PR

唐 武宗 李炎(りえん) :与君歌 斉焱のモデルになった皇帝の生涯

唐 武宗皇帝 李炎 5 唐

唐 武宗(ぶそう) 李炎(り えん)は唐の第18代皇帝。

中国ドラマ「与君歌(よくんか)」で成毅(チョン・イー)演じる武宗 斉焱(さいえん)のモデルになった人物。

武宗皇帝は宦官の仇士良に担がれて即位。しかし宦官や藩鎮の勢力を抑え、ウイグルとの戦いに勝利するなど、一時的に唐王朝の中興を担いました。

しかし晩年は道教に傾倒し、大規模な仏教弾圧を行うなどその政治は極端なものへと変化していきます。

この記事を読むことで、以下のことがわかります。
  • 武宗がどのような経緯で皇位に就いたのか
  • 仇士良ら宦官や藩鎮との対立と勝利
  • 会昌の廃仏と呼ばれる大規模な仏教弾圧について
  • 武宗の晩年と死
  • 武宗の政治が唐王朝に与えた影響

 

スポンサーリンク

唐 武宗(ぶそう) 李炎の史実

武宗 李炎の肖像画

唐武宗

出典:wikipedia 唐武宗

どんな人?

姓:李(り)
名:瀍(てん)→炎(えん)
死の12日前に瀍から炎に改名。
廟号:武宗

生年月日:814年7月2日
没年月日:846年4月22日
享年:33

在位期間: 840年2月20日~846年4月22日

日本では平安時代
56代 仁明天皇の時代になります。
武宗が即位した840年に最後の遣唐使が日本に帰国。以後、遣唐使の派遣は途絶えました。

家族

父:穆宗
母:韋貴妃
子:杞王 李峻、益王 李峴、兗王 李岐、徳王 李嶧、昌王 李嵯

 

おいたち

憲宗の時代。
814年(元和)に李瀍(り・てん)が誕生。

父は皇太子 李恒(り・こう)。
後の穆宗。

母は側室の韋氏。
後の韋貴妃。

異母兄には李湛(敬宗)、 李涵(文宗) がいます。

長慶元年(821年)。「潁王」の称号を与えられました。

開成3年(838年)。皇太子 李永が急死。文宗は非常に悲しみ病気になりました。

敬宗(文宗の異母兄)の第六皇子 李成美が太子になりました。

 

皇太弟になる

開成5年(840年)正月。文宗の病は重くなり死期を悟った文宗は宰相の李珏らを太子監国として後を任せました。

神策軍 護軍中尉 仇士良と魚弘志は「太子が幼く病弱で重責を担うのは難しいので李瀍を皇太弟にするべき」と主張。

李珏は反対しましたが、神策軍を率いる仇士良と魚弘志は偽の詔を作って李炎を皇太弟に立てました。

その夜、仇士良は兵を率いて十六宅から李炎を迎え大明宮の少陽院に送り。李炎は東宮の思賢殿で役人たちの出迎えを受けました。

 

スポンサーリンク

皇帝 武宗が権力を手にするまで

開成5年(840年)1月4日(2月10日)。文宗が崩御。李炎が即位、武宗が誕生しました。このとき27歳。

武宗 李炎は即位後、すでに亡くなった生母の韋氏を宣懿皇太后に追尊します。

 

皇族の中の政敵を排除

即位直後の武宗は仇士良の説得を受けて枢密使 劉弘逸と薛季稜を殺害。太子だった李成美を陳王に降格・処刑。文宗の寵妃だった楊妃や、安王 李溶なども処刑しました。

 

牛李の党争を利用

このころ朝廷の臣下は李徳裕派と牛僧孺派に分かれて対立。「牛李の党争」が続いていました。

宦官も李徳裕支持派と牛僧孺支持派に分かれていて、仇士良は牛僧孺派でした。

武宗は李派の中心・李徳裕を呼び戻して宰相にしました。

会昌元年(841年)。武宗は自分の即位に反対した宰相の李珏と楊嗣復を処刑しようとしましたが。李徳裕の説得で左遷しました。

李徳裕は牛派の重臣を次々と追放。

仇士良は李徳裕に危機感をもち禁軍を煽動して李徳裕を追放しようとしました。

李徳裕が武宗に助けを求めると武宗は激怒。宦官を派遣して「歯向かうものは族滅する」と脅しました。

兵士たちは恐れてそれ以上の抗議活動を中止。不利になった仇士良は謝罪します。

 

仇士良と節度使の対立

このころ仇士良は昭義節度使 劉従諫と対立していました。

武宗は表向きは仇士良に味方しつつも、仇士良と劉従諫の不仲を利用して両方をさらに対立させます。

限界を感じた仇士良は会昌3年(843年)に老いと病気を理由に辞職。

仇士良は退職後まもなく自邸で死亡しました。

会昌4年(844年)。劉従諫も病死。武宗は昭義節度使を劉従諫の息子 劉稹に継がせるのを拒否。劉稹は謀反人だとして討伐しました。

こうして即位直後から悩まされていた宦官と節度使の勢力を排除。

一時的なものですが、皇帝の権力を強化しました。

 

スポンサーリンク

会昌の中興

武宗は宰相の李徳裕とともに様々な問題に対処しました。

藩鎮対策

会昌元年(841年)。盧龍軍で反乱が発生。陳行泰が節度使の史元忠を殺害。しかし兵たちによって陳行泰は殺害されました。

武宗は李徳裕の助言を採用して従順な張仲武を節度使に任命。盧龍軍の混乱を収めました。

会昌3年(843年)。昭義節度使の劉従諫が病死。この時代の唐では節度使の世襲は禁止。しかし甥の劉稹は昭義節度使の任命を要求。武宗と李徳裕は反対意見を押し切り、軍を派遣して征討しまいた。

 

ウイグル(回鶻)崩壊後に支配を拡大

840年。それまでモンゴル高原を支配していたウイグル(回鶻)帝国が異常気象と内乱で崩壊。ウイグルの民は散り散りになりました。

会昌2年(842年)。ウイグルの一派が唐の領土に侵入。盧龍節度使の張仲武が討伐。約9万人を捕虜としました。

ウイグルが衰えたので唐は契丹と奚に進軍。そこにいたウイグルの監使を殺して唐の支配下にしました。

ウイグル帝国崩壊後、13部は烏介可汗(ウケカガン)を新しい可汗にしていました。烏介可汗が軍を率いて南下すると武宗は軍を派遣。奇襲を受けた烏介可汗は負傷して逃走しました。

以後、30年近く遊牧民に北の国境を悩まされることはありませんでした。

また、キルギスを服従させました。

 

リストラ

武宗は一度に2000人以上の官吏を削減。経費を大幅に節約しました。

 

道教に夢中になる武宗

道士を宮中に出入りさせる

李炎は藩王時代から道教を深く信仰。道術を熱心に修行していました。

即位後すぐに道士の趙帰真ら81人を宮中に呼んで金箓道場を建設。皇帝になっても道教に夢中になっていました。

李徳裕が注意しても武宗は「時間のあるときに神仙のことを論じているだけだ。政は必ず卿(重臣)に相談するから心配するな」と言って聞きませんでした。

道教のための施設を建設。リストラで浮いた経費を道教に注ぎ込んでしまいます。

 

中国王朝史上最大の仏教弾圧(会昌の廃仏)

メンツを失ったお抱え道士 趙帰真の恨み

あるとき趙帰真たち道士と僧侶の討論があり。趙帰真は論破されてしまいます。

怒った趙帰真は武宗に廃仏を勧めました。

仏教は夷狄(外国の野蛮人)の法だから中国には必要ないというのです。

仏教勢力を減らして税収を増やしたい

道教を信仰する武宗はもともと仏教勢力が大きくなりすぎていると思っていました。

会昌5年(845年)。仏教寺院の破壊を命令。長安の少数の寺院を除き全国の寺院が破壊され。僧尼26万人余りを還俗させ、奴婢15万人と多くの寺院の土地を没収。

中国でも最大級の廃仏でした。

宰相の李徳裕は儒家なので仏教は嫌いです。武宗の廃仏に反対しませんでした。

しかも僧は税の支払いや労役を免除されているので、大勢の僧を還俗させれば税収が増えます。その効果も狙っていたでしょう。

でも僧侶が増えた原因は朝廷にもありました。

唐では僧侶になるには国家資格が必要。安史の乱以降、朝廷の収入を増やすため僧侶の資格を売りました。僧侶になれば税を支払わなくていいので多くの人が僧の資格を購入したのです。

円仁の見た唐

このとき日本から密教を学びに来ていた円仁が廃仏に遭遇。仏教が弾圧されるなか苦労して密教を学んで日本に帰り天台密教の基礎を作ります。そのときの詳しい記録を残しています。

仏教以外も弾圧

仏教だけでなくゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ネストリウス派キリスト教(景教)も弾圧を受けました。

安史の乱以降、唐は世界帝国ではなくなり、異文化への寛容性を失った排他的な中華王朝になりました。

武宗期の宗教弾圧は唐が国際性を失った証明といえるかもしれません。

伝説:叔父の隠れ場所をなくすため?

武宗は叔父の光王 李忱(後の唐宣宗)を皇位を脅かす者だと危険視したので、李忱は身の危険を感じて仏門に逃れました。そのため武宗は仏教を弾圧し、李忱が隠れる場所をなくそうとしたとされています。

でもこれはただの伝説です。

李忱が僧侶だったという記録はありません。

 

道教にハマって病状悪化

武宗は不老長寿を願い、長年にわたって丹薬を服用しました。副作用で性格が怒りやすくなりました。

人々は皇帝を恐れ、李徳裕が寛容になるようアドバイスしましたが手遅れでした。

会昌5年(846年)秋から冬にかけて。武宗は病にかかりましたが、道士たちは「成仙前の骨替え(好転反応)」と偽りました。

武宗は病状を隠しましたが、大臣たちは武宗の健康に疑問を持ち始めます。

 

スピリチュアルで瀍→炎に名前を変える

会昌6年(846年)。武宗はなかなか体調がよくならないので名前を変えることにしました。

武宗の名前の「瀍」はサンズイが就くので五行の「水徳」です。唐は五行説の「土」徳をもつと考えられまたので、水徳は縁起が悪い。そこで火徳の「炎」に名前を変えました。

 

武宗の最期

しかしそんなことで病気が治るはずがありません。

武宗の病状は急速に悪化。10日ほど言葉を発することができなくなりました。

会昌6年(846年)3月23日(4月22日)。李炎は長安大明宮で崩御。享年33歳。

李炎は唐では太宗、憲宗、穆宗に続き仙薬を服用して死亡した皇帝になりました。

 

武宗の次の皇帝

唐武宗には五子がいましたが、生前には後継者を決めていませんでした。

宦官の馬元贄らが嘘の詔を立てて光王 李忱を皇太叔にして即位させました。これが唐宣宗です。

武宗の五人のその後については記録がなく。一説には宣宗によって殺害されたとも言われています。

まとめ:武宗の生涯を振り返って

武宗の治世は華々しい成功と悲劇的な最後が対照的でした。仇士良たちとの権力闘争に勝ち、周辺国の混乱を利用して領土拡大。安史の乱以降、混乱していた唐にとっては久々に明るい兆しでした。

しかし武宗の道教への傾倒、仏教弾圧など、唐は再び混乱へと向かっていきます。

武宗の統治は一時的に唐の権威を回復させました。でも彼の死後、再び宦官や藩鎮の勢力が台頭、唐王朝は衰退します。

武宗の治世は唐が大国として輝やいていた最後の時代なのかもしれません。

 

テレビドラマ

宮心計 2009年、香港 演:蕭正楠
与君歌 2021年、中国 演:成毅(チョン・イー) 役名:斉焱

 

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました