周瑩(しゅうえい)は中国ドラマ「月に咲く花の如く」のヒロイン
清朝の終わりごろに実在した女性の大富豪です。
呉周、安呉寡婦ともいわれます。
夫や義父の死後、衰退仕掛けた呉家東院を立て直し、商売で大成功しました。清朝時代を代表する大商人になりました。
史実の周瑩 はどんな人物だったのか紹介します。
この記事で分かること
- 周瑩が生きた時代と、分かっている出自や家族関係
- 夫の死後に呉家東院の商売を立て直した経緯
- 文廟の再建や西太后への献金など、周瑩が残した功績
- ドラマで描かれた周瑩と史実との関係
周瑩は実在した?
周瑩(しゅうえい)は中国ドラマ『月に咲く花の如く』のヒロインです。モデルになった女性は清朝末期に実在しました。
歴史上は「周氏」「呉周氏」「安呉寡婦」などと呼ばれています。「周瑩」という名前が本名だったのかは不明です。
周氏は夫の呉聘を若くして亡くした後は呉家東院の家業を支えました。呉家は茶や塩を扱う大商家です。周氏は商売だけでなく、文廟の再建や学校、救済事業にも取り組みました。
1900年に西太后と光緒帝が西安へ避難した際には10万両を寄付。その功績によって一品夫人になったとされます。
ドラマでは波乱に満ちた恋愛や商売が描かれますが、史実の周氏について分かっていることはそれほど多くありません。ここでは『重修涇陽県志』などをもとに、実在した周氏の生涯を紹介します。
周瑩 の史実
いつの時代の人?
- 生年月日:1868年
- 没年月日:1908年3月11日(享年40)
- 姓:周(しゅう)
- 本名:不明、一節には 瑩(ほう)
- 別名:呉周、安呉寡婦
- 称号:一品誥命夫人
呉周氏が生きたのは清王朝の第代皇帝・光緒帝の時代です。日本では明治時代になります。
このころの清はアヘン戦争や太平天国の乱、陝甘地方の戦乱などで国内各地で社会や経済に大きな被害が出ていました。そn一方では各地を結ぶ商人の活動も盛んになっています。
周氏が暮らした陝西省涇陽は茶の加工と販売で知られた土地でした。呉家東院も茶や塩を扱う有力商家でした。
家族
- 父:不明
- 母:不明
- 夫:呉聘(ご へい)
- 子供
- 娘(早世)
- 養子:呉懐先
『重修涇陽県志』では周氏は幼いころに両親を亡くして兄夫婦のもとで育ったとされています。
周家の養女だったという話もありますが、詳しいことは不明です。
夫の呉聘は呉家東院の跡取りでした。二人の子供についても説が分かれています。
『重修涇陽県志』では子供はいなかったとされています。一方、呉家の子孫には、二人には娘が生まれましたが幼くして亡くなったという話が伝わっています。
その後、呉家の男子を養子に迎えました。
養子は呉懐先といい、字は念昔です。後に呉家東院を継ぐ人物になりました。
おいたち
1868年に生まれました。
本名は不明。 ドラマ等では周瑩(しゅう・えい)と呼ばれていますが記録では「瑩」という名前は残っていません。
周家はどのような家だった?
周氏の実家は陝西省三原県(現在の中国・陝西省咸陽市)の商人の家だったといわれます。
周家は清の嘉慶年間には財産を持つ商家になっていて、曾祖父の周占奎は商売で成功して三原に多くの建物を所有していたともいわれます。
その後は財産の分配や戦乱によって以前ほどの勢いはなくなったようです。
両親を早くに亡くして兄夫婦に育てられました。
16歳で病人の呉聘と結婚
周氏は16歳のときに兄が決めた縁談で呉聘(ごへい)と結婚したといわれます。ところが呉聘はすでに病気でした。
結婚の日にも呉聘は人の助けを借りなければ礼をすることができません。周家のある村でも良家の娘がなぜ重病人と結婚するのかと噂になりました。
兄はなぜ妹の周瑩を病気の呉聘と結婚させたのでしょうか?いくつかの説があります。
- 周瑩は周家の養女なので周家のために出ていった。
- 経済的に困っていた周家を救うため兄が裕福な呉家に嫁がせた。
ともいわれます。本当のことはわかりません。
また周瑩の結婚は、病気の呉聘を助けるための「冲喜」だったのではないかとも言われます。冲喜は不幸事があった場合に、めでたいことを行って不幸を追い払おうという迷信です。
しかし呉聘は結婚して10日後に亡くなったとされています。
周氏は十代で未亡人になってしまったのです。
呉聘とは3年間暮らした?
ところが呉家の子孫・呉国華は周氏と呉聘は約3年間夫婦として暮らしたと証言。
その間に娘も生まれましたが生後7、8か月ほどで亡くなったといいます。
いずれにしても夫は若くして死亡。呉家東院には成人した男子の跡取りがいなくなりました。
義父の呉蔚文は周瑩の結婚前に死亡
ドラマでは呉聘の父・呉蔚文が呉家東院の当主として登場します。周瑩が嫁いできた後も呉蔚文は生きていて周瑩や呉聘と一緒に暮らしています。
でも史実では呉蔚文は1876年に亡くなったとされます。
周氏の生年を1868年ごろだと考えると、呉蔚文が死んだときにはまだ7、8歳ほどですから。周氏は呉聘と結婚したあとは義父とは暮らしたことがないのです。
呉家東院の立て直し
どちらにしても、もう呉家には男子がいません。呉家東院の運命は周瑩の手腕に頼ることになってしまったのです。
周氏は呉念を一族から迎えて養子にしました。周氏は呉念子が成長するまで呉家東院を支えました。
当時の陝西では綿布、綿花、茶が主要な産業でした。呉家東院はこれらの商品を扱いました。呉家東院は咸陽茶の6割を扱っていたので、地方にしては裕福でした。
周氏が嫁ぐ前からすでに大きな商家でしたが、呉蔚文、呉聘の死によって呉家東院の勢いにも陰りがみえ衰退に向かっていました。
周氏は絶やすことなく経営を続け。周瑩の堅実で誠実な経営により呉家東院は販売を拡大。清の主要な大都市や港には呉家の支店を出しました。塩、布、薬、米穀、油など様々な商品を扱いました。最盛期には全国に108の支店があったといいます。
周瑩はビジネスで成功しただけなく福祉事業にも熱心でした。当時は災害や戦争で苦しんでいる人々が多い時代です。被災者の救済活動も行いました。学校や寺院の建設も援助しました。
孔子を祀る寺院を再興
周瑩が生まれる前のことです。1862年(同治元年)に陝西省・甘粛省でドンガン人が反乱を起こしました。ドンガン人は中国系のイスラム教徒。そのため「回民蜂起」といわれます。ドンガン人の祖先はアラブ人やペルシア人と漢人(漢民族)の混血。長い年月、漢人と同じ地域に住んでいたので混血が進み、外見は他の漢族と変わりません。
もともと清朝に不満をもっていたドンガン人は陝西にやってきた太平天国の乱に同調して武装蜂起しました。
このとき 涇陽文廟が破壊されました。涇陽文廟は明の時代に作られた孔子を祀る儒教の寺院です。敷地が2000平方メートルを越える大きな寺院でした。
周瑩は、商売で成功して莫大な財産を得ると涇陽文廟の修復をしようと考えました。
1885年。周瑩が一人で4万2千の銀を寄付。3年かけて涇陽文廟を再建しました。
清朝政府は周瑩に「二品夫人」の位を授けました。
涇陽文廟は現在の中国では重点文物保護単位(日本の重要文化財みたいなもの)に認定され「涇陽博物館」になっています。
反乱で逃げてきた西太后を助けた?!
1900年。「義和団の乱」が起こりました。
当時、清の国内では飢饉が起こり流人が発生。アヘン戦争のあと欧米列強の搾取に苦しんでいました。民衆の生活が苦しくなり、宗教団体「義和団」とその信者たちが反乱を起こしました。最初、慈禧皇太后(西太后)は義和団を支持、欧米日の八カ国連合軍と戦わせようとしました。ところが義和団は暴徒化、手当たりしだいに略奪や破壊・殺人を行っていました。
さらに欧米の8カ国連合軍が北京に迫ってきました。
そこで慈禧皇太后(西太后)と光緒帝は北京を脱出、西安に逃れてきました。
その話を聞いた、周瑩は息子の呉念に10万金を届けさせました。
この功績で周は「一品誥命夫人」の称号が与えられました。息子の呉念には二品の位が与えられました。
西太后の義姉妹?
慈禧皇太后が周瑩を 「義姉妹」と認めたと噂されますが、周瑩と慈禧皇太后は直接は会ったことはないといわれます。
周瑩の最後
1908年3月11日(光緒34年12月9日)。死亡。享年40歳。と墓碑には書かれています。
周瑩は家族から感謝され、墓碑には「安呉寡婦」と書かれています。
テレビドラマ
月に咲く花の如く 2017年、中国 役名:周瑩 演: 孫儷(スン・リー)

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