中国ドラマ『如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』に登場する第一皇子(大阿哥)永璜(えいこう)は乾隆帝(弘暦)の長男です。
乾隆帝の長男として重要な存在ですが、「この人物は本当に実在したの?」と気になる方も多いのではないでしょうか。
実際の永璜は清の第6代皇帝・乾隆帝の庶長子として生まれ、わずか22歳で世を去りました。
この記事ではドラマでの描かれ方と史実の永璜の生涯をわかりやすく解説します。
ドラマ『如懿伝』に登場する第一皇子(大阿哥)
永璜の誕生と幼少期
永璜は乾隆帝(弘暦)の長男として生まれました。母は弘暦の侍妾だった富察 諸瑛です。諸瑛の実家は富察氏でも正室の富察 瑯嬅とは別の家です。
生母の富察 諸瑛は 永璜が幼い頃にこの世を去ってしまい、母を亡くした永璜は宮中の阿哥所(皇子たちが暮らす場所)で育ちました。永璜は皇帝の息子ですがろくな世話を受けていませんでした。
如懿による養育
その後、永璜は皇帝の命令で嫻妃 如懿の養子になります。このころはまだ純粋で穏やかな性格で、永璜と如懿は実の親子のように良い関係でした。
如懿が皇子を殺害したと濡れ衣をかぶせられた時も永璜は如懿の無実を訴えましたが、乾隆帝は聞き入れませんでした。
純妃が養育
でも如懿が冷宮に送られることになり、永璜は如懿と引き離されてしまいます。養母を失った永璜は乾隆帝の命令で純妃(蘇綠筠)が育てられることになりました。
この育て親の変更が彼の将来に大きな影響を与えることになります。
永璜は純妃の元で育つ中で長男のプライドに周囲の思惑が重なり、彼はやがて野心的な人物へと変貌していくのです。
野心と誤解に翻弄される第一皇子
如懿が冷宮から戻った後、永璜は彼女に再び親しく接するようになります。彼は如懿を「母上」と呼び続け、頻繁に彼女の宮殿を訪れてはかつてのような親しそうに振る舞いました。
如懿もかつて可愛がった永璜との再会を喜んで以前のような愛情を注ごうとします。でも、永璜の心は変わっていました。彼はかつての純粋な少年ではなかったのです。彼は皇位継承者への強い野心を持つようになり、長男ということで皇太子の座を狙うようになっていました。
如懿と親しくするのは野心を実現するための手段に過ぎません。彼は子どものいない如懿を味方につければ、皇位継承に有利だと考えて彼女を利用しようとしたのです。
この残酷な事実を知った如懿は悲しみました。かつては心優しかった皇子はいつのまにか目的のためなら手段を選ばない野心家になっていました。如懿は宮廷の厳しい環境が少年の心を歪めてしまったのを思い知るのでした。
金玉妍の策略と永璜の誤解
さらに後宮の妃嬪たちの策略が永璜を間違った方向へ歩ませてしまいます。
孝賢皇后が崩御した後、皇子たちはみんな悲しみを表していましたが。永璜と三阿哥は涙を流さす、冷静な態度を保っていました。
永璜は純妃の助言や、海蘭の策略によって「感情を抑えて理性的なことが、皇帝が皇太子に求める資質だ」と誤解していたのでした。
さらに金玉妍は「実母を死に追いやったのは孝賢皇后だ」と吹き込み、永璜は信じてしまいました。
生母の死を皇后のせいだと信じ込んだ永璜は、皇后の喪儀で悲しみを表す必要はないと判断したのも、涙も見せなかった原因の一つでした。
乾隆帝の叱責と皇太子の道
でも葬儀の場での永璜の冷静な態度は乾隆帝を激怒させました。皇帝は永璜と三阿哥の涙のない姿を母への「不孝」と、権力を狙う「不忠」の現れだと判断。
皇帝は二人を叱り、特に永璜に対しては長男なのを理由に皇太子の座を狙っていると非難。彼らが皇位を継ぐ資格はないと宣言したのです。
これで永璜の皇太子への道は完全に閉ざされてしまいました。
悲劇の最期
希望を絶たれた永璜は失意のあまり病に臥せってしまいます。それでも金玉妍の言葉をを信じ込んで実母を殺したとされる孝賢皇后を恨んでいました。
皇帝から見捨てられた永璜は日ごとに衰弱。ついに危篤状態になってしまいます。
如懿が心配して駆けつけると、彼はようやく如懿に酷いことをしたと謝り、嘉嬪の言葉によって皇后を恨んでいたことを告白します。
皇帝も駆け付けようとしましたが。皇帝がやってくる前に息を引き取りました。
第一皇子は実在した?史実の永璜

第一皇子(想像図)
史実の第一皇子・永璜(定安親王)
ドラマ『如懿伝』に登場する第一皇子(大阿哥)には、実在のモデルがいます。
それが乾隆帝の長男 愛新覺羅・永璜(えいこう) です。
- 生年月日:1728年7月5日
- 没年月日:1750年4月21日(22歳没)
- 父:乾隆帝(清朝第6代皇帝)
- 母:側室・哲憫皇貴妃 富察氏
- 称号:定安親王(追尊)
幼少期と家族
永璜は乾隆帝の最初の男子として誕生しましたが、母は側室だったので嫡子ではありません。
それでも雍正帝の初孫として大切に育てられます。
母は早世。死後「哲憫皇貴妃」と追尊されました。
永璜は幼くして母を失います。
のちに結婚して2人の男子をもうけますが、自身は22歳という若さで亡くなってしまいます。
運命を分けた「葬儀での失態」
史実でも永璜は「母の死」と「皇后の葬儀」をめぐって不運に見舞われました。
乾隆帝が深く悲しんでいた孝賢皇后(富察氏)の葬儀で永璜は十分に悲しみを表さず、笑顔さえ見せてしまったと記録されています。
父・乾隆帝は激怒。「皇位はない」と言われ永璜は「後継から外された」と感じて心を閉ざすようになります。その後うつ状態になり、病で22歳で早世しました。
史実とドラマの共通点
共通点
- 長男ですが皇位を継げなかった
- 皇后の葬儀で涙を見せなかった。
- そのため皇帝を怒らせ、皇位継承権をはく奪される。
- 若くして病死
といった点は、ドラマの描写と史実は同じです。
違う所
- 如懿(嫻妃)に育てられた。
- 子のない嫻妃を利用しようとする野心家。
- 金玉妍(嘉妃)の策略で孝賢皇后を母の仇と信じた。
という部分は作り話です。
まとめ
- 『如懿伝』の第一皇子(大阿哥)永璜は権力争いに翻弄されて早逝した悲劇の人物
- 生母は孝賢皇后ではなく、同じ富察氏の富察·諸瑛
- ドラマでは如懿や金玉妍との関係が強調されている
- 史実でも乾隆帝の長子・永璜として存在し、22歳で亡くなった
ドラマ『如懿伝』に登場する第一皇子・永璜は実在の人物。劇中では最初は優しい皇子でしたが、皇位継承への野心が芽生え、策略家としての一面もありました。孝賢皇后の葬儀で泣かなかったので乾隆帝を激怒させ、皇位継承権をはく奪、失意のまま病死しました。
ドラマと史実は脚色された部分もありますが、基本的な流れはよく似ています。史実では失態した理由が曖昧でしたが。ドラマでは本人の野心と妃嬪たちの策略が描かれさらに説得力のあるものになっています。
他の乾隆帝の皇子たちの生涯は 乾隆帝の皇子 17人の史実と「瓔珞」「如懿伝」の比較 をご覧ください。
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