関隴貴族とは、いったいどのような人々を指すのでしょうか。北魏の武川鎮につながる軍人たちを出発点に、西魏の八柱国や婚姻関係を通じて北周・隋・唐の皇室へとつながった有力者たちの成り立ちと、唐でその影響力が弱まっていくまでを見ていきます。
この記事で分かること
- 関隴貴族・関隴集団という言葉が指す人々とその成り立ち
- 武川鎮や八柱国が西魏・北周・隋・唐へどうつながったのか
- 独孤信らの婚姻関係が各王朝に与えた影響
- 高宗・武則天・玄宗の時代に関隴貴族が衰退していった理由
関隴貴族とは?
「関(かん)」は関中、「隴(ろう)」は隴右という地域のこと。
関中は現在の陝西省西安の周辺、隴右は甘粛省の東部から陝西省の西部にかけての地域にあたります。
北魏の末期。この地域には北方からやってきた軍人や鮮卑系の有力者、そして関中にいた漢人の豪族たちが集まっていました。
西魏の実力者だった宇文泰は、こうした人々を軍事や政治の中心へと取り込んでいきました。
ここから、後に北周を建国する宇文氏、隋の楊氏、そして唐の李氏へとつながっていく家々が登場してきます。
関隴貴族という言葉は昔からあった単語ではなく、歴史家の陳寅恪が考えた歴史用語ですが。こうした西魏や北周の時代から続く軍事貴族とその周辺に集まった有力者たちのグループをわかりやすく説明するために使われています。
なので
出発点になった北魏の武川鎮
この関隴集団のもとをどっていくと北魏の「六鎮」という場所にたどり着きます。北魏は北方の柔然などの侵入に備えるため、現在の内モンゴルにあたるエリアに軍事拠点を置きました。その拠点の一つが「武川鎮」でした。
武川鎮からは、宇文泰をはじめ、独孤信や李虎といった人物が現れました。彼らは後に西魏や北周で重要な地位についていくことになります。
北魏の末期に「六鎮の乱」という反乱が起きると、北方にいた軍人たちは各地へと移動を始めました。賀抜岳や宇文泰たちは関中へと進出していき、やがて西魏政権の中心になっていったようです。
武川鎮軍閥と関隴集団の違い
武川鎮軍閥は、武川鎮をはじめとする北魏の北側の軍事社会につながる軍人たちのグループのことです。
宇文泰が関中で政権を立ち上げると、そこへ地元の関中豪族や官僚、さらには別の地域から流れてきた軍人たちも混ざり合っていきました。
そのため武川鎮軍閥は関隴集団を作り出すもとになった中心的な人脈の一つといえます。

関隴貴族
宇文泰と西魏の関隴集団
武川鎮軍閥が国の中心になる
534年、北魏は東魏と西魏という2つの国に分裂してしまいました。
東魏では高歓が、西魏では宇文泰がそれぞれ実権を握ります。
西魏は関中を中心とする政権で、東側には高歓が率いる東魏が存在していました。高歓は武川鎮とは別の軍閥を率いています。
宇文泰は限られた兵力と人材をやりくりしながら、関中で独自の軍事政権を作り上げていきました。その中心になったのが北方出身の軍人たちと関中の有力者たちでした。
この西魏の支配層が「関隴集団」というわけです。かつては国の国境を守る軍団のひとつだったものが、ついに国の支配層となったわけです。
関隴集団には鮮卑系の家も漢人系の家も参加していました。彼らは北魏以来の北方文化を受け継ぎながら、漢人の官僚制度や儒教文化も柔軟に取り入れていった人々だったのですね。
八柱国と十二大将軍
西魏の有力な武将として知られているのが「八柱国」です。具体的には宇文泰、元欣、李虎、李弼、趙貴、于謹、独孤信、侯莫陳崇の8人が挙げられます。そして、その下には「十二大将軍」がいました。
実はこのメンバーの中に、のちの王朝と深く関わっていく家が含まれています。
宇文泰は北周の皇室の父となり、李虎は唐の初代皇帝・高祖(李淵)の祖父。また独孤信の娘たちは北周、隋、唐という3つの皇室にあたる人たちと婚姻関係を結んでいきました。十二大将の楊忠は隋の建国者・楊堅の父です。
こうして八柱国・十二大将を眺めてみると、西魏の軍事政権の中からのちの北周・隋・唐へとつながっていく有力な家々が育っていたことがよくわかります。
婚姻で強く結ばれた関隴貴族
関隴貴族が大きな力を保ち続けた背景には有力な家どうしを結びつける婚姻関係がありました。
その象徴とも言えるのが独孤信です。
独孤信の長女は北周の明帝(宇文毓)の皇后になりました。
七女の独孤伽羅は楊堅に嫁ぎのちに隋の文献皇后となります。
別の娘は李昞に嫁いで唐の高祖(李淵)の母になりました。
つまり独孤信の娘たちを介して、北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が、みんな親戚関係でつながっていたわけです。もちろん独孤家以外の家々もお互いに婚姻関係を結んでいます。
北周から隋、隋から唐へと王朝自体は交替していきましたが、皇帝の周りを取り囲む有力な家々の中には切っても切れない強い血縁関係が存在していました。
北周から隋へ
宇文泰が亡くなった後、宇文氏は557年に西魏の皇帝から皇位を譲り受ける形で北周を建てました。その北周の末期に実権を握ったのが楊堅です。
楊堅の父親である楊忠は、もともと西魏や北周に仕えた有力な武将でした。妻の独孤伽羅は先ほど登場した独孤信の娘ですし、さらに楊堅自身の娘である楊麗華も、北周の宣帝の皇后になっています。
このように、楊氏は北周政権のど真ん中にいた超エリート一家でした。
そして581年、楊堅は隋を建国することになります。
この王朝交替の経緯を見ていくと、西魏や北周の軍事貴族社会の中から隋の皇帝家が生まれてきた流れが見えてきますね。
唐時代の関隴貴族
唐の時代になっても、関隴貴族の存在感は相変わらず絶大でした。
唐を建国した李氏
唐を建てた高祖・李淵の家柄も西魏や北周から続く武川鎮軍閥の出身です。
李淵の祖父・李虎は西魏の「八柱国」のひとり。父の李昞も北周に仕えていましたし、母は独孤信の娘でした。李淵自身も隋の重臣として活躍していた人物です。
隋末期の617年に挙兵した李淵は翌618年に皇帝を名乗り、国名を「唐」にします。
唐のスタートと関隴貴族たち
唐が成立した当初、関隴系の古い家柄の人々は、皇室との婚姻関係やこれまでの家柄を背景にして中央政界でとても大きな影響力を誇っていました。
その代表格が長孫無忌です。
長孫無忌の父・長孫晟は隋の有名な武将で、妹は李世民に嫁いで長孫皇后となりました。長孫無忌は「玄武門の変」で李世民をしっかり支え、太宗が即位した後も重臣として活躍します。太宗の晩年には皇太子の李治を後押しし、高宗が即位してからも政権の真ん中で舵取りを行っていました。
ところが当時の唐の中央政界には関隴系とは別の背景を持つ人たちもいました。
たとえば長孫無忌と協力していた褚遂良は西魏の関隴軍事貴族とは違う集団の出身です。また李勣は山東方面の出身で隋の末期に起きた反乱勢力から唐に参加した武将でした。
唐の初期の政権には、いろいろな出身の人物が集まっていました。その中で関隴系の旧家は皇室に近い強力なグループとして存在していたのです。
高宗と長孫無忌の対立
649年に第3代皇帝として高宗(李治)が即位しました。
長孫無忌は高宗にとって母方の叔父にあたり、太宗から後事を託された頼れる重臣でもありました。そのため高宗の初期には長孫無忌や褚遂良が強い発言力を持っていたのです。
やがて高宗は自分自身の手で人事や政治を動かしたいと考えるようになります。その対立がはっきりと表面化したのが、武昭儀(のちの武則天)を皇后にする問題でした。
655年、高宗は王皇后を廃して武昭儀を新しい皇后にしようとします。これに長孫無忌や褚遂良は猛反対しました。
高宗にとって、これは皇后選びの問題にとどまらず、太宗から政権を託されたベテラン旧臣たちの強い影響力から抜け出して自分で政治を決めるための大きな節目となりました。
高宗は長孫無忌たちとは違う経歴を持つ李義府や許敬宗といった官僚を採用していきました。李勣も皇后の擁立に強く反対しませんでした。
こうして高宗は太宗以来の旧臣に頼らない新しい政権の土台を作っていったのです。
659年、長孫無忌の失脚
そして659年、長孫無忌は謀反事件への関与を疑われて失脚、黔州へと送られてしまいました。その後、自害を命じられます。このとき彼の親族や近い人々も処分を受けました。
長孫無忌が失脚したことで関隴系の名家が唐の中央政界で保ってきた特別な地位は大きく後退することになりました。
関隴系の家々自体はその後も残り、有力家門として続いていきますが。西魏や北周以来の皇族とつながりを持ち朝廷の中心にいて強い発言力を持つ人々ではなくなっていきます。
武則天と関隴貴族の衰退
武則天より先に高宗が実施した政策
関隴貴族の衰退と科挙官僚の増加は武則天の功績のように言われることがありますが。現実にはそれほど単純な話ではありません。
すでに太宗の時代には褚遂良や李勣といた関隴貴族以外の有力者も朝廷の高い地位についています。統一王朝になった唐は幅広い地域から有力者を集める必要がありました。そうなると相対的に関隴貴族の影響力も弱くなります。
さらに高宗はそういった関隴貴族も含めた父の代からの名門への依存を小さくし、科挙合格者や寒門(格式の低い家柄)など別の出身母体を持つ官僚や武将を登用、科挙合格者の採用を増やします。武則天はそういった環境の中で皇后として勢力を広げました。
武則天が力を握るもとを作ったのは高宗といえるでしょう。高宗晩年から武則天が政治に関わるようになると、科挙や文章能力を通じて登用された官僚の活躍がさらに増えました。
ただし中国共産党政権下で武則天を高く評価しすぎたため、高宗の成果まで武則天のものにしてしまう風潮が起こりました。日本の歴史学会もその影響下にあるため、高宗が過小評価されがちです。
実際には、関隴貴族の衰退は高宗期に大きく進み、武則天の時代にその傾向がさらに強まったといえます。
科挙と関隴貴族
科挙は隋で始まり、唐の高祖・太宗・高宗の時代にも行われていました。
高宗の時代にはすでに関隴系旧家とは異なる背景を持つ人物が高位に進んでいます。
武則天も母は隋の皇族の血筋ですが、武家そのものは格式が低く関隴集団には含まれません。そこで武則天は支持者を増やし反対勢力を弱めるため、さらに科挙合格者を積極的に採用しました。
こうした人材登用の広がりによって、関隴集団の影響力はさらに小さくなっていきます。
玄宗以降の関隴集団と衰退
玄宗時代に旧貴族が一部復権する
705年に武則天が退位すると唐王朝が復活しました。中宗、睿宗を経て712年に玄宗 李隆基が即位します。
李唐皇室が再び政治の中心になったことで、武周時代に勢力を失っていた皇族や有力家にも再び高位につく人物が現れました。
玄宗後半の宰相・李林甫はその代表です。
李林甫は唐皇室につながる宗室の一族で、関隴系の旧貴族に属するとされる人物です。玄宗後半には旧貴族の一部が再び強い影響力を持った時期はありました。でもかつてのような朝廷の主流を占めるような勢力にはなれません。関隴集団を支えた制度そのものが崩れていたからです。
玄宗時代に関隴集団を支えた制度が消えていった
関隴集団の衰退に大きな影響を与えたのが、人事の採用方法と同時に軍事制度の変化です。
宇文泰が西魏で作った関隴集団は軍事貴族と府兵制が密接に結びついていました。唐初にも府兵の多くが関中周辺に配置され、中央政府が関中の軍事力を握ることで全国を支配していました。
唐初には全国の府兵のうち非常に多くが関中に置かれ、地方で反乱が起きても、中央政府は関中の軍事力を使って鎮圧することができました。
ところが玄宗時代になると府兵制が機能しなくなり、兵士を募集して常備軍にする募兵制へ移っていきました。辺境では節度使が多数の職業軍人を率いるようになります。
軍事力の中心が関中から辺境へ移ったため、西魏以来の関隴軍事貴族を支えていた兵力も失われました。
文官と武将を出す家が分かれていく
西魏から唐初までの関隴貴族には文官と武将の区別がそれほど強くありませんでした。有力貴族が宰相になり、別の時期には将軍として軍を率いることもありました。皇帝、宰相、将軍が同じような家柄の出身だったためです。
玄宗時代になると、そうではなくなります。
中央では科挙や文章能力を背景に出世する官僚が増えました。一方、辺境では長年軍務に携わった武将や異民族出身の将軍が節度使として大軍を率いるようになります。
中央で政治を行いつつ武力ももつという関隴貴族のような存在はもう存在しづらくなっていたのです。
安史の乱で関隴集団の時代は完全に過去になる
安史の乱は関隴集団の衰えの現れ
755年、范陽・平盧・河東の節度使だった安禄山が反乱を起こしました。安禄山が率いていたのは関中の府兵ではなく東北辺境に配置された大規模な職業軍人の集団でした。
反乱軍は洛陽を占領して翌756年には長安まで攻略します。唐初のように関中に大兵力を集中させていたら、地方の軍人が長安を占領するのは非常に難しかったでしょう。
でも玄宗時代には辺境の節度使が大軍を持つものの、中央政府は十分な兵力を持っていません。その結果、安史の乱の鎮圧にウイグルなどの外国や別の節度使の力を使いました。
その結果、国内には節度使が更に増えます。
地方では節度使が軍事・財政・人事に強い権限を持つようになり、中央では科挙出身の官僚や宦官が重要な役割を担いました。戦乱で華北が荒れたため、被害の少なかった華南にの財政面でも頼るようになります。関中が政治・軍事・経済の中心として全国を支配する時代ではなくなります。
貴族の時代も終わる
安史の乱後にも、李氏、裴氏など旧来の名門家から高官になる人物は現れました。また山東の崔氏、盧氏、鄭氏、太原王氏なども唐後半まで高い社会的評価を持っています。でもそれは科挙制度など新しい制度に対応して生き残ることができたからです。
唐代後期には宦官が皇帝の継承問題に介入するようになり。地方では節度使が力を持ち。黄巣の乱で国内は内乱状態になりました。そうなると関隴集団だけではなく他の名門貴族も衰退することになります。
新しい制度や時代に対応できない家は衰退してしまいます。個別に残った家はいても、もはや関隴集団とはいえない状態になっていったのでした。

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