中国ドラマ「風起花抄(ふうきかしょう)」「風起西州(ふうきせいしゅう)」のヒロイン・庫狄瑠璃(こてき るり)にはモデルになった人がいます。
それは華陽(かよう)夫人 庫狄(こてき)氏。
唐時代に実在した人物です。華陽夫人は武則天に仕えた女官でした。
武則天からは非常に信頼されていた人だったようです。
史実の庫狄(こてき)氏はどんな人物だったのか紹介します。
庫狄氏 の史実
どんな人?
名称:不明
国:唐
地位:女官
称号:華陽郡夫人、普国太夫人
生年月日:不明
没年月日:717年
彼女は唐・武周の武則天時代の女官です
日本では飛鳥~奈良時代になります。
家族
母:不明
夫:裴行倹(はい・こうけん)
子供:裴光庭(はい・こうてい)
庫狄氏とは
庫狄氏は鮮卑
庫狄(こてき)という変わった姓は鮮卑(せんぴ)姓。
かつてモンゴル高原で暮らしていた東胡という騎馬遊牧民族。匈奴に追われて大興安嶺にある鮮卑山に移り住んだので鮮卑と呼ばれたといわれます。
三国時代以降、鮮卑は中原に移民して中華王朝の支配者になりました。中国で仏教文化を発展させた北魏。北魏が分裂した東魏・西魏。そこから誕生した北斉・北周の支配階級は鮮卑です。他にもいくつかの国を作っています。
北周で下剋上して隋を建国した楊堅(よう・けん)、唐を建国した李淵(り・えん)も鮮卑の血をうけついでいるといわれます。
だから唐には「祖先が鮮卑」という人がかなりいます。鮮卑の中には楊・李・元・万・慕・長孫のようにすっかり漢人化して漢姓を名乗っている人もいますが。慕容・宇文・尉遲・独孤のように鮮卑姓を名乗り続けている人たちもいます。
庫狄(こてき)氏は鮮卑姓を名乗り続けている一族のひとつです。
華陽夫人 庫狄氏 とは
華陽夫人 庫狄(こてき)氏の生まれた年。両親はわかりません。
華陽夫人の記録はもあまりないのです。
将軍・裴行倹と結婚
時期はわかりませんが、唐の武将・裴行倹(はい・こうけん)の妻になりました。
唐の貴族で武将。「河東裴氏」の一族。その中でも「中眷裴氏」という家系の出身。中眷裴氏には遣隋使の小野妹子に同行して煬帝の使者として日本にやってきた裴世清(はい・せいせい)がいます。科挙の明経科に合格。学問だけでなく戦術にも優れ、様々な戦場で手柄をたてています。
裴行倹には二人の妻がいました。最初の妻・河南陸氏のと後妻の庫狄氏です。庫狄氏は陸氏の死亡後に結婚しました。
唐の時代には家柄が重視され、後妻にもふさわしい家柄が求められました。庫狄氏が結婚したころの裴行倹はすでに武将として出世していました。庫狄氏の家柄は陸氏と同等かそれ以上だったと考えられます。
夫が左遷されて西域に
都の長安で暮らしていた庫狄氏と裴行倹でしたが。
武則天が皇后になるのに反対。高宗と武則天の怒りをかって地方に左遷されました。でも左遷された西域で活躍。長安に戻って来ることができました。
そのため庫狄氏も西域で暮らした可能性はありますね。
年の差結婚だった
高宗の時代。676年に息子の裴光庭(はい・こうてい)を出産。
682年。夫の裴行倹(はい・こうけん)が死亡。このとき裴行倹は63歳でした。
裴行倹には4男2女がいました。裴光庭は裴行倹が57歳のときに生まれた子供で末っ子になります。
さすがに華陽夫人が50代で出産ということはないでしょうから。裴行倹と庫狄氏は親子ほど歳が違う年の差結婚だった可能性が高いです。
武則天に仕える女官になる
683年。高宗が崩御。中宗の時代になりました。
幼い子どもを残して夫に先立たれた庫狄氏は武則天に仕える女官になりました。
庫狄氏がいつ女官になったのか正確な時期はわかりませんが、武則天が政治を行っていた中宗から武則天の時代のようです。
武則天は即位する前年の689年に「女史」を募集。有能な女性官僚を集めました。
興味深いことに武則天に仕える女官には役人だった夫を亡くした女性が何人もいたことです。武則天の周りには若い頃から仕えている上官婉児のような人もいますが、40歳近い未亡人もいました。有能であれば年齢は関係なかったようです。
武則天が皇帝になる直前には、すでに武則天を支える女性スタッフがその周りにいたのです。庫狄氏もその中のひとりだったのかもしれません。
690年。武則天が皇帝に即位しました。
皇帝の側近になる
庫狄氏は「御正」という役職になりました。そのため庫狄御正ともいいます。
「御正」とは西魏や北周時代の官職。皇帝に仕え、詔勅を伝える役職。でも唐朝にはなかった官職なので、武則天が新しく作ったのか。皇帝に仕える側近を昔風に御正と呼んだのでしょう。
しかも武則天からは大変厚遇されたと記録にあります。庫狄氏の宮中での仕事は、武則天の日常的な行政業務を補助、詔勅を書いて顧問として仕えることでした。様々な機密に触れる重要な立場です。
夫の裴行倹は武則天が皇后になるのに反対して左遷されました。だからといって妻の庫狄氏を嫌ったりはしてないようです。
庫狄氏が武則天の信頼を得たおかげで息子の裴光庭は武則天の一族の娘(武三思の娘)と結婚しています。息子はそのまま朝廷で働いて最終的には従二品の役職についています。
武則天の晩年。武則天は病で寝込むようになりました。このときは庫狄氏たちが看病したのでしょうね。
武則天の退位で朝廷を去る
705年。宰相の張柬之たち反乱を起こして武則天を退位させ、皇太子になっていた李顕を再び皇帝(中宗)にしました。このときの粛清は評判の悪かった側近に限られたので庫狄氏に処分はありません。
しかし中宗は武則天につかえていた未亡人たちを解雇しました。
庫狄氏はその後、家で余生をすごします。
中宗の死後、712年に玄宗が即位。庫狄氏が有能だと知られていたのでしょう玄宗は庫狄氏を呼び戻そうとしましたが、すでに高齢になっていたので断りました。晩年は仏教を深く信じていたようです。
717年。死去。
宮廷人としての華陽夫人は武則天ともにあった人生だったかもしれません。
華陽夫人は最初は「華陽郡夫人」の称号が与えられ、その後「晋国太夫人」の称号が与えられました。
一般には「華陽夫人」の呼び名で知られます。
夫婦ではなかった?
歴史上の謎とされているのは裴行倹と華陽夫人は同じ墓には入っていないこと。当時の中国の習慣では夫婦は同じ墓に入る事が多いです。
でも同じ墓に入っていないということは。夫婦ではなかったという人もいます。
しかも年の差がありすぎる。というので若くして死亡した裴行倹の最初の息子の妻だったという説もあります。もちろん裏付けになる根拠はありません。ただの想像です。
事実がどうなのかは謎です。
テレビドラマ
風起花抄 2021年、中国 演:古力娜扎(グーリー・ナーザー) 役名:庫狄琉璃(こてき るり)
風起西州 2023年、中国 演:古力娜扎(グーリー・ナーザー) 役名:庫狄琉璃(こてき るり)
コメント