明熹宗・朱由校は、明朝末期に即位した第16代皇帝です。年号の「天啓」から、天啓帝という名前でも知られています。
父の泰昌帝が即位から間もなく亡くなったため、朱由校は14歳で皇帝になりました。皇太子として正式な教育をほとんど受けないまま即位し、在位中には後金との戦い、東林党と魏忠賢の対立、王恭廠大爆発などが起きています。
一方で、天啓帝は大工仕事や木工を好んだ皇帝としても有名です。乳母の客氏と宦官の魏忠賢を強く信頼し、その二人が宮廷で大きな力を持つようになりました。
この記事では、天啓帝の生涯を追いながら、大工・木工好きといわれる理由、客氏との関係、王恭廠大爆発、そして死因まで紹介します。
この記事で分かること
- 天啓帝の生い立ちと14歳で皇帝になるまでの経緯
- 東林党と魏忠賢の対立が激しくなった背景
- 木工好きだった天啓帝と政務との関わり
- 後金との戦いや財政難を抱えた天啓年間の実情
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天啓帝(熹宗)朱由校とは
プロフィール
- 名前:朱由校(しゅ・ゆうこう)
- 廟号:熹宗
- 通称:天啓帝
- 生年:万暦33年11月14日(1605年12月23日)
- 没年:天啓7年8月22日(1627年9月30日)
- 享年:21歳
- 在位:1620年9月26日~1627年9月30日
- 墓所:徳陵
家族
- 父:明光宗・朱常洛
- 母:王氏
- 皇后:張氏
- 男子:3人
- 女子:3人
- 弟:信王・朱由検
天啓帝の生涯
生い立ち
朱由校は万暦33年(1605年)、紫禁城の慈慶宮で生まれました。
父の朱常洛は当時皇太子でしたが、祖父の万暦帝から十分な待遇を受けていませんでした。その影響もあり、朱由校も皇帝の孫として本格的な教育を受ける機会が限られていました。
父の朱常洛は伴読太監の呉進忠に読書や文字を教えさせていましたが、正式な皇太子教育とは違います。このころから朱由校の身近にいたのが乳母の客氏と、宦官の魏忠賢でした。二人は朱由校が皇帝になる前から身の回りの世話をしていました。
父・泰昌帝が急死して14歳で即位
万暦48年(1620年)、万暦帝が亡くなり、父の朱常洛が皇帝となりました。これが泰昌帝です。
泰昌帝は朱由校を皇太子に任命して翌年から正式な教育を始める予定でした。
ところが泰昌帝は即位後まもなく病気になり、李可灼が献上した赤い丸薬「紅丸」を服用した翌朝に亡くなりました。
この薬と皇帝の死をめぐって責任追及が起こった事件を紅丸案といいます。東林党系の官僚からは毒殺を疑う声もありましたが、泰昌帝の死因や紅丸との因果関係ははっきりしていません。
朱由校は皇太子として正式な講義をほとんど受けないまま皇帝になってしまいます。このとき14歳でした。
即位直後に起きた移宮案
天啓帝 朱由校が即位すると、朱由校を養育していた李選侍が乾清宮に留まりました。李選侍は若い皇帝と同じ宮殿に住み続け、政治にも関わろうとしたとされます。これに左光斗や楊漣らが反対しました。
李選侍を乾清宮から移し、朱由校と離した事件が移宮案です。この事件の後、東林党系の官僚が朝廷で力を持つようになります。
天啓帝の治世前半
即位当初は東林党系の官僚を起用
天啓帝は即位すると、趙南星、高攀龍、鄒元標、葉向高らを採用してました。孫承宗も日講官となり、天啓帝に講義をしています。とくに天啓帝は孫承宗の講義を好みました。
そのころ天啓帝は内帑から辺境の軍費を出し、兵士への給与不足を補っています。地方への織造や貢納、追加課税を減らす命令も出しました。
軍費を出す一方で戸部と兵部には兵の数を厳しく確認、架空の兵士を使った不正受給を防ぐよう命じました。
趙南星・鄒元標たちの改革
趙南星や鄒元標らは人件や人事制度の改革を推進しました。趙南星は賄賂や請託による昇進を排除し、左都御史の鄒元標は厳格な勤務評価で不適任者を排除しました。
財政面では戸部尚書の汪応蛟が不要な支出を削減するとともに「雑項新餉」を新設して軍事費を補い、困窮していた国家財政を改善させました。
開墾(屯田)や教育分野では、董応挙が遼東の難民1万3000余戸を移住させて18万畝を耕作させ、1年で5万5000石余の収穫を上げました。また左光斗は四府に武学を設置して軍事人材を育て、河間・天津には屯学を設けて学生自らが荒地100畝を耕作し、その収穫の一部を学校の運営費に充てる仕組みを造りました。
後金との戦い
天啓帝の時代、明朝にとって大きな問題になっていたのが後金です。ヌルハチ率いる後金軍は遼東へ進出し、明軍は遼瀋の戦いや広寧で敗れました。
そのため、天啓2年(1622年)には明軍が山海関付近まで後退します。
その後、天啓帝は孫承宗、袁可立、袁崇煥、毛文龍、満桂、祖大寿らを起用しました。孫承宗は寧遠などの城を修復し、兵を訓練して防衛線を立て直します。袁崇煥も寧遠の戦い、寧錦の戦いで後金軍を退けました。
天啓帝と魏忠賢
魏忠賢は朱由校が皇孫だったころから近くに仕えていた宦官です。
天啓帝が即位すると司礼監の秉筆太監となりました。その後、東林党と魏忠賢の対立が激しくなります。楊漣や左光斗らは魏忠賢を激しく攻撃しましたが、天啓帝は魏忠賢を守りました。
魏忠賢は斉・楚・浙系の官僚や東林党と対立する人物を集め朝廷で勢力を拡大します。
東林党の葉向高、趙南星、高攀龍らは失脚し、楊漣、左光斗らも処罰されました。
一方で魏忠賢に味方する崔呈秀、魏広微、倪文煥、田爾耕、許顕純らが昇進しています。魏忠賢の親族まで高い爵位を得るようになりました。
魏忠賢の生祠が全国に建てられる
魏忠賢の権力が強まると、各地の官僚が魏忠賢を称えるようになりました。さらに各地には、生きている魏忠賢を祀る生祠まで建てられました。
薊遼総督の閻鳴泰は数十万両を使って七つの祠を建てたとされます。魏忠賢の木像に五拝三叩頭の礼を行う官僚もいました。
魏忠賢を孔子と並べて称えるべきだという意見まで出たとも言われます。
天啓帝と客氏の関係
朱由校の乳母は客氏でした。朱由校が幼いころから身近にいたため、皇帝になってからも客氏への信頼は続きました。
臣下が客氏を宮中から退出させようとしたとき、朱由校は客氏を恋しがって泣き、食事を取ろうとしなかったと言われます。
客氏は魏忠賢とも親しく、二人は宮廷内で影響力を強めました。魏忠賢が東林党から攻撃されたときにも客氏は王体乾らとともに天啓帝へ働きかけています。
皇后や妃嬪の妊娠に客氏と魏忠賢が介入したともいわれます。天啓帝の男子3人がすべて早世したのは確かですが、客氏や魏忠賢が皇子を意図的に死なせたかどうかは不明です。そういう噂が出るくらい彼女たちの影響力が強かったのでしょう。
天啓帝はなぜ大工・木工をしていたのか
天啓帝は大工仕事や木工が好きな皇帝でした。刀、鋸、斧、鑿などを使い、自分で物を作ることに熱中していたと言われます。
当時は紫禁城の三大殿再建も進んでいました。木工が好きだった天啓帝は、こうした作業にも強い興味を持っていたのでしょう。
天啓帝が木工に夢中になっていると魏忠賢はその最中に重要な奏章を持ってきて、皇帝の判断を求めました。天啓帝は作業の手を止めずに「わかった。お前たちで処理せよ」という意味の返事をしたと言われます。魏忠賢は、こうして皇帝から政務を任される機会を増やして朝廷で権限を強めていきました。
ただし天啓帝は即位した当初から政務を一切行わなかったわけではありません。軍費の支出、地方負担の軽減、孫承宗らの起用などについては天啓帝自身の命令が残っています。
天啓年間の財政難
天啓年間後半には軍餉不足が深刻になりました。
九辺の未払い軍餉は天啓4年には1万6000両まで減っていました。
ところが天啓5年には27万4000両、6年には237万2000両、7年には200万9000両となります。
三年間で465万両を超える未払いが積み上がりました。
各地から兵士が飢えているという報告が相次ぎます。
天啓帝自身も、辺境で食糧や軍餉が不足していることを認めています。
三大殿の再建と巨額の費用
紫禁城の三大殿再建には多額の費用がかかりました。
文武の官僚、地方官、宗室などから約83万両が集められています。
さらに海防費、軍費、馬の購入費、河川工事費など、地方に蓄えられていた資金まで工事に回されました。
天啓7年8月に三大殿は完成します。
費用は688万7000両余りに達しました。
それでも商人や職人、人夫への未払いが120万両残っていました。
王恭廠大爆発とは
天啓6年5月6日、1626年5月30日、北京西南部の王恭廠で大爆発が起きました。
王恭廠には火薬庫がありました。
この爆発で1万930余間の建物が倒壊し、死傷者は2万人を超えたとされています。
原因ははっきりしていません。
当時の人々は災害と政治を結びつけて考えていました。
そのため、東林党への弾圧が続いていた天啓年間の政治に対しても批判が向かいます。
天啓帝は罪己詔を出しました。
自らの行いを振り返り、食事を減らし、音楽をやめるとしています。
さらに被災者救済のため、御前銀1万両を出しました。
王恭廠大爆発の後も魏忠賢を守った
王恭廠大爆発の後には、顧秉謙、王紹徽、李思誠、王永光、徐兆魁ら魏忠賢側にいた官僚からも政治を改めるべきだという意見が出ました。
東林党系の囚人への処罰を軽くするよう求める声もありました。しかし天啓帝はその多くを受け入れませんでした。
進言した人物の中には、その後、罷免されたり辞職したりした者もいます。魏忠賢と協力していた者たちの間にも対立が広がっていたことがわかります。
天啓帝の死因
天啓7年(1627年)5月18日、天啓帝は魏忠賢、王体乾らと西苑で舟遊びをしました。
ところが強い風で小舟が転覆、天啓帝は水中に落ちました。すぐに救助されましたが、その後、体調を崩すようになります。
病状が悪化すると尚書の霍維華が五穀を蒸留して作った「霊露飲」を献上しました。しかし体調は戻らず、やがて全身がむくむようになりました。
8月20日には鼻から血を流して8月22日に亡くなります。
次の皇帝は弟の崇禎帝
跡継ぎがなく弟に継がせる
天啓帝には男子が3人いました。しかし3人とも早くに亡くなっていました。そのため天啓帝が亡くなった時点で、皇位を継げる男子はいませんでした。
そこで病床の天啓帝は弟の信王・朱由検を呼びます。朱由検に皇位を継ぐよう伝え、皇后を大切にするよう頼みました。さらに魏忠賢についても引き続き使えさせるようにという趣旨の言葉を残したとされます。
天啓帝の死後、朱由検が即位しました。これが崇禎帝です。
天啓帝が崇禎帝に残した明朝
崇禎帝が即位したころは明朝の財政はかなり厳しくなっていました。太倉の古い倉庫には銀11万4000両しか残っていませんでした。年間収入は約330万両だったのに対して、年間支出は500万両余りに達していました。
九辺では軍餉の未払いが続き、後金との戦争も終わっていません。各地では災害と徴税によって流民が増え、反乱も起きていました。
朝廷でも東林党への弾圧によって多くの官僚が失脚して魏忠賢の親族や側近が高い地位についていました。
天啓帝は21歳で亡くなり、こうした問題は弟の崇禎帝へ引き継がれたのでした。
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