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蒙武はどんな将軍?史実とキングダムの違い

蒙武は春秋戦国時代の秦の武将です。

『キングダム』では圧倒的な武力を誇る将軍として描かれる蒙武ですが、史実にはどのような記録が残っているのでしょうか?『史記』によると蒙武は王翦の副将として大軍を率いる楚攻略に参加して秦の天下統一に関わりました。

この記事では史料から確認できる功績や一族、昌平君・項燕との関係、「キングダム」と史実の違いを紹介します。

 

この記事で分かること

  • 蒙武の出身や家族など、史料で確認できる人物像
  • 王翦の裨将軍として参加した楚攻略での役割
  • 楚王負芻の捕縛や項燕の死をめぐる『史記』の記述
  • 『キングダム』の蒙武と史実との主な違い

 

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蒙武とはどのような将軍?

蒙武は秦に仕えた将軍・蒙驁の子で蒙恬と蒙毅の父です。三代にわたって秦に仕えた蒙氏の中では二代目にあたります。

『史記』蒙恬列伝には秦王政23年に蒙武が秦の裨将軍となり王翦とともに楚を攻めたと書かれています。

裨将軍は主将に従って軍を率いる将軍を指す言葉です。楚攻略では王翦が全軍の主将となって蒙武は王翦を助ける将軍として参加しました。

 

項目 内容
名前 蒙武(もうぶ)
時代 中国戦国時代末期
所属
主君 秦王政(のちの始皇帝)
史料に見える立場 裨将軍
主な戦い 楚攻略
蒙驁
蒙恬、蒙毅
生没年 不明

蒙武の生年、若いころの経歴、妻の名前、没年はわかっていません。容姿や性格についても、『史記』には具体的な説明がありません。

 

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蒙武の一族は斉からやってきた

『史記』蒙恬列伝によると蒙氏の祖先は斉の人でした。

蒙武の父・蒙驁が斉から秦へ移り住み秦の昭王に仕えました。蒙氏が秦で活動するようになったのは蒙驁の代からです。

蒙驁が斉を離れた理由や秦へ移った理由は書かれていません。蒙武が斉で生まれたのか、秦で生まれたのかもわかりません。

「蒙武は父に連れられて斉から秦へ移住した」と書かれることがありますが、幼い蒙武が父とともに移ったことを確認できる史料はありません。

 

父・蒙驁が秦の上卿になる

父の蒙驁は秦で功績を重ねて上卿になりました。秦の昭王に仕えた後、荘襄王と秦王政の時代にも将軍として活動しています。

『史記』蒙恬列伝には蒙驁の主な戦いとして次の出来事が書かれています。

  • 秦の荘襄王元年、韓を攻めて成皋と滎陽を取り、三川郡を置いた。
  • 荘襄王2年、趙を攻めて三十七城を取った。
  • 秦王政3年、韓を攻めて十三城を取った。
  • 秦王政5年、魏を攻めて二十城を取り、東郡を置いた。
  • 秦王政7年(紀元前240年)に亡くなった。

蒙武は父が秦で築いた武将の家を受け継ぎました。

蒙武の母については記録はありません。

 

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蒙武より先に息子の蒙恬が楚へ出陣

蒙武が王翦とともに楚へ向かう前、秦は李信と蒙恬に楚攻略を任せました。この蒙恬は蒙武の子です。

秦王政は李信に楚を攻めるには何人の兵が必要かと尋ねます。李信は二十万で足りると答えました。王翦は60万が必要だと答えます。

秦王政は李信の意見を採用して李信と蒙恬に二十万の兵を率いさせました。

『史記』白起王翦列伝によると、李信は平輿を攻めて蒙恬は寝を攻めました。両軍は楚軍を破った後に城父で合流します。

ところが楚軍は秦軍を三日三晩にわたって追撃しました。秦軍は楚軍に敗れ、二つの城壁を破られ、七人の都尉を失います。

李信と蒙恬による楚攻略は失敗に終わりました。

 

王翦と蒙武が60万の兵で楚へ向かう

李信たちの敗北後、秦王政は王翦を再び将軍に任命しました。

『史記』では秦王政が王翦の住む頻陽を訪ねて謝り楚を攻めてほしいと頼んだことになっています。王翦は60万の兵がいなければ楚には勝てないと改めて答えました。

秦王政は王翦の要求を受け入れます。王翦は60万の兵を率いて楚へ向かい、蒙武が裨将軍として従いました。

秦が当時動員できる兵の大部分を王翦に任せたとされるほど大規模な遠征でした。

 

王翦は楚軍の挑発に応じなかった

楚は国内の兵を集めて秦軍を迎えました。

王翦は楚へ到着すると陣地を守って戦いを避けます。楚軍が何度も戦いを仕掛けても秦軍を出撃させませんでした。

王翦は兵士を休ませて体を洗わせ、十分な食事を与えました。自ら兵士と食事をともにしたとも書かれています。

王翦が兵士の様子を尋ねると、兵士たちは石を投げたり跳び越えたりして遊んでいました。王翦は兵士たちの体力が戻り、戦える状態になったと判断します。

 

東へ移動する楚軍を秦軍が追撃

秦軍が戦わないため楚軍は東へ移動し始めました。王翦はこの機会を逃さず、秦軍に追撃を命じます。秦軍は楚軍を破り蘄の南まで進みました。

『史記』白起王翦列伝ではこの戦いで楚の将軍・項燕を討ったと書かれています。

蒙武がこの決戦でどのような命令を受け、どの敵と戦ったのかはわかりません。ただし王翦の副将として戦いに参加したことは『史記』蒙恬列伝に明記されています。

 

楚王負芻を捕らえたのは蒙武?王翦?

楚の滅亡の経緯については『史記』の中でも書き方が分かれています。

大きな違いは、楚王負芻を捕らえた時期と項燕が亡くなった時期、昌平君が楚王になった経過です。

蒙恬列伝の内容

  • 秦王政23年、蒙武は裨将軍として王翦と楚を攻め、楚軍を破って項燕を討った。
  • 秦王政24年、蒙武が楚を攻め、楚王を捕らえた。

蒙恬列伝では楚王負芻を捕らえた功績が蒙武に帰されています。

六国年表の内容

  • 紀元前224年、王翦と蒙武が楚軍を破り、項燕を討った。
  • 紀元前223年、王翦と蒙武が楚を破り、楚王負芻を捕らえた。

六国年表では項燕との戦いも楚王の捕縛も、王翦と蒙武の共同の功績として書かれています。

白起王翦列伝の内容

白起王翦列伝では王翦が楚軍を破り、蘄の南で項燕を討った後に楚の都市を占領したと書かれています。

さらに一年余り後、秦軍が楚王負芻を捕らえ、楚の土地を郡県にしたと続きます。この箇所では楚王を捕らえた人物の名前ははっきりとは書かれていません。

秦始皇本紀の内容

  • 秦王政23年、王翦が楚王を捕らえた。
  • 項燕が昌平君を楚王に立て、淮南で秦に抵抗した。
  • 秦王政24年、王翦と蒙武が楚軍を破った。
  • 昌平君が亡くなり、項燕が自害した。

秦始皇本紀では、楚王負芻が先に捕らえられ、その後も昌平君と項燕が抵抗を続けています。

どの経過が正しいの?

現在残る『史記』だけでは、すべての出来事を矛盾なく並べることはできません。

楚王負芻が捕らえられた後、昌平君が新たな楚王として抵抗した可能性もあります。ただし、項燕の死が楚王負芻の捕縛より前だったのか後だったのかは、『史記』の篇によって違います。

王翦と蒙武が楚攻略を担当し、秦による楚の滅亡に大きく関わったことは、複数の篇に共通しています。

 

蒙武と昌平君は親友だった?

『キングダム』では蒙武と昌平君に長い付き合いがあり、互いの実力を認める関係として描かれています。

史料では蒙武と昌平君が親友だったことや、幼いころから一緒に育ったことは書かれていません。

昌平君は秦の朝廷で相国を務めた人物として『史記』に登場します。その後の経過については史料が少なく『秦始皇本紀』では項燕に楚王として立てられ、淮南で秦に抵抗したと書かれています。

秦始皇本紀の内容に従えば、蒙武はかつて秦にいた昌平君を敵として攻めたことになります。でも二人が個人的にどのような関係だったのかはわかりません。

蒙武と昌平君の友情や葛藤は『キングダム』での演出です。

 

蒙武と項燕は直接戦った?

『史記』蒙恬列伝と六国年表には、王翦と蒙武が楚軍を破り項燕を討ったと書かれています。

ただし、蒙武が項燕と一騎討ちをしたという内容はありません。項燕が戦場で誰に討たれたのか、秦軍の攻撃を受けて亡くなったのかも詳しく書かれていません。

秦始皇本紀では昌平君が亡くなった後に項燕は自害したことになっています。

項燕は、のちに秦を滅ぼす戦いで活躍する項羽の祖父です。『史記』項羽本紀には項氏が代々楚の将軍を務め項燕が秦の将軍・王翦に討たれたと書かれています。

 

蒙武の父と息子たち

蒙武本人の記録は少ないものの、父の蒙驁と二人の息子は『史記』に多く登場します。

父・蒙驁

蒙驁は斉から秦へ移り、昭王、荘襄王、秦王政に仕えました。韓、趙、魏を攻め、秦の領土拡大に貢献した将軍です。

長男・蒙恬

蒙恬は李信とともに最初の楚攻略へ参加しました。秦が天下を統一した紀元前221年には斉を攻め、内史に任じられています。

その後、三十万の兵を率いて北方へ向かい、匈奴を黄河より北へ退かせました。黄河の南にある河南の地を秦の支配下に入れ、北方の城壁や道の建設にも関わっています。

「蒙恬が万里の長城を最初から造った」と説明されることがありますが、戦国時代の各国が築いた城壁を利用しながら、秦の北方防衛線を築いたと考える方が実態に近いでしょう。

次男・蒙毅

蒙毅は蒙恬の弟です。『史記』によると、始皇帝から強く信頼され、外出時には皇帝の馬車に同乗し、宮中では皇帝の近くに仕えました。

蒙恬が軍事を担当し、蒙毅は始皇帝の近くで朝廷の仕事を担当したと書かれています。

蒙毅を「文官」と表す説明も見かけますが、秦の官職を現代的な文官と武官の二種類に当てはめると、実際の役目が伝わりにくくなります。蒙毅は、始皇帝の側近として裁判や命令に関わった人物と紹介する方がわかりやすいでしょう。

蒙氏は秦の統一に大きく貢献

『史記』白起王翦列伝には、秦が天下を統一したとき、王氏と蒙氏の功績が特に大きかったと書かれています。

王氏とは、王翦、王賁、王離へ続く一族です。蒙氏は、蒙驁、蒙武、蒙恬、蒙毅へ続く一族でした。

蒙武本人について詳しい伝記は残っていませんが、蒙氏全体が秦の領土拡大と天下統一に大きく貢献したことは、司馬遷も認めています。

 

蒙武の最期は?

蒙武がいつ、どこで亡くなったのかはわかりません。

楚攻略後にどの官職へ就いたのか、秦の天下統一後も生きていたのかについても、『史記』には書かれていません。

史料で確認できる最後の活動は、秦王政24年ごろの楚攻略です。

息子の蒙恬と蒙毅は始皇帝の死後、趙高と李斯が胡亥を皇帝に立てた際に命を落としました。しかし、その時点で蒙武が生きていたという記録はありません。

 

『キングダム』と史実の蒙武の違い

『キングダム』の蒙武には、史料に残る楚攻略をもとにした部分と、作品が加えた設定があります。

項目 『キングダム』 史料で確認できる内容
性格 豪快で自信が強い 性格を伝える記録はない
武力 怪力を誇る武将 怪力だったという記録はない
目標 中華最強を目指す 本人の目標や発言は残っていない
呂不韋との関係 呂氏四柱の一人 呂不韋の陣営に属したという記録はない
汗明との戦い 一騎討ちで決着をつける 汗明との戦いは作品独自の設定
昌平君との関係 長い付き合いを持つ 個人的な関係はわからない
楚攻略 楚との戦いで重要な役目を担う 王翦の裨将軍として楚攻略に参加した

史実の蒙武を「豪快な猛将」と評価できる史料はありません。確かなことは秦が60万もの兵を動員した楚攻略で、蒙武が王翦に従う裨将軍に選ばれたことです。

でも大軍を任せる将軍には軍歴や秦王からの信頼が必要だったと考えられますから、実績と能力を認められていたのでしょうね。

 

まとめ

蒙武は王翦の副将として楚攻略に参加し、秦の天下統一に貢献した将軍です。

本人の性格や若いころの活躍はわかりません。楚攻略でどの部隊を指揮したのかも記録に残っていません。

それでも、『史記』蒙恬列伝と六国年表には、王翦と並んで蒙武の名前が書かれています。楚という大国を滅ぼす戦いで、王翦を助ける将軍を務めたことは確かです。

『キングダム』では、蒙武は自らの武力で中華最強を目指す将軍として描かれています。

史料に残る蒙武は、王翦の副将として秦最大級の遠征に参加し、楚攻略を担った人物です。詳しい発言や戦い方は伝わっていませんが、秦の天下統一を決定づけた戦いに名を残したことは確かです。

 

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主な参考史料

  • 司馬遷『史記』蒙恬列伝
  • 司馬遷『史記』白起王翦列伝
  • 司馬遷『史記』秦始皇本紀
  • 司馬遷『史記』六国年表
  • 司馬遷『史記』項羽本紀

 

春秋戦国
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この記事を書いた人

歴史ブロガー・フミヤ

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京都在住。2017年から歴史ブログを運営し、これまでに1500本以上の記事を執筆。50本以上の中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを正史(『二十四史』『資治通鑑』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。

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