称心は唐の太常寺にいた若い楽人で、皇太子・李承乾に仕えた人物です。
ドラマ『武則天』では皇太子・李承乾の側近として登場、武術に優れた人物として描かれました。
史実でも李承乾からの信頼は厚かったのですが、周囲からは快く思われてなかったようです。
史実での称心とドラマ『武則天』で描かれた腹心としての姿には大きな違いがあります。この記事では史実とドラマの称心を紹介します。
この記事で分かること
- 称心の史実上の身分や李承乾との関係
- 称心の年齢や生没年
- 称心の処刑と李承乾が深く悲しんだ経緯
- ドラマ『武則天』での称心と史実との差
称心とは
プロフィール
- 名前:称心(しょうしん)
- 生年:620年代?
- 没年:貞観13年(639年)冬とする見方がある
- 時代:唐初
- 身分:太常寺の楽人
- 関係者:皇太子・李承乾
家族
父:不明
母:不明
兄弟姉妹:不明
配偶者:不明
子:不明
史実での称心については父母や出身一族は伝わっていません。わかっているのは太常寺の楽人で、皇太子・李承乾に寵愛された若者だったということです。
ところがドラマ『武則天』では、称心の母は北漠に住んでいる設定になっています。北漠はモンゴル高原のことです。歴史書に称心の母が北漠にいたとは書かれていないのでドラマオリジナルの設定のようです。
称心の名前と李承乾との関係
称心という名前は歴史書の『旧唐書』などに書かれている名前です。本名なのか、通称なのか、はっきりしたことはわかりません。
『旧唐書』には李承乾が称心を特に寵愛し、称心と呼んだことが書かれています。称心という字には「心にかなう」「気に入る」という意味合いがあります。李承乾にとって、称心はお気に入りの存在として見られていたのでしょう。
李承乾は唐太宗の皇太子です。称心はその東宮に近い場所にいた若い楽人でした。
称心の年齢
『旧唐書』には称心が「年十余歳」と書かれています。意味は日本語の「10代」と同じ。なので11~19歳だったということです。
称心は太常寺の楽人でした。唐の制度では太楽署に入る年齢は決まりがありました。長安にいる者は十三歳以上、地方の者は十五歳以上、鼓吹署では十六歳以上とされます。
そのため、称心が亡くなったときの年齢は13歳から19歳の間ということになります。貞観13年(639年)冬に亡くなったと考えると、620年代の生まれだったのでしょう。
史実の称心と李承乾
史実の称心は、太常寺の楽人で容姿が美しく、歌舞にすぐれていた若者です。李承乾は称心を寵愛しました。
当初は楽人として東宮にいた称心でしたが、李承乾の周囲には称心のほかに道士の秦英、韋霊符、朱霊感らもいました。道士とは道教に関わる宗教者です。史書では、秦英たちが「左道(さどう)」によって李承乾に近づいたとされます。左道とは儒学者からみて怪しいと思われている呪術やまじないのようなものです。
李承乾は皇太子という立場にありました。父の太宗から見れば、皇太子の周囲にどのような人物が集まるのかは、国の将来に関わる問題だったのでしょう。
李承乾が称心を寵愛したので宮廷内では見過ごせない存在になっていったようです。
称心の最後
太宗は李承乾が称心や秦英らを近づけていることを知ると大変怒りました。そして称心、秦英、韋霊符らを処刑させたと伝わります。このとき称心の件に連座して斬られた者も数人いました。
称心の死について『旧唐書』などの公式史書は、具体的な生年や処刑の詳しい手順までは書いていません。一方で『続高僧伝』などの仏教史料では、秦英と僧・法琳をめぐる仏教と道教の争いが語られます。そこから、称心の死は貞観13年(639年)冬の秦英の事件と結びつくと考えられています。
称心がその争いの中で何をしたのかははっきりしません。李承乾の身近にいたので秦英らとともに処罰の対象になったのかもしれません。
称心を悼んだ李承乾
称心が処刑された後、李承乾は大変悲しみました。
李承乾は魏王・李泰(りたい)がこの件を告げ口したと考えました。李泰は唐太宗の子で、李承乾の弟にです。李泰は太宗から可愛がられていて、李承乾にとっては皇太子の座を脅かす相手でもありました。
李承乾は東宮の中に部屋を作り称心の像を立てました。その前に人形の車馬を並べ、宮人に朝夕の祭りをさせたといいます。さらに東宮の中に墓を作り、称心に官爵を追贈し石碑を建てました。
その後、李承乾は称心の墓の前を歩き回り涙を流しました。そして数か月にわたって病だと言って朝廷に出て皇帝に拝謁しませんでした。
もともと李承乾は皇太子ですから周囲から厳しい視線を受けられる立場にありました。ところが称心の死をきっかけに、李泰への恨みと唐太宗との距離が深まっていったようです。
のちに李承乾は廃太子されますが、そこには李泰との対立や謀反計画など、複数の事情が重なっていました。称心の死は、李泰への恨みをさらに高める出来事だったのかもしれません。
ドラマ『武則天』での称心
ドラマ『武則天』では、称心は何欣(ホー・シン)が演じています。
ドラマでの称心は楽人ではなく李承乾の腹心です。武術も得意です。
父はすでにいないようですが、母親は北漠に住んでいるという設定。
また、称心は太子妃 蘇玫(そばい)からは恋敵のように思われています。ドラマの称心は李承乾と同性愛の関係にあるわけではありませんが、常に一緒にいるので。太子妃 蘇玫は称心を妬んでいるのです。
ドラマでは称心が3年前の狩りで熊から李承乾を守った過去も語られます。この出来事があったので李承乾は称心をさらに信頼しているのです。ただし歴史書には、称心が狩りで李承乾を救ったという話はありません。
さらに称心は眉目のあたりが、李承乾の従弟・李承訓(りしょうくん)に似ているとされます。李承訓は李建成(りけんせい)の子。李建成は唐太宗の兄で玄武門の変で命を落とした人物ですね。
ドラマでは称心の顔立ちに李建成の家計を重ねることで、李承乾と李建成をつなげるような演出が行われているのです。この設定も史実とは違います。
第30集での称心
ドラマ第30集では称心は李承乾の剣によって死んだように見せかけられました。斬られた首が李世民に献上されたように扱われます。
ところが称心は実際には死んでおらず、邙山に隠されていました。邙山は洛陽の北にある山地で、古くから墓地や隠れ場所のイメージとも結びつきやすい場所です。ドラマの李承乾は称心を死んだことにして守ろうとしたのです。
これもドラマ独自の展開です。
第32集での称心の最期
ドラマ第32集では、称心が邙山に隠れていることが徐慧の計略によって李世民に知られてしまいます。
その後、李世民は邙山に向かって称心を斬ります。
史実では唐太宗が怒って称心を殺させたとは書かれていますが、李世民が直接斬ったわけではありません。
まとめ
称心は、唐の太常寺に所属した若い楽人です。容姿が美しく歌舞にすぐれていたため、皇太子・李承乾から気に入られていました。
太宗は李承乾が称心や秦英らを近づけていることを知って怒り、称心を処刑させました。称心の死後は李承乾は大変悲しみ、東宮に像や墓を作り、称心を祭らせました。
仏教史料では秦英と法琳をめぐる仏教と道教の争いも関わっていたように書かれています。称心自身がどのように事件に関わったのかは、はっきりしませんが、李承乾のそばにいた若い楽人が、皇太子の私生活と宮廷内の争いの中で命を落としたのは確かなようです。
ドラマ『武則天』では、称心を何欣が演じています。李承乾の側近で、北漠に母がいる孝行息子。蘇玫の恋敵でもあります。狩りで猛熊から李承乾を守った過去や、李承訓に似た顔立ち、邙山に匿われるのもドラマ独自の描写です。
史実の称心は短い記録しかありませんが。ドラマの称心はその短い記述から李承乾にとって重要な刃部として脚色された人物といえます。
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