を行ったともされます。
趙を滅ぼす
紀元前228年(秦王政19年)。王翦は趙軍を攻撃して破りました。
趙軍の将・趙葱が戦死、顔聚は逃亡したとされます。王翦と羌瘣は太行山脈の東側に広がる地域を平定して趙王を捕らえました。
趙の都・邯鄲も秦軍に占領されます。趙王は地図を差し出して降伏したともいわれ、趙の領地は秦の郡県に組み込まれました。
ただし、趙王家の公子嘉は北方へ逃れ、代の地で政権を保ちました。そのため趙系の勢力がすぐにすべて消えたわけではありません。
王翦は次の燕攻略に備え、中山に軍を置きました。
荊軻の事件後に燕を攻める
紀元前227年(秦王政20年)。燕の太子丹が送った荊軻による秦王政暗殺未遂事件が起こりました。
荊軻の計画は失敗します。秦王政は燕を攻めることを決め、王翦と辛勝に軍を率いさせました。燕は代の公子嘉と連合し秦軍を迎え撃ちました。燕・代連合軍は易水の西で秦軍に敗れます。
紀元前226年(秦王政21年)。王翦は子の王賁とともに燕の都・薊を攻めました。
王翦の軍は燕軍を破り薊を占領しました。燕王喜は遼東へ逃れたため、燕王家はしばらく存続しました。
太子丹の最期については秦軍が太子丹を追撃して首を得たという説と、燕王喜が秦との講和を求めて太子丹を殺したという説があります。
燕の最終的な滅亡はのちに王賁らが遼東を攻めたときのことです。
楚の攻略
李信の二十万と王翦の六十万
紀元前226年(秦王政21年)。秦王政は群臣を集め、楚を滅ぼすために必要な兵力を尋ねました。
若い将軍の李信は20万の兵があれば十分だと答えました。李信は燕の太子丹を追撃した経験があり、秦王政から勇敢な将軍として期待されていました。
王翦は60万の兵が必要だと答えました。
ところが秦王政は
「王将軍も年を取ったものだ。なんと臆病になったことか。李将軍は若く勇ましく、その意見こそ正しい」と言って王翦の案を採用せず、李信と蒙恬に20万の兵を与えて楚へ向かわせました。
秦王政は王翦が年を取って臆病になったと考えたようです。
自分の意見が採用されなかった王翦は、病気を理由に朝廷を辞めて頻陽へ帰りました。
ところが、李信と蒙恬の軍は楚軍に敗れます。
楚軍は当初、秦軍の前から退くように見せました。その後、秦軍の後方を襲い、二つの陣営を破って七人の都尉を討ち取ったとされます。
楚軍の指揮については項燕が中心だったとされます。楚軍を四十万とする説明もありますが、兵数については後世の伝承を含む可能性があります。
秦の統一戦争の中でも、この敗戦は大きな損害を出した戦いでした。
秦王政が王翦のもとを訪れる
李信の敗北を聞いた秦王政は頻陽へ向かい王翦に謝って再び楚への出陣を求めました。
王翦は老いて病んでいるため、ほかの将軍を選んでほしいといったん辞退しました。それでも秦王政が出陣を求めたため、王翦は60万の兵を条件に出します。
秦王政は王翦の条件を受け入れました。
秦の兵力の大部分が王翦一人に任されることになったのです。
王翦が何度も田宅を求めた理由
王翦が60万の兵を率いて出陣するとき、秦王政は覇上まで見送りました。その場で王翦は、良田や屋敷、庭園、池などを数多く与えてほしいと願い出ました。
秦王政は出陣を前にして暮らしの心配をする必要はないと答えます。でも王翦は、これまで秦王のために戦っても十分な領地を得ていないため信任されている間に子孫の財産を求めたいと話しました。
秦王政は王翦の言葉を聞いて笑ったといわれます。
王翦は函谷関に着いた後も、使者を送って五度にわたり田宅を求めました。部下は要求が度を越しているのではないかと心配します。
そこで王翦は自分の考えを明かしました。
秦王政は人を疑いやすく、今は秦のほとんどの兵を王翦一人に任せている。王翦が土地や屋敷ばかりを求めれば、軍を使って王位を狙う意思がなく子孫の財産だけを望んでいるように見える。その姿を見せることで、秦王政の疑いを避けようとしたのです。
60万の兵で楚へ向かう
紀元前224年(秦王政23年)。王翦は副将の蒙武とともに楚へ侵攻しました。
楚王は王翦が大軍を率いて来ると知り国内の兵を集めて秦軍を迎え撃ちました。
王翦は楚との国境に到着すると陣地を固めました。楚軍が何度挑発しても、王翦は戦おうとしません。王翦は兵を休ませ、入浴させ、十分な食事を与えました。自分も兵と同じ食事を取ったといわれます。
しばらくして王翦は人を使って兵たちが陣中で何をしているか調べさせました。
戻ってきた者は兵たちが石を遠くへ投げる競争をしていると報告しました。王翦は兵が元気を取り戻し、戦える状態になったと判断しました。
楚軍を追撃する
楚軍は何度戦いを挑んでも秦軍が応じないため、やがて東へ移動しました。王翦は楚軍が移動を始めたところで全軍を出し追撃しました。十分に休んでいた秦軍は楚軍を破り、蘄の南まで進みます。
この戦いで楚の大将・項燕が討たれたとされます。その後も秦軍は楚の城を次々に攻略しました。
紀元前223年(秦王政24年)。王翦の軍は楚王負芻を捕らえ、楚を滅ぼしました。秦は楚の領地を郡県に分けました。
楚の滅亡には二つの記述がある
楚が滅びた経過については『史記』の中でも食い違っています。
- 「白起王翦列伝」「楚世家」:王翦が楚軍を破って項燕を討ち、その翌年に楚王負芻を捕らえた流れになっています。
- 「秦始皇本紀」:紀元前224年に王翦が陳から平輿までを攻略し、この時点で負芻を捕らえたとされます。その後、項燕が昌平君を楚王として立て、淮南で秦に抵抗しました。
翌年、王翦と蒙武がこの勢力を破り昌平君は戦死、項燕は自害しました。
王翦が楚攻略の中心人物だったことは共通していますが、楚王負芻が捕らえられた時期や項燕の最期には違いがあります。
百越を平定する
楚を滅ぼした後、王翦はさらに南へ進みました。
紀元前222年(秦王政25五年)。王翦は江南の地を平定し、百越の諸王を降したとされます。秦はこの地域に会稽郡を置きました。
その翌年、王賁らが斉を滅ぼし、秦王政は天下を統一しました。
王翦本人だけでなく、子の王賁も統一戦争の各地で戦いました。『史記』では、秦が諸侯を滅ぼす過程で王氏と蒙氏の功績が大きかったとされています。
王翦は秦王政を裏切ろうとしたのか
『キングダム』では王翦は有能な者を集めて自分の国を作ろうとする野望が描かれます。でも史実の王翦が秦から独立して国を作ろうとしたという記録はありません。
60万の兵を預かったときに土地を何度も求めたのは、秦王政から「国家を奪うつもりではないか」と疑われないためでした。王翦は政治的な権力よりも目先の財産を望む人間のように見せかけたのです。
王翦は秦王政を無条件に信頼していたわけではありませんでした。王の性格を警戒して自分と家族の身を守る行動を徹底して選びました。
王翦はなぜ政治に口を出さなかったのか
王翦は趙・燕・楚を攻め落とし、一時は60万もの兵を動かした名将です。でも中国史では大きな軍功や名声を持つ臣下は君主から警戒されやすいです。
かつての名将・白起は、秦のために大きな戦果を挙げましたが、秦昭王との関係を悪化させて最後は自害を命じられています。
当然、王翦も白起の末路を知っていたでしょう。秦王政の性格を警戒していた王翦が政治に強く口を出せば、反乱や権力争いを疑われる危険がありました。土地を求めたのもも、そうした粛清の危険を避けるためのものでした。
王翦は政治に関心がなかったというより、政治へ踏み込んだ将軍が辿る恐ろしい結末を理解していたのかもしれません。
王翦への理解が足りなかった司馬遷
歴史家の司馬遷は『史記』の中で、王翦が秦王から師として頼られながら、政治を正すように進言せず、自分の立場を守ることに終始したことを批判しました。
でも、この評価には疑問が残ります。白起の最期や秦王政の性格、功績の大きな王翦の立場を考えると、王への進言には命の危険が伴いました。
儒学者の立場からは君主を諫める臣下が立派に見えるものです。ですが、無理に進言して処刑されれば、本人だけでなく家族まで巻き込まれてしまいます。
私は、司馬遷の批判には王翦が当時直面していた現実的な危険への配慮が欠けていたのではないか、と考えています。
王翦の最後と死因
王翦の没年、死因は分かっていません。
楚攻略の後、王翦が大きな戦いを指揮したという記述は歴史表舞台から姿を消します。軍を引退した可能性は高いものの、その後の生活を示す記録はありません。
病死したのか、長寿を全うして穏やかに亡くなったのか、確定できる史料は残されていないのが実情です。
でも王賁が残り、孫の王離も秦の末期になっても戦っていたということは王家は粛清は逃れたということでしょう。王翦は無事に余生を過ごせたのではないかと思われます。
王翦の家族
王翦の子である王賁(おうほん)は、魏・燕・代・斉への遠征を指揮し、秦の天下統一に大きく貢献しました。
孫の王離(おうり)も将軍となり、秦末の戦乱に参加しましたが、鉅鹿の戦いで項羽に敗れて捕らえられています。
後世に編纂された『新唐書』には、王翦の家系が名門・琅邪王氏へ続く系図が載っています。ただし、秦の時代から後世の王氏まで、同時代の史料で連続して確認できるわけではありません。
『キングダム』の王翦と史実の違い
漫画や映画での描かれ方と、史実の記録の違いを表にまとめました。
| 項目 | 『キングダム』の描写 | 史実の記録 |
| 容姿 | 仮面で顔を隠している | 仮面を着けていた記録はない |
| 野望 | 自らの国を作ろうとしている | 独立や建国の記録はなく、保身に努めた |
| 王騎との関係 | 王一族の同族として登場 | 親戚であったかどうかは不明 |
| 王賁との関係 | 複雑で険悪な親子関係 | 史実では親子の感情面に関する記述はない |
| 合従軍戦など | 独自の配置や知略で活躍 | 戦闘内容の多くは作品独自の演出 |
| 人物像 | 勝てる戦しかしない | 楚攻略での慎重な戦いぶりと重なる部分がある |
作品独自の設定を楽しみつつ、史実の記述と見比べてみるのも面白いですね。
王翦についてのFAQ
Q. 王翦は実在した人物ですか?
はい、実在した人物です。『史記』の白起王翦列伝などに記録が残っています。
Q. 王翦は若いころ何をしていたのですか?
『史記』には「若いころから軍事を好んだ」としか書かれておらず、具体的な行動や経歴は不明です。
Q. 王翦の家柄は高かったのですか?
家柄を示す記録はありません。出身地以外の詳しい身分はわかっていません。
Q. 王翦は軍功で将軍になったのですか?
秦には軍功爵制がありましたが、王翦が一般兵から上がったのか最初から有力者だったのかは不明です。
Q. 王翦は生涯無敗だったのですか?
史実で敗戦の記録は見られませんが、若き日の戦歴自体が残っていないため不明です。
Q. 王翦は李牧を倒したのですか?
直接の戦いで敗ったわけではありません。秦の買収工作で李牧が処刑された後に趙を攻略しました。
Q. 王翦は秦王政を裏切ったのですか?
裏切っていません。土地を欲しがったのは反乱の意図がないと見せるための保身術でした。
Q. 王翦の死因は何ですか?
記録が残っていないため、死因や没年は分かっていません。
Q. 王翦と王騎は親戚ですか?
王騎のモデルとされる王齮(おうき)との親族関係を示す史料はありません。
Q. 王翦は仮面を着けていたのですか?
史実の王翦が仮面を着けていたという記録はありません。
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