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李信 将軍の史実:功績と最期・子孫を紹介

李信は、始皇帝となる秦王政に仕え、太子丹の追撃や燕・斉の攻略で活躍した将軍です。

一方で、20万の兵を率いた楚遠征では大敗しており、その後の処遇や最期には多くの謎が残ります。

この記事では、『史記』の記述をもとに、李信の功績や敗戦後の再起、子孫にまつわる伝承まで紹介します。

 

この記事で分かること

  • 李信が秦の統一戦争で果たした役割
  • 楚遠征で大敗した経緯と考えられる原因
  • 敗戦後も燕・斉攻略に参加した記録
  • 李信の最期や李広との血縁に関する伝承

 

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李信とは?秦の統一戦争に参加した将軍

李信の基本プロフィール

まずは、李信がどのような人物だったのか、基本的な情報を紹介します。

  • 名前:李信(りしん)
  • 生没年:不明
  • 時代:戦国時代末期
  • 国:秦(しん)
  • 主君:秦王政(のちの始皇帝)
  • 主な戦い:趙・燕・楚・斉への遠征
  • 主な史料:『史記』など

家族構成

  • 父:不明
  • 母:不明
  • 妻:不明
  • 子:詳しい記録なし
  • 子孫:前漢の李広につながるという後世の系譜あり

 

李信は、秦王政が進めた中国の統一戦争において、前線で兵を率いた将軍です。趙や燕への遠征に始まり、蒙恬(もうてん)とともに楚へ出兵し、その後は王賁(おうほん)と燕や斉を攻めました。秦の統一戦争の最終段階まで軍務を続けていた人物だったようです。

 

李信の出身と一族

ところが李信の出身地や家柄、秦に仕えるまでの経緯などは、史料にはまったく書かれていません。父母の名前すら分かっていないのです。

後世に作られた李氏の系図では李信を古い一族の祖先として位置づけることがあります。でも秦の時代から何百年もあとの時代までの血縁を世代ごとに確認できるわけではありません。そのため系図の内容をそのまま史実とするのは、少し慎重になったほうがいいかもしれませんね。

 

『史記』に残る李信

歴史書『史記』には李信だけの生涯をまとめた列伝(個人の伝記)がありません。王翦(おうせん)や王賁の活躍、あるいは燕や楚への遠征が書かれた記事の中に、ぽつぽつと名前が出てくるだけなのです。

そのため彼の容姿や幼少期については推測するほかありません。『史記』のなかには秦王政が李信のことを「若く勇壮な将軍である」と評価していたという記述があります。それでも当時の正確な年齢までは不明のままです。

李信の戦場での功績は蒙毅(もうき)、蒙恬、王賁、内史騰に匹敵するかもしれませんが、彼らに比べると歴史の記録は少ないのです。

 

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李信は何をした人物なのか

李信が実際にどのような戦歴をたどったのか、経緯を順番に見ていきましょう。

1. 趙攻略に参加

秦王政19年ごろ、秦は隣国である趙への大規模な攻撃を始めました。

このとき名将として名高い王翦が趙の中心部へ進む一方で、李信は太原や雲中と呼ばれる方面から出兵したとされています。李信は別ルートから趙へ圧力を加え、王翦の主力部隊と連携をとりました。

その後、秦軍は趙の都 邯鄲(かんたん)を占領、趙王 遷(ちょうおうせん)を捕らえることに成功します。ただ、この戦いでは王翦が中心的な役割を担っています。李信は別動隊を率いていたようです。

また、李信が趙の有名な名将・李牧(りぼく)と直接戦ったのかどうかも史料からは確認できません。

 

燕の太子丹を追撃した

秦王政20年、歴史的な大事件が起こります。燕の太子丹(たいしたん)が送り込んだ刺客・荊軻(けいか)による秦王政の暗殺未遂事件です。

怒った秦王政は翌年に燕への攻撃を命じました。王翦が率いる本隊とともに李信も燕へと進軍しました。秦軍は易水付近で燕と代の連合軍を破り、燕の都 薊(けい)を占領しました。

燕王 喜(えんおうき)と太子丹はさらに東の遼東方面へ逃れますが、ここから李信が大活躍します。李信は少数の兵を率いて太子丹を激しく追撃して追い詰めました。

追い詰められた燕王喜は代王嘉の助言を受けて自らの息子である太子丹を殺害し、その首を秦へ差し出すことになります。李信はこの追撃戦で目覚ましい成果を挙げ、秦王政から大いに信頼されるようになったようです。

 

楚へ20万の兵で遠征

燕を破った秦王政は次に大国・楚の攻略を計画します。そこで秦王政は、李信と王翦の二人に「楚を攻め落とすには、どれくらいの兵が必要か」と尋ねました。

若き李信は「20万人で足ります」と答えます。

一方、ベテランの王翦は「60万人は必要です」と言いました。

秦王政は李信の案を採用して遠征を任せます。王翦は自分の意見が容れられなかったため、病気と称して故郷へ帰ってしまいました。

『史記』には秦王政が王翦を老いて臆病になったと述べ、李信を若く勇猛だと評価した様子が書かれています。李信は、それまでの働きと積極的な姿勢を秦王政から認められていたのでしょう。

序盤の勝利と突然の反転

紀元前225年、李信と蒙恬は楚へ攻め込みました。李信は平輿を攻め、蒙恬は寝を攻め、それぞれ楚軍を破ります。李信はさらに鄢郢方面へと順調に進軍していました。

ところが、その後に李信は突然、軍を西へと移動させます。この移動の詳しい理由は、『史記』の記述だけでは明らかになっていません。

敗戦の背景:昌平君の反乱

この進路変更の背景には、後方の郢陳周辺で起きた昌平君の反乱が影響したという説があります。
昌平君は楚の王家につながる人物で、もともとは秦に仕えていました。しかし、この重要な時期に楚側に立って秦へ反旗を翻したとされています。

李信の敗北は、主にこの昌平君の反乱によるもので、秦軍は四方から包囲されて混乱に陥ったと考えられています。ただし、この挟み撃ちの経緯が『史記』の本文にそのまま書かれているわけではなく、当時の状況を組み合わせた現代の推測の一つです。

項燕の追撃による壊滅

楚の将軍であり、項羽の祖父である項燕(こうえん)は、この混乱を見逃さずに秦軍を激しく追いました。
『史記』によると、項燕は李信の軍を三日三晩にわたって追撃したとされます。楚軍は秦軍の二つの陣営を破り、軍を率いる官職である都尉を七人も討ち取りました。

李信の軍は多くの兵を失い、大敗を喫して秦へと撤退せざるを得なくなりました。

李信は事前に「20万人で足りる」と言って指揮権を得ていたため、作戦の失敗と兵力を甘く見積もったことに対する責任はあったでしょう。一方で、楚の領土の広さ、長くなった補給路、項燕の追撃、後方の混乱も戦況に影響したと考えられます。李信個人の性格だけで敗戦のすべてを説明することはできません。

確かに李信はこの一度の敗戦によって秦に甚大な損害を与えました。歴史記録において他の名将に比べて彼の扱いが低くなっているのは、この大敗の印象が強すぎるためかもしれません。しかし、だからといって、秦が六国を征服する過程で彼が挙げた多くの功績まで否定することはできないでしょう。

 

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その後の再起と、統一への貢献

李信の失敗を知った秦王政は自らの判断を誤りだったと認め、王翦が暮らしていた頻陽を訪れて謝罪しました。そして、王翦に60万人の兵を与えて再び楚へ送り出します。王翦は慎重に戦を進め、見事に楚軍を破って楚を平定しました。

一方で、大敗した李信はどうなったのでしょうか?

大敗後も燕と斉を攻めた

その後、李信は再び軍を率いて、今度は王賁とともに燕の残存勢力を攻めに行きます。そして、遼東へ逃れていた燕王喜を捕らえ、燕を完全に滅亡させました。

さらに、その勢いのまま王賁や蒙恬らと斉(せい)への遠征にも参加したとされています。秦軍は燕の旧領から斉へと侵入し、都の臨淄(りんし)に迫りました。抵抗できないと悟った斉王建(せいおうけん)が降伏したことで、ついに秦は中国統一を完成させることになります。

李信は楚での手痛い失敗がありましたが、統一戦争の最後の段階まで活動を続けていたのです。

秦では軍功と失敗が厳格に問われましたが、李信が敗戦後に処刑されたという記録はありません。秦の王政は敗戦の理由が昌平君の反乱による混乱にあったことを理解していたため、李信を厳しく罰しなかったのではないでしょうか?

実際、李信はその後も再び将軍として起用されました。秦王政が李信をどのように処分したのか、詳しい内容は分かりませんが、彼を依然として使える将軍だと考えていた可能性があります。

 

李信の最後と死因

気になる李信の最期ですが、具体的なことはほとんど分かっていません。

楚で戦死していない

まず言えることは、李信は楚での大敗では死んでいないということです。

先ほどもご紹介した通り、李信は楚から無事に生還し、その後に燕を滅ぼし、斉を滅ぼす戦いにも参加しています。敗戦の責任を取らされて処刑されたという記録もありません。

死因と没年は不明

では、いつ亡くなったのでしょうか。残念ながら、彼がいつどのようにして亡くなったのかを示す史料は残されていません。

斉が滅亡して統一が完成したあと、李信の名前は歴史の表舞台から消えてしまいます。天寿を全うして畳の上で亡くなったのか、あるいはどこかの戦いで戦死したのか、それとも病死だったのか……。これらは歴史の闇に包まれたままです。

 

李信の妻や結婚相手

『史記』などの古代の歴史書は、主に政治や軍事の大きな出来事を記録するものなので、将軍の家庭事情や妻の名前、実家のことなどは省略されてしまうのが普通でした。そのため、李信がどんな女性と結婚していたのかは、現代の私たちには知る術がないのです。

 

李信の子孫と家系

李信自身の家族の記録は乏しいのですが、のちの時代には彼の「子孫」とされる人々がいます。

李広(りこう)の祖先とする伝承

李信の名前が歴史上で再び注目されるきっかけになるのが、前漢の時代に活躍した「飛将軍」こと名将・李広です。

『史記』の李広列伝には李広の家系について「その先祖は秦の将軍・李信である」という記述があります。ただ、李信から李広までの約百年の間、どのような世代交代が行われたのかという細かい血縁関係は、当時の史料からは確認できません。

そのため、これも一族に伝わる「系譜の伝承」といえるかもしれません。

 

李白や唐の王室との関係

さらに時代が下ると、詩人・李白や唐の皇帝(李淵や李世民など)も、自分たちの先祖をたどると李広や秦の李信につながると主張するようになります。

ただ、これも皇帝一族や名門の権威を飾るための「家系図のロマン」といった側面が強く、本当に子孫なのかどうかを証明することはできません。

李白や唐の皇室は漢民族でない可能性もあるので、有名な人物につなげて家系を盛っているのかもしれません。

それでも後世の人々がこぞって「我が先祖はあの李信である」と名乗りたがったところに、李信という将軍の存在感の大きさを感じますね。

 

 

春秋戦国
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

詳しい経歴や執筆方針は プロフィールをご覧ください。

運営者SNS: X(旧Twitter)

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