孝昭帝・高演(こうえん)は北斉の第3代皇帝。
彼は東魏の権力者である高歓の六男として生まれ、幼い頃からその才能を発揮しました。兄である文宣帝の暴政を諌め政治的手腕を発揮しました。文宣帝の死後は甥の高殷を廃位し、自ら皇帝に即位しました。
孝昭帝としては民政を重視、税負担の軽減や食料問題の解決に尽力しました。軍事的才能にも優れ、北方民族を討伐し領土を拡大しました。
しかし高殷を殺害したことによる罪悪感に苛まれ、幻覚を見るなど精神的に不安定な状態に陥りました。狩猟中の落馬が原因で26歳という若さで亡くなります。
彼の死後、後を継いだ高湛は高演の息子 高百年を殺害し、高演が恐れていた通りの事が起きました。
この記事では、高演の生い立ちから最期まで史実を紐解きながら、彼の生涯を紹介します。
孝昭帝 高演の史実
どんな人?
諱:演(えん)
地位: 北斉 皇帝
称号:孝昭皇帝
廟号:粛宗
在位:560年9月8日 – 561年11月24日
没年月日:561年11月24日
享年:26歳
北斉の第3代皇帝です。
日本では古墳時代末期になります。
高演の家系図

北斉 皇帝一族 家系図
家族
母:婁昭君
子供:7男1女
高演のおいたち
高演は東魏の天平2年(535年)に高歓と婁昭君の間に生まれました。
高演は六男です。
父の高歓は東魏の権力者
高演は幼い頃からその美しさで父の高歓に溺愛されました。当時、高歓は懐荒鎮に勤務しており、息子のために柔然の皇太子 庵羅辰の娘・郁久閭叱地連と婚約させました。
高演はわずか8歳にしてその堂々とした立ち振る舞いで周囲を驚かせました。服装や帽子は正しく着こなし、表情は静かで奥深く漢人や西域の人達も彼に驚いたといいます。
母は婁昭君
母は高歓の妻・婁 昭君(ろう しょうくん)。鮮卑の出身。東魏の重臣・婁内干の娘。決断力のある女性で婁昭君が高歓を夫に選びました。
高演は六男でした。
文宣帝を補佐する
兄 高洋が北斉を建国
550年には高洋が孝静帝 元善見から位を奪い北斉(ほくせい)を建国。高洋は文宣帝(ぶんせんてい)として即位しました。
高演は政治の才能に長け、細かいことまでよく理解できる人物でした。若い頃から政治に関わり、経験を積んでいきました。
文宣帝を諌める
兄の文宣帝(ぶんせんてい)は酒と女に溺れるひどい皇帝でしたが、周りの家臣たちはみんな文宣帝に取り入ろうとしていました。
しかし高演だけはいつも心配そうな顔をして、文宣帝に何度も意見しました。
文宣帝はそんな高演に
と言いました。高演は悲しくて何も言えず、泣き崩れてしまいました。文宣帝もさすがに反省し「もう酒は飲まない!」と言って酒器を全部壊しました。
でも、結局文宣帝は酒と女をやめることができず、いつもみんなと騒いでいました。それでも高演が現れると、みんなは静かにしていました。
やがて文宣帝 高洋は体調を崩して寝込んでしまいます。
文宣帝は若い高殷を残して逝くのが不安だったのか、楊愔たち重臣に高殷を支えるよう命じる一方で、高洋には
と言い残しました。
やがて文宣帝 高洋は死亡。皇太子 高殷が皇帝に即位しました。
しかし高洋が予想した通り、高殷を支える重臣と高洋は対立します。
高殷の時代
晋陽で高洋の葬儀が行われる間、高演が政務を代行しました。
重臣の楊愔らは高演と高湛を都から遠ざけようと画策していました。高演と高湛は共に都に残ります。
朝廷では高殷を補佐する楊愔たちが政治を主導、財政難を解決するため爵位や恩賞を削減していました。多くの者が不満を持ち抱き、高演を頼るようになります。
高殷と補佐する楊愔と高演たちは対立しました。
高演追放計画の発覚
楊愔らが高演と高湛を刺史として都から追放する計画を立てていることが明らかになりました。
高演は高湛と相談し、楊愔らを排除することにします。
高湛とともに楊愔を捕らえ処刑
高演は高湛の昇進の宴が開かれるので、その席で楊愔たちを捕らえることにしました。
宴の席では湛が兵に合図を送り楊愔たちを捕らました。
すると楊愔は大声で
と叫んで抵抗。
高演は楊愔の言葉を聞いて心が揺らぎ、彼らの命を助けようとしました。でも高湛は「彼らを許してはならない」と高演を説得。楊愔らを捕らえました。
高演は楊愔たちを昭陽殿に連行。そこには婁昭君が堂々と座り、皇帝 高殷と皇太后 李祖娥が怯えています。
高演は跪き楊愔らの罪状を述べ、彼らが国を危うくする存在であることを訴え。彼らの処遇については婁昭君と朝廷に委ねます。
当時、殿内には二千人以上の衛士がいて彼らは高殷を守るつもりでした。しかし高殷は恐怖のあまり兵に命じることもできません。そうしている間に婁昭君が衛士を退かせてしまいます。
婁昭君は高殷に楊愔らの罪状を問い詰めましたが殷は何も答えられず、李祖娥は跪いて命乞い。婁昭君は李祖娥を慰め「高演は謀反を起こしたいのではない身を守りたかっただけだ」と答えます。
高演も高殷に何度も頭を下げました。婁昭君は高殷に高演を慰めるように促しますが、高殷は自分の命乞いをするばかりでした。
結局、婁昭君は楊愔らの処分を高演に任せ。高演は楊愔たちを処刑しました。
高演が皇帝に即位
乾明元年八月三日(560年9月8日)。婁昭君は高殷を廃位して済南王とし。高演を皇帝として即位させました。
孝昭帝の時代
孝昭帝は政治に非常に熱心で、有能な人材を積極的に登用しました。彼のリーダーシップの下、政治は清廉さを保ち民衆は安心して暮らすことができました。
民政重視
- 税負担を軽減し、民衆の生活を第一に考えました。
- 各地に大使を派遣し、民情を視察させました。
- 民衆の苦しみに耳を傾け、政治の改善に努めました。
軍事的才能
- 自ら軍を率いて北方民族を討伐し、領土を拡大しました。
- 敵を打ち破り、多くの戦利品を獲得しました。
- 食料問題を解決した名宰相
- 孝昭帝は、食料問題にも積極的に取り組みました。当時の北斉では食料価格の高騰と輸送難が深刻な問題となっていました。
屯田政策の実施
- 黄河の南北で大規模な屯田政策を実施。
これにより、年間10万以上の食料を確保し、食料不足を解消しました。 - 食料貯蔵庫の設置:
河北に多くの食料貯蔵庫を設置し、輸送難を解決しました。
長期的な食料危機を克服し、民衆の生活を安定させました。
民意を反映した政治
孝昭帝は民意を政治に反映させるために、様々な工夫を凝らしました。
- 諫言の重視:
大臣たちの意見に耳を傾け、政治の改善に役立てました。 - 民意の把握:
大臣たちに直接寝室への訪問を許可し意見交換を行いました。
夜通し政策の議論を行い、民意を政治に反映させました。
法と秩序を重んじた統治
孝昭帝は法律を厳格に適用し、不正を厳しく処罰しました。
- 不正行為を徹底的に排除し、公正な社会を目指しました。
- 周辺諸国との戦争を避け、民衆の負担を軽減しました。
高殷の処刑と後悔
高殷が廃位された時。
婁昭君は息子の高演に孫の高殷の命を絶対に奪わないと誓わせました。しかし高演は結局、後々の禍根を恐れ翌年に高殷を秘密裏に殺害してしまいました。
高殷を殺害した後、高演は深い罪悪感に苛まれ兄の高洋に申し訳ないという気持ちからしばしば幻覚を見るようになりました。
死んだ高洋が剣を持って復讐に来る姿が見え、高演は恐れおののき絶えず悪霊払いの儀式を行いました。
孝昭帝 高演の最後
後に孝昭帝 高演は気晴らしに狩りに出かけましたが、乗っていた馬が驚き落馬して重傷を負ってしまいました。
すると、高演の事故は「文宣帝の悪霊の復讐だ」という噂が流れました。
さらに婁昭君は高演が甥の高殷を殺したのを根に持っていたので、高演が重傷を負っても許そうとはしませんでした。
高演はもし自分が死んで幼い太子・高百年が即位すれば、かつて自分が幼い高殷を廃位して殺害したように長広王・高湛が高百年を殺して皇帝になるのではないか?と心配しました。
そこで考え抜いた結果、高演は皇太子を交代させることにしました。彼は臨終の際に幼い太子を廃位し、弟の長広王の高湛に皇位を譲ると宣言。彼に自分の過ちを繰り返さないように懇願しました。
561年11月24日。高演は怪我が言えぬまま死亡。享年26歳。
彼の諡は孝昭皇帝、廟号は粛宗です。
しかし高演の死後。弟の高湛が皇帝に即位するとやはり高演の息子の高百年を残酷に殺害してしまいます。
孝昭帝 高演の生涯:まとめ
高演は北斉の第3代皇帝として、その短い治世の中で数々の功績を残しました。
彼は民政を重視し食料問題の解決や民意を反映した政治を行うなど、民衆の生活を安定させることに尽力しました。
しかし甥の高殷を殺害したことによる罪悪感に苛まれ、精神的に不安定な状態に陥りました。不慮の事故による落馬が原因で26歳という若さで亡くなりました。
高演は太子で息子の高百年が高殷の様にならないよう、太子を弟の高湛に変えましたが。高演の死後、高湛は高百年を殺害してしまいます。
自分が行なったことは返ってくるのです。
ドラマ
後宮の涙 2013年、中国 演:喬任梁
蘭陵王 2013年、中国 演:高蘭村
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