孝儀純皇后魏佳氏は 乾隆帝の側室。
中国ドラマ『瓔珞(エイラク)』でウー・ジンイェンさん演じた魏瓔珞のモデルになったのが、実在した孝儀純皇后 魏佳氏 です。
皇后は死後に追尊されたので生前は令皇貴妃が最高位。他にも令妃・令貴妃・令皇貴妃などと呼ばれました。
ドラマ『如懿伝』では炩妃・衛嬿婉(えいえんえん)という名前で登場。瓔珞とは逆の悪役でした。
史実の孝儀純皇后 魏佳氏(こうぎじゅん こうごう)はどんな人物だったのか紹介します。
孝儀純皇后の史実
孝儀純皇后の肖像画
いつの時代の人?
姓:魏佳氏
名:本名は不明
称号:孝儀純皇后(こうぎじゅん こうごう)
地位:魏貴人→令嬪→令妃→令貴妃→令皇貴妃→皇后(追尊)
生年月日:1727年10月23日
没年月日:1775年2月28日
享年:47
彼は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の妃です。
後に息子が皇帝になったので「孝儀純皇后」の諡(おくりな)を贈られました。
日本では江戸時代になります。
家族
母:楊氏
子供:
長女:固倫和靜公主
長男:永璐
次女:和碩和恪公主
次男:永琰 ・嘉慶帝(清朝・第7代皇帝)
三男:永璘
孝儀純皇后の一族は金持ちだった?
孝儀純皇后の祖先は満州に定住した漢人(入旗漢人)でした。清朝初期に包衣となり、正黄旗に所属していました。
満州人は8つの集団でなりたっていました。正黄旗はそのひとつです。皇帝直属の組織です。
包衣とは満洲貴族に仕える奉公人。
「奴隷」と訳されることもありますが。中国王朝の奴婢とは違います。旗人には従わなければいけないものの、社会的には平民よりは上の地位です。
満洲人が領土にした土地に住む漢人・モンゴル人・朝鮮人がなることが多かったようです。
孝儀純皇后の祖父 五十一は総管内務府大臣という高官を務めました。
父親の清泰も内管領という役職。皇室に仕える中級の役人で、資材の調達を担当する役職です。
祖父が不正で罰金
魏家は雍正朝初期にはかなりの財産を蓄えていました。ところが五十一が在任中に問題を起こしたので、家族は多額の借金を負うことになます。
というのも、雍正帝は五十一が不正を行ったとして多額の賠償金を命じたからです。
家族が貧しくなる
ところが、まもなく五十一が死んだため清泰が負債を背負うことになりましました。
その結果、魏家は多くの財産を失い経済的に貧しくなりました。
乾隆帝の時代:側室になる
後宮に入った経緯
孝儀純皇后が後宮に入った経緯は良くわかっていません。家系を助けるために宮女になったのかもしれません。
乾隆朝初期に内務府の選秀に合格し、宮女として入宮したと考えられます。
乾隆10年以前にはすでに何らかの位階を授かっていたことが分かっています。
でも現存する史料が限られているので孝儀純皇后がいつ入宮し、最初にどのような位階を授けられたのかは正確には分かっていません。
富察皇后のもとで学んだ?
乾隆帝が詠んだ詩「孝賢皇后陵酹酒」には
という一節があります。この詩の注釈には、
と書かれています。
清朝の後宮では内務府出身の妃嬪が他の高位の妃嬪のもとで宮廷のしきたりを学ぶことはよくありました。
例えば瑞貴人は「令妃(孝儀純皇后)のもとで宮廷のしきたりを学んだ」という記録が残っています。
というわけで、孝儀純皇后も入宮したころは孝賢純皇后のもとで宮廷のしきたりを学んでいた可能性が考えられます。
1745年(乾隆10年)までには「貴人」になっていたようです。
1745年1月には「令嬪」になりました。「令嬪」とは「聡明で賢い人」という意味です。
1748年(乾隆13年)。孝賢純皇后 富察氏が死去。
輝発那拉(ホイファナラ)氏が新しい皇后になりました。
父が罰を受けて降格
乾隆13年。富察皇后を失った悲しみのせいで乾隆帝は非常に動揺。怒りっぽくなって多くの皇族や高官が処分を受けました。
令嬪の父・内管領の清泰も
という理由で罰せられました。仕事のミスが「亡き皇后への不敬」とみなされたのです。
- 清泰の処分:
- 清泰は与えられてた官位の一部を取り消され2階級降格、杖打ち80回の刑に処されました。
- この処分は大祭の際に供える生贄や幣帛などが不足した場合に科せられる刑罰と同様の扱いとされました。
令妃になる
だからといって魏氏への寵愛が失われたわけではなく。
1749年(乾隆14年)には「令妃」になりました。
父の死で恩赦
乾隆16年(1751年)。清泰が死亡。乾隆帝は令妃の家族に対して以下の恩典を与えました。
- 包衣からの解放:
清泰の家族を包衣から解放し、旗人と同じ扱いとなるようにしました。
- 財産と借金の返済:
令妃の家族に家や土地を与えました。
おかげで家族は借金の返済ができました。
十五皇子・永璐を出産 貴妃になる
1756年(乾隆21年)。初めて出産。乾隆帝の七女・固倫和靜公主が産まれました。
1757年(乾隆22年)。第十五皇子・永璐を出産。
魏佳氏は「貴妃」になりました。
1765年(乾隆30年)。皇后の輝発那拉(きはつなら、ホイファナラ)氏が廃妃になりました。しかし乾隆帝は新しい皇后を決めませんでした。
令皇貴妃が後宮のトップになる
魏氏は「皇貴妃」になりました。皇后がいないので令皇貴妃魏氏が後宮のトップです。事実上の皇后として後宮を仕切りました。
・皇后の内定者に一時的に与えられる称号。
・皇后がいないときの代理に与えられる称号。
乾隆帝は魏氏を皇后にしませんでした。皇后の内定者ではなく代理人としての「皇貴妃」だったのです。
皇后になるには満洲人の貴族の家系でなければいけませんし、乾隆帝は孝賢純皇后 富察氏のことが忘れられなかったようです。
1767年(乾隆32年)。次男・永琰(乾隆帝の十七男)を出産。後の7代皇帝嘉慶帝です
1771年(乾隆36年)。乾隆帝が泰山に旅行したときには令皇貴妃も同行しています。
1774年(乾隆39年)の終わりごろ。乾隆帝とともに麗河から戻った後、病気になりました。
1775年(乾隆40年)。死去。乾隆帝は「令懿皇貴妃」の諡を与えました。
死後、息子が皇帝になって皇后に追尊
1795年(乾隆60年)。乾隆帝が退位。息子の嘉慶帝が即位しました。
しかし乾隆帝は太上皇帝になって実権を握っていました。
魏佳氏は皇帝の母になったので「皇后」の地位が与えられることになりました。乾隆帝は魏佳氏に「孝儀皇后」の諡を贈ります。
1797年(嘉慶2年)。乾隆帝が死去。
嘉慶帝は母に「孝儀純皇后」の諡を贈りました。
ドラマの令貴妃
還珠姫 1998年、中国、演:娟子
瓔珞<エイラク>
2018年、中国、演:ウー・ジンイェン 役名:令妃・魏瓔珞
瓔珞<エイラク>に登場する魏瓔珞は物語のヒロイン。頭がよくライバルを罠にかけることもありますが残酷なことはしません。
如懿伝(にょいでん)
2017年、中国、演:リー・チュン 役名:炩妃 衛嬿婉(えいえんえん)
如懿伝では 炩妃・衛嬿婉(えいえんえん)の名前で登場。
こちらのドラマでは冷酷な悪役です。とくに原作小説版ではライバルを罠にかけ邪魔者は殺害までする残酷な人物として描かれます。あまりにも酷さに中国の読者からはクレームが出たそうです。
そのためTVドラマでは「炩妃・衛嬿婉(えいえんえん)」と名前が変わりました。
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