永琪は清朝の第6代皇帝・乾隆帝の第五皇子。
子供のころから勉強熱心で 乾隆帝が最も高く評価していた皇子でした。
しかし骨結核という難病にかかり25歳でこの世を去ってしまいます。
長生きしていれば次の皇帝になったかもしれません。
史実の 永琪 はどんな人物だったのか紹介します。
栄純親王 永琪 の史実
どんな人?
姓:愛新覚羅(日本語:あいしんかくら、満州語:アイシンギョロ)
称号:栄純親王 (えいじゅんしんのう)
没年月日:1766年4月16日
享年:25
彼が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
家族
母:愉貴妃(ゆきひ)珂里葉特(ケリュテ)氏
側室:側福普 索綽羅氏
如格格、
詳しくは記事の最後で紹介します。
父は乾隆帝(けんりゅうてい)
父は清朝の第6代皇帝 乾隆帝(けんりゅうてい)
愛新覚羅 弘暦(こうれき)。
5代皇帝 雍正帝の4男として生まれ、将来を期待されていました。雍正帝の死後、即位。第6代皇帝となりました。乾隆帝は清朝の領土を広げ、王朝の全盛期を築きました。康煕帝~雍正帝~乾隆帝の時代は清朝にとって最も活発で栄えた時代といわれます。
永琪は乾隆帝が30歳のときに誕生した子供です。
生母は愉貴妃 珂里葉特(ケリュテ)氏
生母 珂里葉特(ケリュテ)氏は貴人だった珂里葉特(ケリュテ)氏。
永琪は珂里葉特氏が27歳のときに産んだ子供。
珂里葉特(ケリュテ)氏は永琪出産後に愉嬪に昇格。その後は愉妃、最終的に愉貴妃になっています。
モンゴル出身の側室。珂里葉特氏の父エルジトゥは高い官職ではなく、実家に力はあまりありませんでした。乾隆帝お気に入りの皇子・永琪の母ということで後宮でも一目置かれる存在でしたが。彼女自身はとくに寵愛された側室でもなく。永琪の死後は影響力を失いました。
永琪の生涯
勉強熱心で多彩な才能
1741年3月23(乾隆6年)に誕生。
永琪(えいき)は勉強熱心な子供でした。中国語、満州語、モンゴル語を習得しました。乗馬、刀剣術、武道、絵画、絵画も得意です。
芸術活動するときは「藤琴居士」のペンネームを使っています。
当時の清には西洋から様々な科学が伝わっていました。永琪(えいき)は科学にも興味を持ち、天文、地理、暦法、数学を勉強します。
幾何学で使われていた「甲乙丙丁」の記号を「ABCD」に変えました。その計算精度は充分高かったといいます。
乾隆帝のお気に入り
乾隆帝は勉強熱心な息子が気に入り、第15皇子の顒琰(後の嘉慶帝)とともに可愛がりました。
1741年3月23日(乾隆22年)永琪(えいき)は覚羅鄂弼の娘と結婚。結婚式が行われる前には永琪は宮殿を訪れ乾隆帝と皇后に挨拶。乾隆帝と皇后を抱きしめました。
結婚式当日。妻の実家・覚羅家を訪れて結婚式を行い、翌日には宮殿を訪れ皇帝・皇后・妃嬪たちに挨拶しました。
1760年(乾隆25年)。紫禁城の北東にある兆祥所に引っ越し。
その年の4月には第4皇子の永珹も移り住みました。
火事で父親を背負って脱出
1763年(乾隆28年5月5日)。乾隆帝は円明園の九洲清宴殿で和親王・弘昼、永琪達と端午の節句で宴会を開きます。円明園は清朝が作った離宮です。
ところが宴会場が火事になってしまいました。
弘昼や他の兄弟たちは手がつけられずとまどっています。ところが永琪は火の中に飛び込んで父・乾隆帝を背負って脱出したのです。
乾隆帝はふがいない弘昼や他の兄弟を怒る一方で、永琪を褒め称えたのでした。ますます乾隆帝のからの信頼が大きくなったのは言うまでもありません。
骨壊疽で闘病生活
1765年(乾隆30年)。永琪は風邪のような症状がでました。療養していましたが、やがて寝たきりになってしまいます。
1766年(乾隆31年2月)。乾隆帝は永琪の住んでいる兆祥所に見舞いに行きました。
乾隆帝は病気で苦しんでいる永琪を見てできるだけ早く元気になるよう励ますため「栄親王」の称号を与えました。
清朝では重病の妃や皇子に称号が送られることがよくあります。
清朝では「栄」の漢字には特別な意味があり、皇帝から非常に愛されている者だけに付けられる称号でした。
1766年(乾隆31年3月)。数ヶ月の闘病生活の末病死しました。
骨壊疽という病気でした。現在の病名では「骨結核」という病気です。
結核菌が関節や脊椎に感染して起こる病気。最初は熱や倦怠感・食欲不振がでます。症状が重くなると骨が腐り、歩行障害や寝たきりになります。発病すれば直ちに死亡するという病気ではありませんが。治療の難しい病気です。
愛新覚羅家では骨結核で死亡する人が何人もいました。骨結核に遺伝性があるとは言われていませんので環境的な問題かもしれません。
死後、乾隆帝は永琪に「栄純親王」の称号を与えました。
乾隆帝の子供の中では最初に「親王」の称号を与えられました。
生きていれば次の皇帝だった?
乾隆帝は永琪を高く評価していました。時期皇帝の有力候補でした。
永琪の死後20年たって乾隆帝は
「皇五子は息子の中で最も貴重だ。漢文、満州語、モンゴル語、馬、歩兵、弓術、算術に優れていたが病でなくしてしまった」と清に来ていたイギリスの政治家ジョージ・マッカートニーに語っています。
長生きすれば次の皇帝になったのは永琪だったのかもしれません。
永琪の妻と側室
嫡福晋 西林覚羅(シリンギョロ)氏
満洲鑲藍旗人
永琪の正妻。父は総督の鄂弼。
康煕帝に仕え、雍正帝の腹心・鄂爾泰(オルタイ)の孫娘。
子供
- 六男:夭折
側福晋 索綽羅(ソコロ)氏
左都御史 觀保の娘。
乾隆帝の側室 瑞貴人の従姉妹。
生前は妾。死後、側福晋に昇格。
子供
- 長男:夭折
- 三男:夭折
- 四男:夭折
- 五男:榮恪郡王 綿億
如格格 某氏
詳細は不明。もとは永琪の侍女。
永琪の死後。乾隆31年3月9日。如格格が死亡。永琪の死とあまり日数がたっていないので殉葬の疑いがかけられました。本当に殉葬だったかは不明。
如格格の棺は永琪の棺の西側に安置されました。如格格は当初、側福晋に準じた葬儀を執り行われる事になっていましたが。乾隆帝は認めず、侍女の格式でするように命じました。しかし棺の内側の覆い物や棺のカバー、座布団のカバー、机のカバーなどは、側福晋に準じたものとすることが許可されました。
子供
- 次男:夭折
- 長女:縣君
使女 胡氏
詳細は不明
テレビドラマの永琪
瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
演:陳宥維
瓔珞では生まれたときに黄疸が出て「金瞳」だと騒がれました。史実の永琪が黄疸や金瞳だっという記録はありません。
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
演:屈楚蕭
コメント