オゴタイ・カアンはモンゴル帝国の第2代皇帝です。
歴史の専門分野では オゴデイ とも呼ばれます。
チンギス・カンの三男だったオゴタイは兄ジョチとチャガタイの対立を背景に後継者へ選ばれ、モンゴル帝国で初めてカアンを名乗った人物です。金朝の滅亡やヨーロッパ遠征を進める一方で、首都カラコルムや駅伝制度ジャムを整え、征服した領土を巨大な帝国として治める土台を築きました。
この記事で分かること
- オゴタイのプロフィールとチンギス・カン一族の家族関係
- オゴタイが後継者に選ばれた理由とカアンの意味
- 金朝攻略やヨーロッパ遠征など在位中の主な功績
- カラコルム建設やジャムなど帝国統治の仕組み
オゴタイ(オゴデイ)カアンとは
プロフィール・家族構成
名前: オゴデイ(別表記:オゴタイ、オゲデイ、ウゲデイ)
君主号: カアン
廟号: 太宗
生年: 1186年ごろ
没年: 1241年
在位: 1229年〜1241年
父: チンギス・カン
母: ボルテ
兄: ジョチ、チャガタイ
弟: トルイ
子: グユク、コデン、クチュなど
オゴタイは、チンギス・カンと正妃ボルテの間に生まれた三男です。兄にジョチとチャガタイ、弟にトルイがいました。のちに元朝からは「太宗」という廟号を贈られています。
オゴタイの家系図

モンゴル帝国皇室家系図
名前の違い:オゴデイ?オゴタイ?ウゲデイ?
オゴタイの名前は様々な書き方があります。
従来は「オゴタイ」の表記が一般的でしたが、研究者の間ではモンゴル語に近い「オゴデイ」にすべきという意見もあります。
そのため一般書籍・メディアなどでは「オゴタイ」、専門書では「オゴデイ」と書かれることが多いです。ただしモンゴル語本来の発音には「ウゲデイ」の方が近いという意見もあり。名前の書き方は混乱しています。
この記事では一般に馴染みのある「オゴタイ」と書きます。
モンゴルで最初にカアンの称号を使った皇帝
オゴタイはモンゴル帝国の君主として、初めて「カアン」という称号を用いた人物とされます。
「カアン」は「カン」よりも上のランク。王の中の王=皇帝のような意味をもつ称号です。
チンギス・カンが即位した頃はまだモンゴル部族の王でした。チンギス・ハンが勢力を拡大し、オゴタイが継いだころには多くの民族を従える巨大な国の君主となっていました。
そこで多くのカン(王)を従える君主を意味する称号 可汗(カガン)を復活、モンゴル風に「カアン」と呼びました。さらに14世紀以降には「ハーン」と発音が変わります。
なのでカアンの意味としては「皇帝」と同じです。
チンギス・カンの三男として育ったオゴタイ
オゴタイは、父テムジン(のちのチンギス・カン)が勢力を拡大していく激動の時代に育ちました。
オゴタイは17歳ごろにジャムカの軍勢との戦いに参加しています。この戦いでオゴタイは重傷を負ってしまいますが、父の側近ボロクルに救出されました。
その後、1806年に父のチンギス・カンが即位してモンゴル帝国が建国すると、王族の一員として所領を与えられました。
オゴタイは若いころから父に従って金朝遠征やホラズム遠征などの大規模な戦争に参加し、戦場での経験を積んでいきました。グルガンジュの攻略など、各地の戦闘で兄たちとともに軍を率いています。
若いころから王族として実務的な経験を積んでいたのでした。
なぜオゴタイが後継者に選ばれたのか
後継者問題でチャガタイとジョチが対立
チンギス・カンの後継者選びは、すんなり長男が継ぐ形にはなりませんでした。そこには家族間の複雑な事情があったようです。
ジョチは正妻の子で長男でしたが、出生をめぐって王族内で複雑な見方がありました。チャガタイはジョチを頑なに認めようとせず、二人は後継者をめぐって対立しました。
どちらか一人を後継者に選ぶと王家の中での争いが深まるおそれがあったのです。
こうした状況の中で、チンギス・カンの妻の一人であるイェスイ皇后が遠征を前にして後継者をあらかじめ決めておくようチンギス・カンに促しました。
争いのない形としてオゴタイが選ばれる
親族が集まって話し合いが行われた結果、対立するジョチとチャガタイの双方が三男オゴタイを後継者にすることに合意しました。
オゴタイの穏やかな性格などが考慮された結果だったようです。チンギス・カンもこの提案を認め、オゴタイが次の有力候補となりました。
1227年にチンギス・カンが死去した後は末子のトルイがしばらくの間、摂政として国政を主導しました。
その後、1229年にモンゴルの諸大王や貴族が集まる会議(クリルタイ)が開かれ、オゴタイが正式にカンとして即位することになりました。
オゴタイの時代に進んだモンゴル帝国の拡大
オゴタイが即位した後のモンゴル帝国は複数の方面へと同時に軍隊を派遣。その領土を大きく広げていきました。主要な遠征は次の4つの方面に分けることができます。
金朝の滅亡
父の時代から続いていた金朝との戦いは、オゴタイの時代に決着を迎えます。オゴタイは弟のトルイとともに金朝の攻略を進め、鳳翔や開封、蔡州といった都市を順番に攻め落としました。そして1234年に金朝を滅亡させました。
中東・コーカサス方面
西アジア方面へは、将軍チョルマグン・ノヤンが率いる軍勢が派遣されました。かつて対立していたホラズムの残党であるジャラールッディーンを制圧し、ペルシアやジョージア、アルメニアといった方面へと帝国の影響力を広げていきました。
高麗・南宋方面
東アジア方面では、朝鮮半島の高麗への侵攻が行われました。
また、金朝を滅ぼした後は南の南宋とも対立関係に入り軍事行動が始まっています。ただし、南宋の征服はオゴタイの時代には完了していません。
ヨーロッパ遠征
オゴタイの時代を代表する大きな動きが西方遠征です。チンギス・カンの長男ジョチの血筋であるバトゥや、名将スブタイらが軍を率いてルーシの諸公国(ロシア方面)やポーランド、ハンガリー方面へと進出しました。1241年にはレグニツァの戦いやモヒの戦いでヨーロッパの軍勢を破っています。
この遠征は、同年にオゴタイが急死したという知らせが届いたことで、軍を引き返す形となりました。
カラコルム建設と帝国のしくみづくり
チンギス・カンは各地への遠征を重ね、モンゴル高原を中心とする勢力を巨大な帝国へ広げました。ただし、その統治には遊牧民国家として受け継がれてきた仕組みが多く使われていました。
ところが支配地域が中央アジアや中国北部にまで広がると、従来の方法だけでは各地に命令を伝え、税を集め、軍に物資を届けることが難しくなります。
オゴタイは父から受け継いだ領土をさらに広げながら、広大な地域を一つの帝国として治めるための制度を整えていきました。
その一つが、カラコルムの建設です。カラコルムには宮殿が置かれ各地から集められた職人たちの居住区も作られました。仏教、イスラム教、道教、キリスト教の礼拝施設があったともいわれます。さまざまな民族や信仰を持つ人々が暮らす帝国の中心地として整えられていったのでしょう。
オゴタイは耶律楚材ら行政の知識を持つ官僚も採用。征服した土地からどのように税を集めるのか、住民や物資をどのように把握するのかといった課題に対応するためです。遠征によって領土が広がるほど戦場で指揮する将軍だけでなく、財政や行政を担う人材も必要になりました。
交通と通信の面では、ジャムと呼ばれる駅伝制度が帝国各地へ広げられました。主要な道に駅を置き、馬や食料を用意することで、使者は馬を乗り継ぎながら長い距離を移動できます。カアンの命令や各地の報告を早く届けるために、ジャムは欠かせない制度になりました。
また、商人に資金を与えて交易を行わせるオルトクの仕組みや紙幣の流通も進められました。各地の物資や富が帝国内を行き来するようになり、遠く離れた地域同士を結ぶ動きが強まっていきます。
チンギス・カンの時代に広げられた領土を、組織を持つ帝国として治めるための基礎はオゴデイの時代に固められていきました。
後のモンゴル帝国が広い地域を支配し、交易や人の移動を支えることができた背景にはジャムをはじめとするオゴデイの政策がありました。
オゴタイの人物像と酒の逸話
歴史書に記されたオゴタイは温厚で魅力があり、聡明な人物であったと伝えられています。
政治を行う際も自分だけで判断を下すのではなく、将軍や官僚たちの意見をよく聞いて有能な人物を用いる傾向があったようです。
その一方で、オゴタイには酒癖の悪さにまつわる逸話が多く残されています。あまりにもお酒を飲むため、周囲の心配から飲酒の回数や量を監視する役人を付けられたという話があります。
ところがオゴタイは、飲む回数を減らす代わりに特大の杯を作らせて、一回に飲む量を増やしてしまったというユーモラスなエピソードも伝わっています。
こうした酒癖の話がある一方で、統治者としては周囲の意見を取り入れる柔軟さを持っていたようで、人間味のある人物像が見えてきます。
オゴタイの死とその後
1241年、オゴタイは亡くなりました。数日間にわたる狩猟と飲酒を楽しんだ後に体調を崩して亡くなったとされています。
歴史書の『世界征服者史』には、その死の前に狼を逃がした話など、不思議な逸話も書き残されています。
オゴタイの死は、その後のモンゴル帝国に大きな影響を与えました。進行中だったヨーロッパ遠征軍が帰還することになったほか、後継者をめぐる問題が発生したのです。
オゴタイ自身は生前は息子のクチュを後継者に考えており、クチュが早世した後は孫のシレムンを後継者に望んでいたようです。
ところがオゴタイの死後は妻のドレゲネが摂政として実権を握り、ドレゲネの息子グユクが次のカアンに即位しました。
この後継者選びをめぐる対立は、西方にいたバトゥとの関係悪化など、のちの帝国内部の対立へとつながっていくことになります。
まとめ
チンギス・カンが領土を広げた人物なら、オゴタイはその領土を組織的な運営ができる巨大国家としてまとめる基礎を作った人物といえるでしょう。
後のモンゴル帝国が広い地域を支配して各地の人や物資を結ぶことができた背景には、オゴタイが進めた制度づくりがありました。
金朝の滅亡やヨーロッパ遠征、酒にまつわる逸話に比べると、こうした政策は目立ちにくいかもしれません。
でも私はオゴタイはモンゴル帝国を征服国家から組織的な帝国へ進化させた皇帝としてもっと評価されてもよい人物だと思います。
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