乾隆帝の第四皇子・永珹(履端親王)の史実とドラマ『如懿伝』での描かれ方を比較解説。史実では「履親王家の後継者」として一定の地位を保ちましたが、ドラマでは皇位を狙う野心家として描かれ、その運命は大きく異なります。
この記事では『如懿伝』などで知られる永珹について、彼の史実に基づく生涯や、ドラマと史実との間の決定的な違いを詳しく解説します。
この記事でわかること
- 乾隆帝の第四皇子・永珹(履端親王)の生涯。
- 永珹が「履親王家」を継承したことの歴史的な意味と背景。
- 史実の永珹が皇位継承候補としては有力ではなかったという宮廷内の立ち位置。
- ドラマ『如懿伝』における永珹の野心的なキャラクター設定と、史実の人物との違い。
永珹(履端親王)とは?
清朝第6代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい)の第四皇子 永珹(えいせい)は、満洲名を愛新覚羅 永珹(アイシンギョロ・ヨンチョン)といいます。彼は「履親王家」を継承した人物です。
「四阿哥」としての永珹
当時の清朝宮廷では皇子の序列を「阿哥(アグ)」という尊称で区別しており、永珹は第四皇子なので「四阿哥」と呼ばれていました。この「阿哥」は、兄弟を意味する満洲語に由来し、皇族の子息に対する敬称としても使われていました。
母は淑嘉皇貴妃・金佳氏
永珹の母は淑嘉皇貴妃・金氏(しゅくかこうきひ・ギンし)です。彼女は乾隆帝から深い寵愛を受け、在世中に「嘉妃(かひ)」から「嘉貴妃(かきひ)」へと昇格するなど宮廷内で高い地位を築いた女性でした。
しかし、母の地位の高さと永珹自身の評価は必ずしも一致していませんでした。皇太子候補としてはむしろ第五皇子の永琪(えいき)が有力視されています。永珹は「親王家を継ぐ存在」として歴史に名を残すことになります。
第四皇子・永珹 の史実
どんな人?
- 姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
- 名:永珹(えいせい)
- 称号:履端親王
- 旗籍:正藍旗生年月日:1739年2月21日
- 没年月日:1777年4月5日
- 享年:38
永珹が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
家族
- 父:乾隆帝(けんりゅうてい)
- 母:淑嘉皇貴妃 金佳氏同母兄弟:
- 同母兄弟:
- 第8皇子・永璇(えいせん)
- 皇9皇子(早世)
- 第11皇子・永瑆
- 正室:嫡福普・鈕祜祿氏 福增額の娘。
- 側室:側福普・完顔氏
- 侍女:高氏
- 妾:夏氏、張氏子供
- 子供:
- 履郡王・錦恵、母:側福普・完顔氏
- 他に男子4人、女子3人
おいたち
1739年(乾隆4年)1月14日に生まれました。
父:乾隆帝
父は清朝の第6代皇帝 乾隆帝(けんりゅうてい)

乾隆帝(青年期)肖像画
母:嘉嬪 金氏
母は側室の嘉嬪(かひん)金氏。
ドラマでは悪役になることが多い金氏ですが、記録では特に何かをしたという情報はありません。
永珹は乾隆帝の第四皇子。金氏にとっては初の男子でした。
1741年(乾隆6年)2月。皇太后の命令で金氏は嘉妃に昇格。
その年。祖父(金氏の父)金三保は金氏が嘉妃になったのを感謝して書状を朝廷に提出しています。
1746年(乾隆11年)。同母弟の永璇(えいせん)が誕生。
母の祖先は朝鮮出身
母の金氏は祖先が朝鮮人。ホンタイジが朝鮮に遠征したときに捕虜になった人の子孫です。
金氏は代々、満洲旗人(貴族)に仕える包衣(ボーイ)となりました。包衣は旗人の下僕。ドラマでは奴婢と表現される事もありますが、漢人社会の奴婢とは違います。包衣は社会的な地位は庶民よりは高いものの、旗人に従属しているので自由はありません。
でも旗人からみれば身分の低い人達なので見下されることもあります。
母の金氏は嘉妃にまでなりましたが。皇帝の下僕には違いなく、旗人出身の妃たちと比べると血統的な格は劣ります。
後継者にはなれず
歴史上の永璇はとくに問題のある皇子ではなかったようです。でも母の血筋の格式が低いので有力な後継者候補にはなりませんでした。
モンゴル旗人の母をもつ第五皇子 永琪が有能だったのでなおさらです。
さらに16歳のとき。1755年(乾隆20年)母の嘉貴妃 金氏が死去。
永珹は後ろ盾を失いました。
履親王を引き継ぐ
1763年(乾隆28年)9月。和碩履懿親王・允祹(康煕帝の12男)が77歳で他界。親王の世子(跡継ぎ)弘昆は既に他界していました。
そこで乾隆帝は永珹に 和碩履親王 家を引き継がせることにしました。
つまり皇帝の後継者候補からは外れたのです。
「和碩履親王」とは清朝の世襲制の爵位です。允祹が初代の和碩履懿親王。でも世代がかわると1ランク下がります。生前の永珹の爵位は「履郡王」です。
履親王 永珹の最後
1777年(乾隆42年)死去。享年39。
ドラマでは問題を起こす皇子として描かれますが。実際には平凡な皇子でした。
乾隆帝は同母弟で第8皇子の永璇を派遣。母、嘉妃金氏の兄・金簡とともに葬儀を行わせました。死後、履親王の称号が贈られました。
和碩履親王の地位は長男の綿恵が引き継ぎました。
永珹はそれほど長く生きたとは言えませんが。弟の永璇は86歳まで生きました。乾隆帝の息子の中では最も長寿でした。
ドラマの四阿哥 永珹
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜
2018、中国
演:方洋飛
嘉嬪 金氏の子供。
母・嘉嬪は瓔珞を陥れようとしましたが失敗。永珹は母から引き離され、嫻妃の養子になりました。
母から引き離される
嘉嬪は永珹取り戻そうと嫻妃を陥れようとしましたがこれも失敗。嘉嬪は答応に広降格後、嫻妃の手によって死亡。永珹は嫻妃の子として育てられます。
乱暴な性格、養母とは関係悪化。
成長後は性格が粗暴になり、五阿哥 永琪をライバル視して問題を起こし。袁春望にそそのかされ、継皇后との関係も悪化。最終的には宗人府に幽閉されます。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~
2018、中国
演:成年・安杰、胡先煦(少年)、荣梓杉(幼年)
物語中盤で誕生。第4皇子ですが弘暦が皇帝に即位して最初に生まれた皇子です。
最初は乾隆帝からは高く評価されていました。
乾隆帝から気に入られる
母親の金氏は野心を持っており、第四皇子を後継者にしようとしています。一時は永珹も有力な皇子として乾隆帝から気に入られていました。
乾隆帝の信頼を失う
第五皇子の永琪に危機感をもち、皇帝の関心をひこうとしました。でも馬を馴らしていたのを乾隆帝に見破られてしまい信頼を失ってしまいます。
和碩履懿親王の後継者となる
やがて「成人した」という理由で乾隆帝から宮殿から出ていくように言われます。
史実と同じように、和碩履懿親王のあとを継ぎました。親王家を継ぐことは、皇帝の後継者ではなくなった。ということです。
物語終盤で福增額の娘と結婚。結婚式には皇族も出席しますがすでに有力な皇帝候補とは思われなくなっていました。ドラマには同母弟の 永璇 と 永瑆 も登場。
瓔珞ではほとんど目立たなかった金氏の息子たちですが、如懿伝ではわりと出番が多いです。
まとめ
履郡王・永珹は、乾隆帝の第四皇子で母親は嘉貴妃金氏です。
当初は乾隆帝から期待され、和碩履懿親王を継ぎましたが、次第に寵愛を失っていきます。
ドラマ『瓔珞』では母親の陰謀に巻き込まれ性格も荒れていきます。
『如懿伝』では乾隆帝から一時的に期待されながらも、次第に他の皇子との差が開き、最終的には親王としての一生を送ります。
両ドラマとも永珹は母や周囲の思惑に影響されて人生を誤ったり苦悩することになります。
よくある質問(FAQ)
Q1:永珹は皇位継承の有力候補だったの?
A1:史実では永珹は皇位継承候補としては有力ではなく、主に「履親王家」を継ぐ役割でした。皇帝の信頼は第五皇子・永琪に偏っていました。
Q2:『如懿伝』で永珹はなぜ野心家として描かれるの?
A2:ドラマでは物語を盛り上げるため、史実よりも野心的な人物として描かれています。母・金佳氏の野心と結びつき、皇位を狙う駆け引きが強調されています。
Q3:永珹の母・淑嘉皇貴妃 金佳氏はどんな人物?
A3:史実では乾隆帝から寵愛を受け、高位の妃として宮廷で重要な役割を果たしました。ドラマでは策略家として描かれることが多いですが、史実では穏やかに宮廷内での地位を保っていた人物です。
Q4:永珹の子供たちはどうなったの?
A4:長男の綿恵(錦恵)が父の跡を継ぎ、親王家を継承しました。他にも男子4人、女子3人がおり、履親王家の格式を守る形となりました。


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