アミンは後金・清朝の皇族。ヌルハチの同母弟シュルハチの次男として生まれました。
後金の建国から清朝初期にかけて数々の戦場で活躍した勇猛な武将でした。ヌルハチから厚く信頼され、四大ベイレの一人として重要な役割を担います。
朝鮮との戦いでは総指揮官になり、占領地を自分の領土にして独立しようとしたこともあります。しかし、ホンタイジとの権力闘争に敗れ、悲劇的な最期を迎えました。
この記事ではアミンの生涯をヌルハチとの関係、四大ベイレとしての活躍、ホンタイジとの対立など、様々な角度から深く掘り下げていきます。
朝鮮での戦いなどあまり知られていないエピソードにも注目。アミンの複雑な人物像に迫ります。
アミンの波乱に満ちた人生を通して、後金・清初期の政治や軍事、そして満洲族の社会をより深く理解することができますよ。
ヌルハチの甥アミン
名:アミン(阿敏)生年:1586年
没年:1640年
アミンは後金の建国から清朝初期の様々な戦場で活躍した勇猛な武将です。
家族
母:不明
ホンタイジやドルゴンの従兄弟です。
シュルガチの次男がアミンです。シュルハチはヌルハチとともにマンジュ国の勢力拡大に貢献しました。でもヌルハチから謀反を疑われて処刑されています。でもヌルハチはシュルガチの息子たちは王族として扱い大切にしました。
アミンはヌルハチの下でいくつもの戦場に出ました。女真統一でも活躍しました。
四大ベイレのナンバー2
ヌルハチは後金を建国すると王を補佐する重臣としてアミンを四大ベイレに任命しました。
四大ベイレは
- ダイシャン(次男)
- アミン
- アブダイ(五男)
- ホンタイジ(八男)
の四人。
アミンは「二貝勒(ベイレ)」の地位を与えられました。四大ベイレ筆頭のダイシャンの次に発言力をもっています。アミンはホンタイジよりも年長者で地位は上だったのです。
アミン以外はヌルハチの正妻の子ですから。アミンがどれほどヌルハチから信頼されていたかがわかります。
明・朝鮮連合軍と戦ったサルフの戦いでも明軍を撃退する手柄をたて。朝鮮から来た姜弘烈の軍を破って降伏させたのもアミンです。
アバハイの殉死
ヌルハチ死後。四大ベイレは「ヌルハチの遺言」としてドルゴンの生母アバハイに殉死するよう伝えました。アバハイの殉死については諸説あります。ヌルハチの遺言があったのかもしれませんし。ベイレ達の考えかもしれません。どちらにしてもホンタイジ一人の考えではなかったでしょう。
ハンにはなれない
ヌルハチは後継者を決めなかったので王族会議で次のハンが選ばれました。ヌルハチの正妻の子が有力な候補なのでアミンには資格がありません。
最終的には四大ベイレで最年少のホンタイジがハンに選ばれました。アミンとしては自分がハンになれないなら扱いやすい者を次のハンにしようとしたのは当然かもしれません。ダイシャンにもマングルタイには素行に問題があり、一番無難なのはホンタイジでした。
ヌルハチ時代と違い。王座にハンだけが座るのではなく。四大ベイレが並んで座ることになりました。王族たちは、ヌルハチ時代のような強い権限のハンは必要ないと考え。ハンはベイレ会議の議長のようなものでいい。四大ベイレによる共同統治を選んだのです。
ホンタイジの時代
朝鮮との戦いでは総指揮官
ホンタイジの即位後。朝鮮との戦いが始まりました。アミンは後金軍の総大将になって朝鮮に攻め込みました。ホンタイジは朝鮮領内で活動している明の武将・毛文龍を討伐するように指示しました。アミンは毛文龍は逃したものの、朝鮮軍を打ち破り進撃。平壌まで来ました。
ホンタイジは朝鮮と明の国交を断たせるのが目的で占領する気はありません。モンゴルや明の動きも気にしていたので早めに和睦して戻ってくるように指示しました。
ところがアミンは和平を拒否、しばらく戦闘を続けいくつかの地域を占領しました。朝鮮王が和平の使者を送ってくるとようやく交渉を始めました。
ところがアミンは「私はこの国が気にいった。後金に戻らずにここに残ろうではないか」と仲間たちに呼びかけます。独立宣言です。
甥のドゥドゥ(ヌルハチの長男チュイエンの子)は驚いて「ハンを置いてあなたに付いていくことはできません」と独立を反対しました。アミンの独立は仲間たちの賛成を得られませんでした。アミンは独立をあきらめ朝鮮と和平交渉をまとめました。その後、アミンは腹いせに平壌を3日間略奪して後金に戻ってきました。
ところが戻ってきたアミンをホンタイジは正装して出迎えました。アミンのやろうとしたことは裏切りですが。ホンタイジにはアミンを罰する力がなかったのです。
その後もアミンはモンゴル・チャハル部や明との戦いに出ました。
しかしホンタイジは着々を力をつけていました。
明朝との戦いで失脚
1630年。後金軍は明に攻め込み北京を攻撃しました。このときホンタイジは永平、灤州、遷安、遵化の四都市を占領。ホンタイジはアミンに都市の防衛を任せました。
その後、明の孫承宗が都市を取り戻そうと攻めてきました。兵力で劣るアミンは都市を放棄して撤退しました。
報告を聞いたホンタイジは激怒。ベイレ会議を開きアミンの罪状を話し合いました。このとき過去に朝鮮で独立しようとしたことも問題になりました。
アミンの最期
ホンタイジはアミンから鑲藍旗の指揮権を剥奪して幽閉を命令。一部を残して財産を没収。アミンの弟ジルガランに鑲藍旗を与えました。
1640年。幽閉先で死亡。享年54歳。
この弟のジルガランはホンタイジの死後、ドルゴンと権力争いする人物です。
まとめ
アミンは、ヌルハチの甥として後金の建国から清朝初期にかけて重要な役割を果たしました。
勇猛果敢な武将として数々の戦場で活躍。四大ベイレの一人として後金の基盤を築きました。性格的に問題があったようですが。
アミンはホンタイジの従兄弟で6歳年上。四大ベイレの中でもアミンは序列2位、ホンタイジは4位です。指揮官としてもそれなりに優秀です。
アミンは年長者で力も地位もあるのでホンタイジはなかなかアミンを処分できませんでした。しかし、ホンタイジとの権力闘争や、自身の傲慢な性格が災いして失脚。波乱に満ちた生涯を送りました。
アミンの死後、彼の率いていた鑲藍旗は弟のジルガランに継承され、清朝でも重要な役割を果たしていくことになるのでした。
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