PR

永琪(えいき):乾隆帝の十二皇子の史実

愛新覚羅 永琪 1.3 清の皇子・男の皇族

愛新覚羅 永琪は乾隆帝の十二皇子。永琪の爵位は貝勒(ベイレ)。

永琪の読み方は「えいき」といいます。

母は継皇后 輝発那拉(ホイファナラ)氏。那拉(ナラ)氏、烏拉那拉(ウラナラ)氏と呼ばれることもあります。

永琪は皇后の息子として将来を期待されていたはずですが。

母・輝發那拉(ホイファナラ)氏が乾隆帝を怒らせ。事実上の廃位になってしまったので人生が変わってしまいました。

残りの半生は皇族として政治にかかわることはなく。主に文化的な活動を行っていました。

 

スポンサーリンク

愛新覚羅 永琪 の史実

どんな人?

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:永琪(えいき)
爵位:多羅貝勒(ドロイベイレ)
生年:1752年6月7日
没年:1776年3月17日
享年:享年25

家族

父:乾隆帝(けんりゅうてい)
母:継皇后 輝發那拉(ホイファナラ)氏
正室:嫡福晋 博爾濟吉特(ボルジギト)氏
子供
なし

永璂が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

乾隆17年4月25日(1752年6月7日)に生まれました。

父は乾隆帝。
母は皇后 輝発那拉氏。

乾隆帝の十二皇子。
輝発那拉氏にとっては長男です。

後継者を予感させる名前?

十二皇子は永璂(えいき)と名付けられました。

「璂」とは王冠にはめ込まれたヒスイの装飾品のこと。

清朝の規則では、12個の「璂」で飾られるのは皇帝の冠だけでした。

12番めの皇子と、皇帝の冠にはめられた12個のヒスイを重ね合わせているのです。

皇后の産んだ皇子ですから「将来は皇帝になってほしい」という想いが込められていたのかもしれません。

輝発那拉氏は乾隆15年(1750年)に皇后になったばかり。その直後に生まれた皇子です。 輝発那拉氏や皇太后はもちろん、乾隆帝も将来を期待していたのでしょう。

乾隆18年(1753年)には妹の 皇五女・固倫和宜公主 が誕生。

乾隆20年(1755年)には弟の十三子永璟が誕生します。

ところが妹も弟も幼くして死亡。

母の 輝発那拉氏にとってはつらい日々が続きます。

母・皇后 輝発那拉氏が突然の幽閉

乾隆30年正月(1765年)。乾隆帝の南巡に同行していた母・皇后 輝発那拉氏が突然髪を切りました。乾隆帝は激怒しました。輝発那拉氏は都に戻され、皇后の地位を剥奪されました。実際には皇后の地位は奪いませんでしたが、侍女の数など待遇は格下げになりました。

乾隆31年(1766年)。輝発那拉氏は翊坤宮の後殿に幽閉されました。

7月。輝発那拉氏が死去。享年49。

このとき永璂は15歳。直接永璂が処罰されることはありませんでした。

母が皇后の地位を保っていれば後継者の候補になったかもしれません。でも永璂はは皇位後継者からははずされ、生涯爵位を与えられませんでした。皇帝の「嫡子」としての特権が与えられなくなったのです。

乾隆帝は「皇貴妃」の格式で輝発那拉氏の葬儀を行いました。

乾隆35年(1770年)。永璂(えいき)は結婚。相手はモンゴルの名門・博爾濟吉特氏の娘です。

文化的な活動で名前を残す

乾隆36年(1771年)。20歳のとき辞典「御製満蒙文鑑総綱」の編纂を任されました。満洲語とモンゴル語の辞書です。永璂は辞書を作るという地道な作業に時間を費やしました。

乾隆40年(1775年)。「御製満蒙文鑑総綱」が完成しました。乾隆帝に見せると「完成した本はとても良いのだが、修正点がいくつかある。修正して再提出しなさい」と指示されました。

その後「おまえはこの本を作るのに大変苦労したようだな」と言葉をかけられました。

永璂(えいき)は「言葉を聞いてとても嬉しかった」と回顧しています。

ところが辞典の完成からまもなく、体調を崩します。

乾隆41年(1776年)正月。病気で死亡しました。享年25(数え歳)。

永璂には子供がいなかった永瑆の四男を養子にして祭祀を行わせました。儒教社会では子孫が祭祀(仏教でいう法事)を行わないといけない決まりになっていました。実の子がいないときは血縁者が祭祀を行うのです。

 

スポンサーリンク

母の影響で狂った後半生

 

永璂は表面上は宗室(皇帝家)の格式で行われましたが、実際にはランクを下げられていました。

死後まで母が地位を奪われた影響を受けているのです。

生前は爵位を与えられていませんでした。死後、嘉慶4年(1799年)になって「多羅貝勒」の爵位を与えられました。

永璂が直接、乾隆帝からひどい仕打ちをうけている記録はありません。でも待遇では確実に他の皇子と差をつけられています。

永璂は生涯、母のことは語りませんでした。そのかわり仲のよかった兄弟を懐かしむ詩を作っています。

永璂は政治には関わることはなく、文化的な活動をしました。

永璂は「御製満蒙文鑑総綱」「日課詩稿」の編集者として知られています。「日課詩稿」これは詩集のために作ったのではなく日頃から永璂が詠んでいた詩を集めて編集したものです。

乾隆帝時代の高名な学者・錢大昕は晩年の永璂の家庭教師をしていたことがありました。錢大昕は永璂について「偉大な素質と人格をもった人物」と評価しています。

文化人としては有能な人物だったのでしょう。

スポンサーリンク

愛新覚羅 永琪のまとめ

永璂は乾隆帝の十二皇子で皇后・輝発那拉氏の長男として生まれ、将来の皇帝候補と目されていました。

しかし母の失脚により皇位継承の機会を失い爵位も与えられませんでした。

文化人として才能を発揮し、辞書編纂などにも携わりました。でも若くして亡くなります。

母の死は永璂の人生に大きな影を落とし、生涯そのことを語ることはありませんでした。

 

ドラマの永琪

瓔珞 2018年、中国 生母は輝発那拉氏 演:孫傲
如懿伝 2018年、中国 生母は烏拉那拉氏 演:徐凌晨

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました