カダクはモンゴル帝国第3代皇帝グユクに仕えた高官です。
グユクが幼いころから教育を担当し、即位後はチンカイとともに国政を任されました。大丞相に相当する立場にあったと考えられています。
ところがグユクが急死するとモンゴル帝国ではオゴデイ家からトルイ家へと政権の中心が移りました。カダクも旧グユク政権の高官として粛清の対象となり、モンケの即位後に処刑されました。
この記事で分かること
- カダクの出身地や宗教、家族に関する記録
- グユクの王傅から大宰相に上りつめた経緯
- グユク政権における政治と宗教への影響
- グユクの死後にカダクが処刑された背景
カダクとは
プロフィール
- 名 前:カダク
- 出 身:ナイマン部
- 官 職:イェケ・ジャルグチ
- 役 割:グユクの王傅、行政長官
- 宗 教:キリスト教
- 生 年:不明
- 没 年:1248年もしくは1251年
家族
父:不明
母:不明
妻:不明
子:不明
カダクの出自
カダクの生年や両親、その他の家族関係は記録がなく分かりません。
出身はナイマン部だったとされています。
モンゴル帝国成立以前からモンゴル高原西部で勢力を持っていた遊牧民集団です。
カダクはグユクの時代に宰相にまでなりましたが、モンケ即位後に粛清されたました。そのため高い地位にいたわりにはカダクの記録が少なく、詳しい経歴を知ることは難しくなっています。
カダクの人生
グユクの王傅(師父)になる
カダクはオゴデイの庶長子グユクの王傅に任命されました。
王族の教育や補佐をする人。ペルシア語ではアタベク(師父)とも呼ばれます。
カダクはグユクが幼いころから教育に携わり、グユクの考え方にも影響を与えたとされます。
カダク自身はキリスト教徒でした。グユクが後にキリスト教徒を好意的に扱ったのは、幼少期からカダクの教育を受けていたことが関係していたのかもしれません。ただしグユク自身がキリスト教徒だったという記録はありません。
オゴデイの死とドレゲネの国政代行
1241年、モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイが亡くなりました。
オゴデイの上位の皇后たちはすでに亡くなっていたため、グユクの母ドレゲネが国政を代行します。ドレゲネは自分の息子グユクを次の皇帝にしようとしました。
ところがグユクの即位には反対する勢力もいました。もともとオゴデイは三男クチュの息子シムレンを後継者にしようと考えていました。それに加えてドレゲネの出身や宮廷内での立場を理由にグユクを支持しない王族や有力者がいたためです。
ドレゲネはオゴデイの配下を遠ざけ側近たちを採用して政治を進めます。ドレゲネたちに排除された進化たちはオゴデイの息子コデンのもとに逃げ延びました。
グユクが皇帝に即位したのは1246年でした。オゴデイの死から即位まで5年を要したことになります。
ファーティマ・ハトゥンの告発
グユクの即位後、ドレゲネが国政を代行していた時期に取り立てられた高官たちは次々に官職を失いました。
ドレゲネはオゴデイの死後にオゴデイに仕えていた高官を排除してファーティマ・ハトゥンやアブドゥッラフマーンなど、自分に従う人物を用いて国政を行っていました。
グユクが即位した後も彼らが宮廷の要職に残れば母ドレゲネとその側近が国の政治を動かすことになります。そこでグユクは母に従う者たちを排除し、カダクやチンカイたち自分が信頼する者たちを要職につけることにします。
カダクの配下にはサマルカンドのシラという人物がいました。シラはアリーの子孫とされ、サマルカンドの出身だったとされます。
シラはファーティマ・ハトゥンがコデンに呪いを書けているとと告発しました。
告発を受けたファーティマは処刑されました。さらにアブドゥッラフマーンをはじめとするドレゲネ派の高官たちも失脚や処刑に追い込まれます。さらにドレゲネも死亡しました。
こうしてドレゲネを支えた人々が排除されグユクを中心とする新しい政権が作られていきました。
チンカイとともに国政を任される
グユクは即位後にカダクとチンカイに国政を任せました。
このころモンゴル高原を訪れたローマ教皇の使節プラノ・カルピニはカダクを行政長官、チンカイを筆頭書記官と呼びました。
カダクは行政や裁判に関わる仕事を担当し、チンカイは文書や書記業務を取り仕切っていたと考えられます。
イェケ・ジャルグチを務める
カダクはイェケ・ジャルグチという官職を務めました。
「ジャルグチ」は裁判や行政を担当する役人。「イェケ」には大きい、上位の、という意味す。
イェケ・ジャルグチは複数のジャルグチを統括する高官だったと考えられています。漢文史料では、中国王朝の丞相に相当する官職として捉えられました。
つまりイェケ・ジャルグチは「大宰相」といえます。
グユクの治世とキリスト教徒
カダクとチンカイはともにキリスト教徒でした。
当時のモンゴル帝国内にはネストリウス派を中心とするキリスト教徒が暮らしていました。モンゴル側ではキリスト教徒をエルケウンと呼んでいます。
グユクの治世にはキリスト教徒が優遇されました。グユク自身もキリスト教徒に好意を持っていたとされます。
その評判を聞いてシリア、アナトリア、アゼルバイジャン、アスト、ルーシなどからキリスト教徒がモンゴル宮廷を訪れました。
だからといってムスリムをはじめとする非キリスト教徒が敵として扱われたわけではありません。ただしキリスト教徒より低い扱いを受けたと感じる人々もいて、不満があったとされます。
こうしたキリスト教優遇にはカダクやチンカイらの影響があったのでしょう。
ナイマン出身のモンケ・ボラトを支持する
そのころイラン方面では総督アルグン・アカとモンケ・ボラトが対立していました。モンケ・ボラトは、同じナイマン出身だったのでカダクへ接近します。
カダクはモンケ・ボラトに協力してアルグン・アカを失脚させようとしました。
グユクの急死
1248年。グユクは即位から約2年で急死しました。グユクの死によってカダクは頼りにした主君を失いました。
すると、オゴデイ家のもとで立場を弱めていたトルイ家が大ハーン位の獲得に向けて活動をはじめます。
トルイ家ではトルイの長男モンケが新しい大ハーンの候補となりました。
オゴデイ家ではかつてオゴデイが指名したシムレンを候補にたてましたが。ドレゲネがそのシムレンを否定してグユクを即位させたことが問題となりオゴデイ派の主張は支持を得られません。
1251年。トルイ派の推すモンケが新しい大ハーンとなりました。
カダクの最後
モンケがモンゴル帝国第4代皇帝に即位しました。
モンケの即位後にはグユクを支えた高官たちは、政変を計画したとして追及されました。グユク時代に重臣だったカダクとチンカイも、粛清の対象になり。処刑されました。
カダクの没年については1248年とする記述もあります。この場合だとグユクの死後間もなく粛清されたことになります。
しかしモンケが即位した1251年の粛清で処刑されたのであれば、没年は1251年となります。
『天幕のジャードゥーガル』のカダク
『天幕のジャードゥーガル』では、カダクはドレゲネとその息子グユクに仕える人物として登場します。
最初はカダクはシタラを泥棒と間違ってドレゲネのもとへ連れていきました。シタラがドレゲネの側近になった後も警戒を続けて彼女の行動を見張っています。
またカダクはグユクが幼いころから養育と補佐を担当してきた教育係です。グユクにとっては、幼少期からそばにいる数少ない信頼できる人物でした。
劇中のカダクは主君の身辺に注意を払い、自分の役目を黙々と果たす側近として描かれています。シタラを警戒するのも、グユクやドレゲネを守るという使命感からなのでしょう。
まとめ
カダクは、ナイマン部出身のキリスト教徒でした。
グユクが若いころには王傅として教育を担当し、グユクの即位後はチンカイとともに国政を任されました。カダクはイェケ・ジャルグチ(大宰相)を務め、行政や裁判に関わる仕事を取り仕切っています。
グユクの治世にはキリスト教徒が優遇され各地からキリスト教徒がモンゴル宮廷を訪れました。カダク自身もキリスト教徒でグユクによるキリスト教徒優遇政策に影響を与えた可能性があります。
ところが1248年にグユクが急死し1251年にモンケが即位すると、グユクに仕えていた高官たちは粛清されました。カダクもチンカイとともに処刑されたのでした。
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