ジョチ(ジュチ)はチンギス・カンの長男です。
西方遠征を任されて功績をあげましたが、出生をめぐる疑いと弟チャガタイとの対立に苦しんだ人物です。最後は病気に苦しみ見父との行き違いを残したまま病没してしまいます。しかし受け継がれた領土は、のちのジョチ・ウルスへと発展していきました。
この記事で分かること
- ジョチのプロフィールとチンギス・カン家の家族関係
- 出生の謎や「ジョチ」という名前の由来
- 西方遠征で挙げた功績とチャガタイとの対立
- ジョチ・ウルス成立につながった子孫と領土
ジョチはどんな人
プロフィール
- 名前:ジョチ
- 別表記:ジュチ
- 生年:1177年、1182年ごろ、1184年など諸説あり
- 没年:1225年ごろ
- 身分:モンゴル帝国の皇子
- 王家:ボルジギン氏
- 領地:イルティシュ川上流からカザフ草原にかけての西方領土
家族構成
- 父:テムジン(のちのチンギス・カン)
- 母:ボルテ
- 同母弟:チャガタイ、オゴデイ、トルイ
- 主な妻:ベクトゥトミシュ・フジンなど(複数の妻がいました)
- 主な子:オルダ、バトゥ、ベルケ、シバン、トカ・テムル
ジョチは、チンギス・カンの正室であるボルテが産んだ最初の男の子でした。のちに国を引っ張っていくことになるチャガタイ、オゴデイ、トルイは同じ母をもつ兄弟にあたります。
当時のモンゴルには長男が自動的に父親の跡を継ぐという決まりはありませんでした。
それでも当時の有力者であったケレイト部の娘との婚姻話が計画されていた歴史をみると、ジョチが王家の長男としてそれに相応しい立場に置かれていたことはうかがえます。
ジョチの出生と名前に隠された由来
ジョチの生涯を語るうえで、どうしても避けて通れないのが出生の謎にまつわるお話です。
母のボルテはオンギラト部という一族の出身でした。テムジンと結婚して間もないころ、彼女は敵対するメルキト部という部族の襲撃を受け、連れ去られてしまったのです。その後、テムジンは同盟者の力を借りてボルテを無事に取り戻しました。
ところがジョチが生まれたのは、ちょうどボルテが夫のもとへ戻ったころのことだったのです。
この出来事については歴史書の『集史』と『元朝秘史』では、それぞれ違うエピソードを伝えています。
ペルシア語で書かれた『集史』によれば、ボルテは連れ去られる前からテムジンの子を身ごもっていました。そして救出されてテムジンの陣営へ戻る旅の途中で出産したため、モンゴル語で「客」や「旅人」を意味する「ジョチ」という名前が付けられたとされています。
一方で、モンゴル自身の歴史を記した『元朝秘史』では、ボルテはメルキト部のチルゲル・ボコという人物のもとに置かれており、救出されたときにはすでに出産が間近に迫っていたと書かれています。この記述があるために、のちに「ジョチは本当にチンギス・カンの子なのだろうか」という疑いの声が生まれる原因になりました。
このように史料によって書かれ方は違いますが、父親のチンギス・カン自身は、ジョチを終始、自分の長男として大切に扱ったようです。
モンゴルの領土拡大に貢献したジョチ
モンゴル高原の統一戦争と森の民の服属
ジョチは若いころから父テムジンが繰り広げた数々の戦いに参加していきました。モンゴル高原の西方にいたナイマン部などとの激しい戦いでも、自ら軍を率いて活躍したとされています。
そして1206年、高原を統一したテムジンは「チンギス・カン」の称号を名乗ることになりました。
このとき、チンギス・カンは長男のジョチにアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流にかけての地域と、4個千人隊(配下の領民は九千戸だったという説もあります)を分け与えました。こうしてジョチは、帝国の西側を守る重要な拠点を任されるようになります。
1207年にはジョチは父親から右翼軍の指揮を任されてシベリア方面へと進軍しました。この地域には「森の民」と呼ばれるバイカル湖の周辺やエニセイ川流域に暮らす諸部族がいました。
この遠征ではオイラト部のクドカ・ベキという人物がいち早くジョチに従い、案内役を買って出ました。そのおかげもあってブリヤトやキルギスといった多くの部族が次々とモンゴルに服属することになります。
チンギス・カンはこの大戦果とクドカ・ベキの協力をたいそう喜び、自分の娘やジョチの娘をクドカ・ベキの息子たちに嫁がせる婚姻関係を結びました。
この遠征によってジョチは将来の西方拡大に向けた足がかりとなるルートを手に入れたほか、毛皮や穀物、金といった豊かな資源が採れる地域を自分の支配下に置くことに成功したのです。
金への遠征と中国北部の領地
チンギス・カンは、1211年から中国北部の「金」への大規模な遠征を開始します。
このときジョチは、弟のチャガタイやオゴデイとともに右翼軍を率いて現在の山西地方へと攻め入りました。三兄弟の軍は各地の城を次々と攻略していき、ジョチはこのときの大きな功績によって、平陽一帯の土地を「投下領(一族に与えられる領地)」として授かったとされています。
この平陽路という領地は、その後も長くジョチの子孫たちへと受け継がれていきました。
ジョチといえば「広大な草原を駆け巡った人物」というイメージが強いかもしれませんが、実はこのように、中国北部にも一族の大事な収入源となる領地を持っていたのです。
ホラズム遠征とスィル川沿いでの激戦
その後、モンゴル軍はキプチャク草原の方面へと逃げ延びたメルキト部の残党を追いかけていきました。その追撃の途中で、中央アジアの大国・ホラズムの軍勢と偶然接触し、カラ・クム付近で戦闘になったとされています。
これをきっかけに、1219年から本格的なホラズム遠征が始まりました。ジョチはここでも中央アジアの北部を進む右翼軍の総指揮を執ることになります。
ジョチの軍は、発端となったオトラルの街の攻略に関わったあと、スィル川という大きな川に沿って進軍し、スィグナクやジャンド、ヤンギカントといった重要都市を次々と征服していきました。
この途中のスィグナクという都市では、モンゴル側が降伏を呼びかけるために送ったハサン・ハッジーという使者が、現地の住民に殺されてしまうという事件が起きています。
怒ったジョチの軍は激しい総攻撃を仕掛けて都市を陥落させ、住民を殺害したと歴史書は伝えています。こうしてジョチが切り開いたスィル川流域の征服地が、のちに彼自身の領地になっていくのです。
チャガタイとの対立とウルゲンチ包囲戦
順調に遠征を進めていたジョチでしたが、その裏では弟チャガタイとの関係がひどく冷え切っていました。その不和が決定的な形で表れてしまったのが、ホラズムの首都ウルゲンチをめぐる包囲戦です。
この戦いでは街の壊滅を避けて平和的に降伏させたいジョチと、徹底的な武力行使による早期決着を望むチャガタイとの間で作戦の意見が合わなかったと言われています。
ジョチとしては征服後に自分のものになる予定の都市だったため、できるだけ破壊せずに残したかったという事情があったようです。
二人が激しく揉めて作戦が長引いたため、父親のチンギス・カンは兄弟の不和に怒って三男のオゴデイに全軍の指揮権を任せてウルゲンチを攻略させたとされています。
オゴデイが後継者に選ばれた背景
チンギス・カンは帝国をさらに維持していくために、四人の同母息子のなかから次のリーダー(後継者)を決めようと考えました。
当時のモンゴルには長男がそのまま家督を継ぐという慣習はなく、親族や有力者たちが集まって話し合い、みんなが納得する人物を選ぶ必要があったのです。
『元朝秘史』によると、この後継者を話し合う重大な席のリーダーの面前で次男のチャガタイが「ジョチはメルキト族の種ではないか」と、兄の出生の秘密を激しくなじり、兄が次のカンになることに猛反対しました。
これに対してジョチも激怒してチャガタイの胸ぐらをつかんで「お前のような乱暴者に後継者の資格があるか」と言い返し、二人は父親の前で取っ組み合いの大喧嘩を始めてしまったのです。
これでは、どちらがカンになっても国が分裂してしまいます。そこで激しく争う二人の間に立つことができ、性格も穏やかで人望の厚かった三男のオゴデイが次の後継者として選ばれることになりました。
西方領土の拡大と父との間に生じた不和
中央アジアの遠征が終わると、ジョチの領地はイルティシュ川の上流からバルハシ湖の北、そしてアラル海方面にまで大きく広がっていました。さらにチンギス・カンはジョチにアラル海からカスピ海の北側に暮らす諸部族を征服するよう命じます。
チンギス・カン本人がモンゴル高原へと引き揚げたあとも、ジョチは自分の領地にとどまり北西方面の攻略を続けました。
しかし、そのころからジョチは重い病にかかってしまい、思うように軍を動かすことができなくなってしまいます。
ところが、父親のチンギス・カンのもとへは「ジョチは病気だと嘘をついて、領地で大好きな狩猟ばかりして遊んでいる」という、とんでもない噂が届いてしまったのです。広大な帝国のなかで父と子の間で十分な連絡が取れないまま、両者の関係は次第に悪化していってしまいました。
誤解のなかに消えたジョチの最期
どうしても事の真相を確かめたかったチンギス・カンは、ジョチに対して「すぐに私のところへ戻ってきなさい」と帰還を命じました。しかし、ジョチは本当に体が動かせないほどの病床に伏せっていたため、どうしても戻ることができませんでした。
息子の不参内を「命令拒否」だと受け取ってしまったチンギス・カンは、一時はジョチを裏切り者とみなして、討伐軍を差し向けることまで考えたといいます。
ところが、その討伐の準備をしている最中にジョチが現地ですでに亡くなったという訃報が届いたのです。1225年ごろのことでした。父親より先立つ早すぎる死でした。
本当の理由を知ったチンギス・カンは、自分の誤解を激しく悔やみ深い悲しみと落胆に打ちひしがれたと歴史書は伝えています。
のちの物語のなかには「ジョチは仮病を使って反乱を企てていた」という説や、「父の刺客に暗殺された」といった過激な噂話も登場しますが、当時の公式な史料の多くは病死として記録しています。
お互いに遠く離れた土地で暮らしていたからこそ、病気という不幸と、連絡の行き違いによる誤解が重なり、最期に親子の再会を果たせないまま亡くなってしまった可能性が高いのではないでしょうか。
ジョチ ウルス(キプチャク ハン国)の成立と子孫たちの繁栄
ジョチの死後、その領土は息子たちに受け継がれました。
領地の中心を継いだのは、次男のバトゥです。長男オルダはバトゥを支えながら、ジョチ・ウルス東部を治めました。
ジョチの死から十年ほどたつと、バトゥは2代皇帝オゴデイの命によってヨーロッパ遠征を指揮します。
バトゥの軍はキプチャク草原を進み、ルーシ諸公国や東ヨーロッパへ侵攻しました。これによって、ジョチ家の支配地域はカザフ草原からキプチャク草原、東ヨーロッパまで広がります。
ジョチ家の国はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)と呼ばれています。ジョチの子ベルケも、のちにジョチ・ウルスの君主となりました。
シバンやトカ・テムルの子孫からも後世の君主が出ています。ジョチ家の子孫はユーラシア西部の各地で長く続きました。
ジョチ自身はモンゴル帝国の君主にはなりませんでした。しかし、ジョチが父から与えられた西方領土は息子たちの遠征と統治によってさらに広がります。
ジョチが任された領地と軍が、のちのジョチ・ウルスにつながっていったのです。
まとめ
ジョチのイメージは「出生に疑惑のある悲劇の長男」とか「弟のチャガタイと喧嘩ばかりしている苦労人」といった部分ばかりがクローズアップされがちです。
しかし実際の歴史の記録を見てみると、若いころから父を支えて最前線で戦いシベリアの部族を服属させ、金やホラズムとの戦いでも軍功を挙げた、有能な軍事指導者だったことがよく分かります。広大な草原だけでなく、中国北部にも領地を持っていたというのも、彼の多才な足跡を物語っていますね。
彼が病気で父とすれ違ったまま亡くなったのは残念ですが。その遺志を継いだ息子のバトゥたちがヨーロッパを揺るがすほどの勢力になった歴史を見ると、ジョチの残したものがどれほど大きかったかがわかります。


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