宮廷の諍い女:甄嬛(しんけい)は実在した孝聖憲皇后 ニオフル氏

甄嬛実在 1.2 清の皇后妃嬪皇太后
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「宮廷の諍い女(甄嬛傳)」鈕祜祿(ニオフル)甄嬛(しんけい)にはモデルがいます。

大清帝国の第5代皇帝・雍正帝の側室。6代皇帝 乾隆帝の生母・孝聖憲皇后(こうせいけんこうごう)鈕祜祿(ニオフル)氏です。

孝聖憲皇后の若い時代を描いたTVドラマが「宮廷の諍(いさかい)い女」。劇中ではヒロインの甄嬛(しんけい)という名前で登場します。続編の「如懿傳」にも登場します。

でも甄嬛と史実の孝聖憲皇后には違うところもあります。

ドラマの甄嬛の紹介と史実の孝聖憲皇后を紹介しましょう。

 

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宮廷の諍い女の 甄嬛(しんけい)

甄嬛(しんけい)とは?

中国ドラマ「宮廷の諍い女(原題:甄嬛傳)」で描かれる甄嬛(しんけい)を紹介します。

出身: 漢軍正藍旗(漢人の貴族)

父: 甄遠道(大理寺の少卿)
異母妹: 浣碧
子供: 朧月公主、第六皇子・弘曕、霊犀公主
養子: 第四皇子 弘曆(名義上の生母)

 

 
 
 
 
 
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宮廷での活躍

甄嬛は秀女(皇后側室候補)として宮中に入り、その美貌と知性で雍正帝の寵愛を受けます。しかし、宮廷は権力闘争の渦巻く場所であり甄嬛も様々な陰謀に巻き込まれます。甄嬛は初めて妊娠したときには流産してしまいます。

宮廷での活躍

甄嬛は、秀女(皇帝の側室候補)として宮中に入り、その美貌と知性で雍正帝の目に留まります。

しかし、後宮は女たちの嫉妬と陰謀渦巻く場所。甄嬛は華妃をはじめとする 妃嬪たちの策略に翻弄されながらも沈眉荘ら友人たちと協力、時には敵を利用しながら徐々に頭角を現していきます。

純元皇后との関係

甄嬛は雍正帝の正室・亡き純元皇后に容姿が似ていたので雍正帝から注目され寵愛を受けました。

でもそれは同時に彼女が純元皇后身代わりとして扱われるという悲劇の始まりでした。

愛と絶望

最初は甄嬛は自分が愛されていると思っていましたし、甄嬛も雍正帝を愛していました。でもやがて彼の冷酷さに失望し宮廷を離れ寺に入ります。

新たな希望

甄嬛は寺でも嫌がらせを受けますが。そこで果郡王と出会い愛し合うようになります。やがて甄嬛は解任しました。

ところが果郡王の死を知り、一族の名誉回復のためにも宮廷に戻ることにします。

復讐

甄嬛鈕祜祿(ニオフル)の姓を与えられ、「第四皇子の母」の立場を手に入れ後宮に戻ってきました。

宮中で皇后や安陵容に復讐。雍正帝の死と乾隆帝の即位を見届け、皇太后の地位にまで上り詰めます。

 

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実在の孝聖憲皇后 鈕祜禄(ニオフル)氏

甄嬛のモデルになったのが乾隆帝の生母・鈕祜禄(ニオフル)氏です。

孝聖憲皇后(こうせいけんこうごう)の称号がありますが、生前に皇后になったことはありません。死後に与えられた称号です。

出身: 満洲鑲黄旗(満洲人の貴族)
姓:鈕祜禄(ニオフル)氏
名:不明

父: 凌柱(四品典儀官。中堅クラスの役人)
子供: 第四皇子 弘曆

 
孝聖憲皇后ニオフル氏

孝聖憲皇后ニオフル氏 の肖像画

ニオフル氏の生涯

  • 1692年:誕生。
  • 1705年: 康煕帝の第四皇子胤禛(いんしん:後の雍正帝)の格格(側室)となる。
  • 1711年: 胤禛の四男・弘暦(後の乾隆帝)を出産。
  • 1722年: 康煕帝死去。胤禛が皇帝(雍正帝)となり、鈕祜禄氏は側室・熹妃(きひ)となる。
  • 1725年: 敦粛皇貴妃 年氏の病死後、雍正帝の寵愛を受け、熹貴妃となる。
  • 1735年: 雍正帝死去。息子の弘暦が皇帝(乾隆帝)に即位し、鈕祜禄氏は皇太后となる。
  • 1777年: 慈寧宮で死去。享年86。

人物像

  • 実家は名門のニオフル氏ですが、彼女の父は四品役人でそれほど地位は高くありません。
  • 彼女が親王の胤禛の側室になったとき、正室の烏喇那拉(ウラナラ)氏、側室の年氏、李氏がいました。
  • 彼女は献身的な性格で病気の胤禛を看病し寵愛を得ました。
  • 第四皇子 弘暦を出産。弘暦は賢く康煕帝からも可愛がられました。
  • 夫の胤禛は後継者争いを勝ち抜き皇帝(雍正帝)に即位。
  • 彼女は熹妃(きひ)になりました。後宮での序列は孝敬憲皇后 烏喇那拉氏・年貴妃、斉妃に継いで4番目。
  • 乾隆帝が即位すると皇帝の生母として皇太后になりました。
  • 乾隆帝から深く敬愛され長寿を全うしました。

後世への影響

鈕祜禄氏は息子の乾隆帝から非常に大切にされ、清史上、最高の人生を歩んだ女性と言われています。鈕祜禄氏は息子の乾隆帝から大切にされ長寿を全う。後の皇太后たちにとって憧れの存在でした。特に西太后は彼女に強く憧れていたと言われています。

 

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ドラマの甄嬛と史実の孝聖憲皇后ニオフル氏の違い。

ドラマ「宮廷の諍い女」は、乾隆帝の生母である鈕祜禄(ニオフル)氏をモデルにした甄嬛(しん・けい)を主人公に、後宮の権力闘争を描いています。しかし、ドラマと史実にはいくつかの重要な違いがあります。

1.実在したニオフル氏は満洲人

ドラマ: 甄嬛は漢軍正藍旗出身の漢人という設定です。漢軍正藍旗とは清朝建国に協力した漢人で、清朝によって旗人(貴族)に取り立てられた一族です。

史実: 鈕祜禄(ニオフル)氏は満洲鑲黄旗出身の満洲人です。

ドラマでは漢人の甄嬛が満洲人の鈕祜禄氏になるために一度宮殿を出た後、皇帝の許可を得て宮中に戻り皇帝から「鈕祜禄」の姓を授けられ、満洲鑲黄旗に移籍するという強引な展開が描かれています。

2. 乾隆帝との関係

ドラマ: 乾隆帝(弘暦)は甄嬛の実子ではなく、別の漢人の側室 李氏が産んだ子という設定です。甄嬛の実子は朧月公主、霊犀公主という架空の人物。第六皇子・弘曕の生母は史実では謙妃劉氏です。

史実: 乾隆帝は鈕祜禄(ニオフル)氏の実子です。

ドラマでは甄嬛が宮中に戻る際に弘暦の母という地位を得て戻ってきます。この設定は「乾隆帝は満洲人の子ではなく漢人だ」という中国人の偏見や都市伝説の影響を受けています。

この設定は、続編の「如懿伝」でも引き継がれています。

3. その他の違い

ドラマでは、甄嬛は後宮で様々な苦難を乗り越え、最終的に権力を握りますが、史実の鈕祜禄(ニオフル)氏は比較的平穏な人生を送ったようです。

ドラマでは一度出家していますが、史実では出家はしていません。

ドラマは後宮の人間関係や権力闘争をドラマチックに描いていますが、史実はより複雑で人間関係も単純ではありません。

まとめ:甄嬛は実在した鈕祜禄氏がモデル

ドラマ「宮廷の諍い女」のヒロイン甄嬛(しんけい)は史実の鈕祜禄(ニオフル)氏をモデルにしていますが、ストーリーや設定はドラマ用に脚色されています。

ドラマと史実の違いを知れば、もっと「宮廷の諍い女」を楽しむことができると思いますよ。

 

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